73.映画館での勇気
天気の良い朝だった。洗濯物も干し終わり、リビングのソファに座ってぼんやりとテレビを見る。
今日は日曜日。
萌は朝からメカの展示会があるとのことで、メカ好きの友達と出かけている。恵利は舞台稽古があるとのことで、先ほど行ってしまった。颯人はダイニングの椅子に座りながら、杏実の入れたミルクティーを飲みながら新聞を読んでいる。
要するに今日は颯人と二人きりだった。
先ほどからテレビをつけているが、内容は一つも頭に入ってこない。
恵利がこの家に住むようになって一週間が経った。
昼夜問わず、稽古があるようでほとんど家にはいない恵利だが、この一週間、嫌というほど恵利と颯人が仲が良いと言うところを見せつけられてしまった気がする。
仲が良い……そう言えば、颯人は否定するだろう。いうなれば、二人の間に恋人同士のような甘い雰囲気は無い。とにかく”自然体”なのだ。何かかと言えば昔の話が出てきて、ポンポンと言い合う二人ははたから見れば喧嘩しているようにも見える。しかし、そこには杏実には入り込めない領域があって……二人にしか作り出せない雰囲気のようでうらやましい。
杏実はあんな風に自然になんでも颯人に言い返すことはできない。そしてそんな二人を見ている杏実に、ときどき向けられる恵利の視線が”私に敵う?”と問いかけられているようで、便宜的な”婚約者”という理由で颯人を繋ぎとめている自分は所詮はニセモノ……二人の邪魔者でしかないのではと思い、辛い。
この一週間、そんな二人を見るたび、颯人と恵利が再びよりを戻すこともあるんだろうか? と何度も考えてしまった。
杏実に何度も「恋人じゃないのよね?」と聞いてきた恵利。こちらに帰ってくる際、颯人を頼ろうと……颯人のマンションに泊まろうとしたぐらいだ。きっと恵利はまだ颯人のことが好きなんだろうと思う。
なら……朝倉さんは?
先日のデート以来、颯人は以前にもまして優しくなったように感じる。キスだって……。
しかし所詮は便宜的に協力してくれているだけの嘘の恋人と、本物の元恋人……とてもそんな相手にかなうわけがないように思えてならなかった。
そう思うなら、断ればいい。なんども自分にそう言い聞かせた。しかし颯人の本当の優しさに触れてしまった今、そうできない醜い自分がいた。
はぁ……
知らずに杏実の口からため息が漏れる。こんなこともう何度考えただろう。
杏実が気分を変えようとテレビのリモコンを取ろうとした時、ダイニングから颯人の声が聞こえた。
「杏実」
その声に顔を上げ、颯人の方を見る。颯人と視線が交差した。
「お前……体調悪いのか?」
「え?」
体調?
颯人の突然の質問に戸惑って目を見開く。熱はないし、これと言って体の調子は崩していない。疲れているように見えたのだろうか?
「いえ。元気ですよ?」
杏実がそう言ってニコッと笑うと、颯人は怪訝そうに眉をひそめた。
「そうか……」
しかし颯人はそう言った後も、杏実から視線を外さない。どうしたんだろうと思って口を開こうとした時、颯人がようやく口を開いた。
「お前。今日暇か?」
「え?」
「暇なら……どっか出掛けるか?」
そう言って杏実の返事を待つように、じっと杏実の方を見ている。一瞬、何を言われているのかわからなかったが、その言葉を理解してたちまち心臓がドキドキしてきた。
一緒に出掛けようと誘ってくれているらしい。視線を外さずにこちらを見ている颯人に返事をしようと思うが、顔が熱くなってきた。
「あの……」
「なんか用事あるのか?」
「いいえ! 行きます……行きたいです!!」
とっさに取り消されるのが嫌で必死で答える。
その杏実の焦ったような様子に颯人は一瞬目を丸くすると、やがてふっと優しい笑顔を見せた。
再び、ドキッと心臓が強く鼓動を打った。
「そうか。じゃあ……どっか行くか」
「は……はい」
その笑顔の余韻を受けて、心臓がドキドキと落ち着かない。
「どこか行きたいとこあるか? 俺は特に希望はない。遠出でも近場でもお前が行きたいとこでいいよ」
「……行きたいとこ……ですか?」
その言葉を受けて、少し考えてみる。
正直言って颯人と出かけられるのならどこでもうれしい。それゆえ、特に希望はない。しかし……そう言えばきっとこの約束は取り消されてしまうだろう。そう思うと何か意見を出さないと……と思う。
……う~ん
その時先日、仕事場の同僚である本宮から映画の割引券をもらったことを思い出す。どんな映画の券かは忘れたが、確か今話題の恋愛映画だった気がする。杏実はあまり映画を見ないのだが(ひとりで映画館に行っても仕方ないので)本宮の兄の会社がスポンサーらしく、“たくさんあるから”と、分けてくれたのだ。映画なんて久しぶりだったので、券をもらった時ちょっと行ってみたいと思っていた。
そう思って颯人にその話をする。
「良いよ。映画……久しぶりだな」
「私もです」
「はは……そうか。じゃあ、用意出来たら言えよ」
そう言って颯人は持っていた新聞を畳むと、ダイニングから出てってしまった。
うれしい!
さっきまでの落ち込む気持ちなんて吹き飛んでしまった。
杏実はテレビを消すと、さっそく自分の部屋に駆け込んだのだった。
映画は邦画。
幼馴染の若いカップルが家族の事情で不運にもわかれてしまい、再会をきっかけにまた恋に落ちるという純愛映画。今人気の俳優や演技派女優を起用していることにより、人気沸騰中らしい。
映画館に着いて、改めてもらったチケットの映画のストーリーをなどを見た時、ちょっと困ってしまった。颯人はこんな恋愛映画は見ないだろうと思ったのだ。しかし違う映画を提案して見たところ意外にも「杏実が見たいならいいよ。せっかくのチケット、もったいないだろ」と、あっさりと承諾してくれたので、その映画を見ることにした。
チケット売り場で割引券を渡し、「大人二枚」と言うと、中の店員さんがしばらくして少し申し訳なさそうに口を開く。
「ただいま、席がほぼ満席でして……お二人を並びでお取りすることができないんですが……」
「え?」
並びじゃない?
……となるとわかれて座らなければならないということだろうか。せっかく二人で来たのに、一緒に見れないのは寂しい気がする。しかし見ない……というのも颯人に申し訳ない気もする。
杏実がどうしようか迷っていると、後ろから颯人が顔を出した。
「どうした?」
「あ……今混んでて、並びの席が無いみたいなんです」
「ああ……そうか。じゃあ……違うやつ見るか?」
その言葉に不覚にもうれしくなってしまう。わかれて座ろうと言われたらどうしようと思っていたのだ。
「はい」
「……あの~」
杏実が颯人に返事をして、もう一度違う映画を選びに行こうとした時、後ろから先ほどのチケットの店員さんが話しかけてくる。
「はい?」
「もしかして……カップルさんですか? このチケット恋愛フェアーのチケットなんで、カップル席が優先的に使えるんです。カップル席なら空きが2つありますよ? 後ろの方になりますけど」
……カップル席?
確かに聞いたことはある。二人掛けのソファー席……だった気がする。なんと本宮のチケットはそんな特権が付いていたのか。
しかし……
チラッと颯人の方を見る。カップルでもないし……そんな席に座ることを承諾してくれるとは思えなかった。
颯人は振り向いた杏実を見ると「いいんじゃないか? 座れてラッキーじゃねーか」となんでもないように言い放つ。
「え!」
「嫌か? 杏実が嫌なら別のでもいいよ」
「いいえ……本当にいいんですか?」
「いいよ」
その意外すぎる返答に戸惑いながらも、返事を待つ店員にカップル席のチケットを取ることを伝える。
―――――――なんだかその響きにドキドキする。
思いがけないシチュエーションにただ胸に手を置いて早まる鼓動を抑えるのに必死になるのだった。
席は思ったより狭かった。カップル席はその名の通り、二人の距離が近くなり、自然に肩や腕が触れあう形となる。杏実は緊張しながらも、なんとなく映画館らしい雰囲気だけのために買ったキャラメル味のポップコーンと飲み物を席の端に置いて、少しでも颯人の邪魔にならないように座りなおした。
本編までは時間があるので、大きなスクリーンにはいろいろな新作映画の宣伝が流れている。
真っ暗な空間だが、満席とあってか、人の話し声や熱気が自然と伝わってくる。久しぶりのその雰囲気にもわくわくした。
その時、トンっと杏実の手の甲に颯人の手が当たった。暗がりだったので杏実はその感覚に驚いて颯人の方を見る。
颯人はその手を口に持っていき、あくびをしている。しかし杏実が視線を向けたのが分かったのか「ああ……悪い」と言って、再びその手を膝に戻した。
杏実はなんとなくその手の動きを目で追う。
大きな手だな……と思う。指がすらっと長く爪も形がそろっていてきれい、繊細に見えてそれは決して細いわけでなくがっしりとしていて手の甲の隆起した骨が男らしい。何よりも颯人の手はいつも温かい。繋ぐと、杏実の手はすっぽり覆われてしまい、ぬくもりが手のひらを伝って伝わってくるのだ。
先日のデート(練習?)のときは常に繋がれていた手。しかし今日は一度も繋いでいない。そもそも……デートではないのだから当然だと言えばそうなのだが、なんだか寂しく感じてしまう。
恋愛って……どんどん欲深くなっていくものなのだな、と思う。
杏実はそんな考えを振り払うように、周りに目を向ける。すると……何やら、かすかに前方から話し声が聞こえてきた。
「……やだぁ~だめ」
「いいじゃん……ちょっとだけ……」
「こんなとこで……あ……」
「大丈夫だって……カップル席だし見えないって」
「だめだって……ちょっと……んん……」
その声と共に、前方の席の頭の影がごそごそと動き始めた。
なななな……
杏実はその光景(と言っても見えない)と時々漏れる声に愕然とする。
「ちょ……それ……ぁ」
……なにやってるんですかぁ~!?
杏実はその声にいたたまれず、顔を真っ赤にする。もちろん状況は見えないのだが、その様子は容易に推測できる。とっさに周りの席の人を見るとみんな聞こえていないのか、特に気にしていないようだ。
颯人は……わからない……恥ずかしすぎて、とても見れそうにない。
これは普通の光景なの? ……カップル席ってこんなことをするとこだったの???(いや……それは間違いだろうがその時はそう思ったのだ)
かすかに漏れる甘い声に耳をふさごうかと考えた時―――――
ガンッ
という大きな音と共に、その前方の席が大きく振動した。見ると、颯人が前方のカップル席を思いっきり蹴っていた。そしてその足をそのまま組む。
椅子に座っていたカップルの男の人が驚いて立ち上がってこちらを見た。いかつそうな金髪の男の人だ。
しかし颯人は臆することなくその体制のまま、まったく申し訳ないとは思っていない声色と口調で颯人は傲慢に言い放つ。
「すんませんね。足が長いもんで」
文句を言おうとしているように見えた男の人だが、颯人の顔を見るなり顔をひきつらせて「……い……いえ……」と言ってそのまま座って小さくなってしまった。
「ちょっと……なんで文句言わないのよ!」
「いいんだよっ……もう前向いてろ…」
「なんで……」
前方からこそこそとそんな声が聞こえる。きっと颯人から氷のような冷たい視線で鋭く睨まれたに違いない。かくゆう経験者の杏実は少しその男の人に同情する。
颯人はやがて悪びれもなく組んでいた足を元に戻すと、その様子を見ていた杏実に向きなおって、イタズラが成功した時のようにニッと笑った。
その顔を見て杏実も自然に笑顔が浮かぶ。
「何も……睨まなくても」
「当然。こっちは我慢してんだ、最低限のマナーだろ」
「我慢?」
杏実が不思議に思って聞き返すと、颯人は何も答えず優しく笑う。
「まあ……この席ならではの出来事だな」
「そうですね……なかなかハードルが高いです」
「はは……」
颯人はその杏実の言葉に楽しそうに笑う。
颯人にとってはなんでもない事でも、杏実にとっては一大事なのだ。
「じゃあ、杏実もなんかしてみる?」
「え?」
「せっかくの機会だし、カップルらしいこと練習してみるか?」
そう言って意地悪そうな笑顔を向けてくる。いつものようにからかっているらしい。
その手には乗らないと思って言い返そうとしたが、颯人の腕が杏実の腰に回され、顔が次第に近づいてきた。
杏実は動揺して、とっさに颯人の胸元を両手で押し戻し「だ……だめです!!」と叫ぶ。
颯人はその声にピタッと動きを止めた。
恐る恐る颯人の顔を見ると、颯人はまるで杏実の反応を予測していたかのように、したり顔を浮かべ、さらに意地悪そうに笑った
「冗談に決まってんだろ」
飄々とそう言い放つと、杏実の腰から手を離して、元の場所に戻ってしまった。
……じょ……冗談?
杏実がその言葉に呆然とする。しかし……颯人はそんな杏実の様子に再び視線を向けると、肩を震わせて「くっくっ」と笑いはじめた。
むぅ……
完全に颯人にいいようにからかわれたらしい。なんだか情けないというか、悔しくなってきた。
こんな些細なことに動揺してしまう杏実とは違い、颯人は慣れているのかサラッとやってのける。
好きな人の言動や仕草に一喜一憂してしまうのは、まさに惚れた弱みなのだろう。しかし……悔しい。結局は杏実が何をしようとも、颯人にはかなわないということなのだ。
それならば、思い切って我が儘になってやろうと思う。普段なら恥ずかしくてできなかっただろう。しかしこの暗がりと二人だけの空間……颯人に追いつきたいという気持ちが後押ししてくれていた。
杏実は笑い終わって楽しそうに前を向きなおった颯人の手を取ると、ぎゅうと握る。
颯人が驚いてこちらを見た。
「やっぱり私もやってみます」
その言葉に、一瞬さらにその黒い瞳が大きく開かれた気がした。それだけ意外だったんだろう。まさに当初の目的を果たしたつもりだった。しかし……自分でやったこととはいえ、颯人の顔を見ると恥ずかしくなって視線を逸らす。横顔に颯人の視線が指さった。
しだいに、今更ながらやめておけばよかった……と後悔してきた。
杏実が「やっぱり……」“やめておきます”と言って手を離そうとすると、颯人も杏実から手を離す。
いたたまれなくなってその手を引こうとした時、颯人の反対の手で手首を掴まれた。
そして、先ほどの繋いでいた手が杏実の手に触れ、指と指の間に颯人の指が絡み合うように繋ぎなおされる。そしてギュッと握られた。
「こっちの方が”らしい”? だろ?」
そう言って杏実を見て優しく笑った。
そのつなぎ方はいつもよりさらに手と手が親密につながっているように感じた。指と指の間から颯人のごつごつとした指の感覚が伝わってきて、ドキドキする。不思議なことにその手がまるで心臓のように、どくどくと鼓動を打っているように感じるのだ。
杏実の気持ちがその鼓動を通して颯人に伝わっていくように。二人の鼓動が互いに重なっていくように。
強く握られた手のひらからは颯人のぬくもりが伝わってきて……やっぱり颯人にはかなわないのだ、と杏実は小さく甘い溜息をついた。




