51.颯人の優しさ
「やっぱり…知り合いだったんだな」
温かい飲み物をいただこうと、杏実がダイニングに足を踏み入れると、颯人が話しかけてきた
颯人は先ほどのラフな服装から黒っぽいスーツ着替えており、エメラルドグリーンのストライプのネクタイをしている。跳ねていた髪はいつものように無造作に整えられており、その姿に思わず見とれてしまう
颯人はマグカップ片手に、テーブルに新聞を広げて読んでいたらしく、杏実が振り返ると、テーブルの新聞を二つに折りたたむ
萌は早くに小テストがあるということで、早々に家を出て行った
「知り合い……だったみたいです」
杏実がそういうと、颯人は苦笑する
「いつ出会ったんだ? あいつむちゃくちゃ人見知りだったろ? 2年前までは、ほとんど家にこもりきりだったし…ちょっと意外だった」
「そうなんですか……?」
「まあな。家族以外にあそこまで懐いてるとこは、見たことねーな」
なるほど……
杏実は、ふと萌に初めて会った時を思い出した
―――――颯人の言っている意味が分かる気がする
「……餌付け……でしょうか」
「は?」
「私……餌付けしてたんです……」
――――
萌と出会ったのは、杏実がこの町に住み始めてすぐ……ホームの運動会のボランティアをしていた時だ
休憩時間にお弁当を持って歩いていると、建物の隅からこっそり見ている萌を見かけたのだ
当時、小学生ぐらいだろう。とにかく物陰からこっそり広場を見ている姿がなんだが可愛くて、つい声をかけてしまったのだ
しかし杏実が声をかけた瞬間、その子はすごい形相で杏実を睨みつけてきた。言葉はない。動物が威嚇するような行動だった。そして杏実が戸惑っている間に、その少女は姿を消してしまった
そして次に萌を見たのは、ホームの夏祭りの時。やはり同じく、暗がりの中で物陰からこっそりと広場を見つめていたのだ
今度は怖がらせないように、出店で売っていた食べ物を持って近づいた
萌は杏実を見ると、初めは同じ反応を見せたものの、食べ物をそっと差し出して、少しその場から離れると近づいてきた
それから行事ごとのボランティアの休憩のたびに、杏実は萌を探しては食べ物を差し出した
まさに動物の餌付け……
それがよかったのか、萌は杏実に次第に警戒を解いていった。萌は特に話はしない。……ただ側にいて、杏実が近況を一人で話すだけ。いつもうつむいていた。でも隣でもくもくと杏実の持ってきた食べ物を頬張りながら、時々杏実の方を寂しそうな瞳で見てくるのだ。杏実は、萌が昔の孤独だった自分のように思えて気になって仕方がなかった
何度目かに名前を聞くと、小さく「も…も」と言った
今思えば“萌”と言おうとして、詰まってしまったのだろう。杏実は杏実で、うまく聞き取れなかったのだ
萌の声は小さいが本当にかわいい。仲良くなるごとに時々笑顔も見せてくれるようになった……目がくりっとしていて顔を上げると、今と同様、その顔立ちは整っていた気がする
行事ごとになると現れる謎の少女。(結局その時は、誰の身内かわからなかった)杏実はこの町で妹ができたような心地だった
しかし萌は、2年前からパッタリ姿を見せなくなった
理由はわからなかった。しばらくは休憩時間が来るたびに、寂しかったのを覚えている
萌と再会できたとき、あまりの変化に本人だとわからなかった
思春期の2年とはめまぐるしいものだと思う
でも、明るく杏実のことをまっすぐに見ることができるようになった萌の変化は、自分のことのようにうれしかった
フミの孫と言う事実が判明したのだ。これからは、もっと会えるかもと思うと、すごくうれしい
「ふ~ん……」
颯人は、萌とどうして知り合い仲良くなったのか、杏実の話をじっと黙って聞いていた(もちろん簡単に説明しただけだ)
しかし話が終わると「……なるほどな。これで納得がいった」と言う
納得?
「仲良くなった理由にですか?」
そんなに稀有なことだったんだろうか
「いや。……萌が、フミ婆に協力した理由に、だ」
「フミさんに協力?」
杏実が不思議そうに尋ねると、颯人は呆れたように杏実を見て言う
「お前、まさか忘れてたんじゃねーだろうな!? ……あの“ゴキブリ”は萌が作ったんだぞ」
「え?!」
そうか……! “萌”と言う名前にどこか聞き覚えがあると思ったら……あの杏実たちをとんでもない目に合わせた犯人。精巧なゴキブリのおもちゃを作り上げた(と思われる)人物の名前だったのだ
「忘れてたな? まったく……」
そう言ってため息をつく
「あの犯人は萌ちゃんだったんですか? あ……ひょっとしてアメリカで趣味を見つけたって、この事だったんですか?」
「そう。メカに嵌まってあんな変わりやがった。結構その仲間ってのも、人とコミュニケーションってより、機械を通して話すみたいなとこがあったから、それで気負うことなく話せたみたいでな……まあそれで話せるようになってきたってわけだ」
「なるほど」
「……じゃねーよ。俺は迷惑被ってんだ……あの“ゴキブリ”にせ……」
そう吐き捨てるように言う
「そういえば……あの時、朝倉さん“いつもと使い方が違う”って言ってましたもんね。今までも被害を受けてたってことですか?」
「まあ……な。あいつ、極度のブラコンだからな。……俺の元カノとか、ちょっと仲良くなった女とか、知った日にはメカで嫌がらせしやがって……しかもやり方が幼稚。……聞いてあきれる。フォローすんのもめんどくさくなって別れたこともある。だからな……お前の時は意外だった」
彼女……
そのフレーズに胸の奥がドクッと嫌な音を立てた
ずっと気になっていたことがある。今―――――彼女はいるんだろうか?
再会してからそんなそぶりはないように思う
しかし……杏実に言う義理はないし、少し話はできるようになったものの、その話題は杏実が触れない限り颯人もいわないだろう
まめに携帯をチェックしたりしているそぶりもない。しかしもともとメールをまめにする方ではなさそうだ
杏実は、不安で嫌な音を立てる心臓の音を無視して、颯人の会話に集中しようと試みた
彼女がいるいない……にかかわらず、杏実が颯人と付き合えるのか?
そこが一番重要であり、困難なのだ
「でも、私に対する嫌がらせ……には変わりないと思います。どう違うんですか?」
「全然違う」
杏実の言葉にそうきっぱりと否定する。颯人しかわからない違いがあるらしい
「……というか、そもそもあの幼稚な手にあそこまで見事に引っかかったのは、お前が初めてだ。萌の、初の快挙と言っていい」
快挙……
あの時は本当に怖かったのだ。しかし”幼稚な手”に引っかかったとは……まるで自分が単純バカと言われたように感じる
杏実が顔をしかめると、颯人は杏実の言わんとしたことが分かったのか「はは…」と笑い声をあげた
「そんな顔すんな。まあ……メカの性能は上がってたんだし、あの状況なら仕方ねーよ。まあ……結果的に杏実の予想通りの行動により、萌の思惑は成功したわけだ。あのメカは、俺たちを親しくさせようとして作ったんだからな」
ああ……
そういえばあの時、颯人はそんなことを言っていた
フミ達は、杏実と颯人をくっつけるために、わざわざ別の部屋を取って、おもちゃを仕込んだのだと
「萌は杏実のことをあらかじめ知ってたから、フミ婆に協力したんだ。いつもなら考えられない。知った時点で、ありとあらゆる妨害をしてる。お前は萌に相当気に入られてるらしい」
「はぁ……」
ここは喜んでいいところなのだろうか?
「……今回の件だって……本当なら俺の前に、萌が真っ先に反対してもおかしくなかったのに…」
今回の件?
不思議に思って聞こうかと思った時、颯人がハッと顔を上げ、時計を確認する
時刻は7時45分を過ぎたころだった
「そろそろ行く」
「あ……。仕事ですね」
「杏実。今日仕事は?」
「昨日……早退するときに今日も休みにしてもらったんです。明日はもともと休みだったので、この二日で体調を整えようと思って」
「そうか……」
今日は……部屋にも帰らなくてはならないだろう
しかし……せめて熱が下がるまでは、ここにいてもいいだろうか? 午前中いっぱい寝させてもらえれば、昼からなら少し体調も回復しているだろう。それからなら、帰れる……気がする
そう思って、そのことを伝えようと口を開きかけた時、颯人はリビングに置いていたカバンを取りながら、杏実に意外な言葉を告げる
「今日の3時以降なら時間が取れる。一度帰ってくるから、一緒に杏実のアパートに行こう。財布とか、当分必要なもんあるだろ」
え?
「もし……それまでに熱が下がってなければ電話しろ。明日にでも行ってやるから。警察にも一応大家から通報してもらったが、体調が戻ればお前も一度行った方がいい。俺も一緒に行ってやるから、その時は言えよ? ……言っとくが……間違っても一人で帰ろうなんて考えんなよ」
そう言って、念押しするように、杏実を睨みつける
「……一緒に行ってくれるんですか?」
「当たり前だろ」
杏実が目を丸くしていると、颯人はそれを見て苦笑する
「それぐらいなんてことないから……頼れ」
「……」
―――――“頼れ”
飾り気のない簡素な言葉。しかし颯人の杏実に対するいたわりの気持ちが伝わってきて胸が熱くなる
まるでその言葉に、心の中に光が灯されたように温かくなった
「もうちょっとしたら、お手伝いの境さんが来るから、なんか作ってもらって食えよ」
颯人はそう言って、うつむく杏実の頭をポンとたたいくと「んじゃ。行ってくるな」と言い、リビングから出て行った
見送ることなんて出来そうになかった
杏実の目から涙がとめどなく流れていたから
昨日、底の見えない孤独を感じた。しかし……颯人の言葉は間違いなく“一人じゃない”そう言ってくれたように感じた
その強さを……杏実に分けてくれた
しばらくリビングにたたずみながら……ただそっと、杏実はその温かさをかみしめていた




