52.新たな生活へ
あれから午前中はぐっすり眠っていた。時計を見ると2時を少し過ぎており、熱は37.4℃。万全とはいかないが、さっきよりは気分もよくなっていた
この様子なら、颯人とアパートに行けるだろうと思い、部屋着から昨日着ていた服に着替える。リビングへ行くとお手伝いの境さんという女の人がおかゆを作ってくれていたので、有難くいただいた
杏実が食べ終わる頃、家のチャイムが鳴り、境さんが「いらしたようですよ?」とにっこりほほ笑んだので、誰だろうと不思議に思っていると、フミと圭だった
二人は杏実を見た瞬間、涙ぐんで心配したと口々に言ってくれた
そのあと、圭になぜもっと早く言わなかったのか……と叱られた
もっともなことだったので杏実も素直に謝ると、圭は何も言わずギュッと抱きしめてくれた
自分は一人じゃない……圭にもそう言われた気がした
三人の様子が落ち着くと、境さんがお茶を用意してくれたので、リビングのソファに座りながらお茶をしていた
杏実がフミの家に泊めてもらったお礼を言うと……意外な言葉が返ってきたのだ
「……え?」
「だからな、杏実ちゃん。今日からここに住みなさい」
「す……?」
「さっきも言ったように、あんな危険なアパートとは知らなかったのもあるが、放置していたあたし達にも責任はある。やはり今後も一人なんて危険じゃ。幸い、ここなら一人じゃないし、治安も良い。部屋も余っとる。ホームにも近い。家賃もいらない。言う事なしじゃ。引っ越しなさい」
……ちょっと待って……フミさんの家に引っ越す?
「ええ~!!! そんなのできないよ!」
「なぜじゃ? 今使ってる客間じゃあ不満かい?」
不満?
いやいや……
「まさか。そんなわけないでしょ……。すごく良いお部屋だと思うけど……そう言う問題じゃなくて、そこまでお世話になれないよ」
そもそもこの土地にきたのは杏実の我が儘だ。そこまでお世話になるわけにはいかない
「遠慮することはないんじゃ。どうせ、部屋は余っとる」
「で……でも、ここに住んでおられる家族の方にだって迷惑が……」
「ああ! それは了解済みじゃ。もともと一緒に住んでおった娘夫婦は、今は別のところに住んでおってな。孫の夏美と萌………しかここにはおらんのじゃ。と言っても、夏美は仕事の関係でほとんど家を空けるんでな、萌一人じゃ何かと寂しいじゃろ? だから女の杏実が一緒に住んでくれたら喜ぶ。もともと二人は知り合いなんじゃろ? 萌はこの話をしたら、飛び上がって喜んでたぞ」
そうだったのか…
萌のことを聞くと心が揺れた。こんな大きな家だ……確かに一人は寂しいだろう
そんな杏実の様子が分かったのか、さらにフミは続ける
「まあ。確かに気を使うかもしれん……だから実は条件があるんじゃ」
「条件?」
杏実が聞き返すと、フミは大きくうなずく
「そうじゃ。ここに住んで、家賃がない代わりに……家事をやってほしい」
「家事? それが条件なの?」
「そう。と、言っても杏実ちゃんも仕事があるだろう? 毎日じゃない。……実はな、ここにいる境さんは昔から家政婦さんとしてここで働いてもらってたんじゃが境さんも高齢で毎日は辛くなってな。今は週3日、掃除・洗濯・食事とやってもらっとる」
フミがそういうと、境さんはフミの後ろから(ずっと後ろで控えていたようだ)、「お恥ずかしい話です……」と杏実に恥ずかしそうに微笑んだ
確かに境さんは、歳は60ぐらいだろう。元気そうな顔色だが、毎日の仕事となるときついのかもしれない
「本来なら、あたしが出て行った時点で、あとは若いもんだけでやればよいことなんだが……誰に似たのか、孫娘どもは揃いにそろって家事が全くできん。境さんのいない日は目も当てられん有様じゃ。……とはいえ、毎回外食っていうのもかわいそうじゃろ。そこで杏実ちゃんに是非頼みたいんじゃ」
その言葉に境さんも「是非、よろしくお願いいたします」と言って深々と頭を下げた
うう……
そんな風に言わると……断りにくいではないか
フミは杏実が住むことは迷惑どころか、助かるとまで言ってくれているのだ。そんな風に言われてうれしくないはずもないし、今のところ住むあてのない杏実にとっては、またとない話だ
“家事”
掃除や洗濯はまだしも食事ともなると好みもあるだろうし、少々不安はあるが、そこは頑張るしかない
杏実は覚悟を決めて、彼女の反応を不安そうに見つめるフミに笑顔で言った
「わかりました。……すごく申し訳ないとは思うけど、ここはフミさんに甘えさせてもらうことにするね」
そう言い頭を下げると、フミはたちまちうれしそうに破顔した
「本当……かい?」
「うん。家事の方は……ちょっと自信ないけど、とりあえず境さんに教えてもらうことにする」
そう言って、境さんにも「よろしくお願いします」と頭を下げると、境さんも優しい笑顔で「こちらこそ」と言った
フミや圭とはタイプが違うが、穏やかそうでとても温かい雰囲気を持った方だと思う
「おばあちゃんは……いいの?」
杏実は黙って話を聞いていた圭の方を見る。圭は優しく笑って杏実の手を取った
「良いも何も、杏実が安全で過ごせるならそれが何よりよ」
「……ありがとう」
昨日までの不安が嘘のようだ
フミの杏実に対する血縁を超えた愛情、圭の温かい言葉、ぬくもり。こんなにも守られていたのかと……心にしみた
杏実は思わずあふれてきた涙をそっと拭った
「と、言うわけじゃ。颯人わかったな」
「いちいち言わなくても、俺は了解したって言ってんだろ」
その声にハッと顔を上げる。前方に座っていたフミは、杏実の後ろ側を見ながらにやりと笑った
杏実はフミの視線を追って振り返る。リビングの入り口に、朝と変わらぬ恰好の颯人が腕を組みながら立っていた
ハッと時計を見ると、針は3時を過ぎたところだった
いったいどこから聞いていたのだろう
再び視線を戻すと、颯人と目が合った
「杏実。熱下がったか?」
「あ……。帰られたんですね、もう時間でした……すみません」
杏実はそう言うと、急いで立ち上がろうと腰を上げた。しかし急に立ち上がったためか、足元がふらつく。とっさに前にいた圭とフミが支えてくれた
「杏実ちゃん大丈夫かい?」
「杏実、大丈夫なの?」
「う……うん、ごめん。急ぎ過ぎたみたい……もう大丈夫」
そう言って二人に笑いかける
杏実が大丈夫、としっかり立って見せると、二人はホッと息を吐き出した
「すみません」
今度は慎重に、颯人の近くまで歩いていく
そんな杏実の様子を颯人は眉を寄せ、訝し気に見据えていた
杏実が颯人の目の前まで来ると、彼の手が杏実のおでこに触れた。大きく柔らかい感触と、ヒンヤリ冷たい感覚が伝わる
「まだ熱あるじゃねーか……電話しろって言ったろ?」
「え……と、これぐらいなら大丈夫だと思って…」
「お前の大丈夫は、ほんと当てにならねーな。無理しなくても明日連れてってやるから寝てろ」
「本当に大丈夫です! 今日中に取りに行きたいものもあるし……着替えもないと不便なので」
「着替えなんて萌にでも借りりゃいいとは思うが……それもそうか。本当に大丈夫なんだな?」
「はい」
杏実がそう言ってきりっと表情を整えると、颯人は苦笑してポンポンと頭を叩いた
「圭ちゃん…」
「フミちゃん…」
その声にハッとフミたちの方を見ると、ニヤニヤと嫌な笑いを口元に浮かべ、二人は杏実たちの方を見ていた
「なんじゃか、いつの間にかなぁ~……」
「なんだか桃色ね~……」
「くそ婆ども! だまってろ!!」
「颯人なんか……いつの間にか携帯教えちゃったりしてるし……今もさりげなく触れちゃったりして……」
「杏実もまんざらじゃないみたいだし……」
『きゃー』
二人は颯人の怒声などどこ吹く風で、向かい合ってはしゃいでいる。“キャー”って……全くどこの女子高生だ
後ろから颯人の不機嫌なオーラが漂ってきて、背中がひやりとする
何か別の話題を……
そう思って、ハッと今日からフミの家にお世話になることになったことを颯人にも伝えておこうと思った
どれぐらい話を聞いていたのかはわからないが、フミの家となると颯人にとっては実家と言うことになるし、ここは自分からも挨拶をしておいた方がいいだろう
杏実がここにいることで、このようなフミたちの冷やかしに、ますます巻き込まれる可能性は高いのだ
「朝倉さん!」
今にもフミたちに雷を落としかねない形相の颯人を振り向かせるの如く、必死で呼びかける
颯人は不機嫌な表情を崩さず杏実に視線を向けた
「あの……先ほども聞かれたかと思うんですけど……今日からこちらでお世話になることになりました」
「知ってるよ……」
「は……はい。ですけど、フミさんの家となると、朝倉さんにとっても実家になるわけですし、一応ご挨拶をしておかなくてはいけないと思って…」
「ん……?」
颯人がその言葉にさらに眉をひそめた
颯人にとっては直接関係のないことなので、挨拶するのは筋違いだと思っているのかもしれない
「えっと……一人暮らしをされている朝倉さんには直接関係のないことかもしれませんが、朝倉さんの身内である萌ちゃんや夏……み?さんとも同居させてもらうことになったわけですし……何かとご迷惑…」
「おい! ちょっと待て」
杏実がそこまで言うと、突然颯人は杏実の言葉を遮る
「お前……ここで、いったい誰と一緒に住むつもりだったんだ?」
「え?」
誰と?
「え……と、萌ちゃんと夏……み?さん?」
杏実が不思議そうにそう言うと、颯人はみるみる鬼の形相に変わる
なにかおかしなことをしてしまったのだろうか!? と怖くなった瞬間、颯人の視線は杏実の頭上を越えてフミたちに向いた
「おい! ババア!! また杏実を騙しやがったな!!!」
……え? 騙す?
その言葉に驚いて颯人を見る
「人聞き悪いねぇ~。あたしゃ、颯人が一人暮らししてるなんて、一言も言っちゃいないよ? ただ……一緒に住んでるとも言わなかっただけさ」
「十分同罪だろう―が!」
颯人はそうフミに吐き捨てると、そのやり取りの意味を考えつつ不思議そうに頭を傾げる杏実に向きなおる
「おい、杏実」
「は……はい!」
「俺もこの家に住んでる。そのつもりで、もう一回考えろ」
……え?
「ええ~!!!」
杏実の声がリビングに響いた
呆れたように肩を落としてため息をつく颯人
ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべるフミ
それを他人事のように、にこやかに見ている圭
やり取りの内容に困ったように顔を傾げる境さん
そうして杏実の新しい生活がスタートしたのだった




