50.萌
「………」
「…………!」
「……」
何か遠くの方で言い合う声がする。微かに……声がくぐもって内容は聞き取れない
誰だろう
ここは……どこだろう
ハッ
おぼろげな意識の中、杏実はパッと目を開けた。とたん明るい朝日が目にまぶしく、思わず目をつむる
再び目を開くと、高く白い天井が目に入った
えっと……
ぼんやりとした意識から、昨日の記憶を引っ張り出す
ああ……そうだ。ここはフミさんの家だった
杏実のアパートの部屋はいつも隣のビルに遮られ、朝日どころか日中もろくに光が入らない。窓が東向きなのか……久しぶりの朝日を浴びて、なんだか心が軽くなるような気がする
杏実は客間とは思えない寝心地の良いベットから、ゆっくりと身体を起こす
やはり一日寝ただけでは熱は下がらなかったのか、少し身体が怠い。しかし……昨日のような関節のきしみなどは感じない。幾分かは下がっているのだろう。しかし喉の痛みはまだ続いていた。それ以外症状が無いので、おそらく扁桃腺が腫れているんだろう
口渇を感じ、ベットサイドに置かれたペットボトルから、ポカリスエットを一口飲みふと、先ほどから微かに聞こえていた声に意識を向けた
声は部屋のドアの向こう側から聞こえてくるようだ
……2人?
声はドアに遮られよく聞こえない
しかし……なにか大きく叫び声がしたかと思うと、部屋のドアが勢いよく開いた
びっくりして思わず、そのドアの方へ視線を向ける。部屋の入り口には髪の長い小柄な女の子?が立っていた
制服を着ている。女の子と思ったが目が合うと……もっと上、15~17歳ぐらいだと思い直す
とにかく―――――美少女だった
その美少女は杏実の顔を見ると、部屋の中に飛び込んできた
「あ……待て! 萌!!」
同時にドアの向こう側から、颯人の声が聞こえる
そして美少女は、そのままベットに座る杏実に思いきり抱きついてきた
「杏実ちゃん!!!」
「!?」
その突然の出来事にびっくりして声を失う
すらりと伸びた腕が首に巻きつき、ふわりとした長い髪が杏実の頬にあたる。杏実は状況についていけず、何度も瞬きを繰り返した
「こら! 萌……杏実から離れろ」
「や! 颯人お兄ちゃんは黙ってて!!」
ドアから颯人が顔を出した。寝起きなのか、いつも無造作ながらも整っている黒い髪が、ところどころ跳ねている。Tシャツに黒のスエット姿は、部屋着兼パジャマなのだろう
杏実はその美少女に抱きつかれながら、呆然とドアの方を見ていたので、自然と颯人と目が合う
颯人は呆れた顔でこちらを見ていた
「杏実。これが萌だ」
萌?
いつかその名前を聞いた気がする。しかし……熱でぼーっといた頭ではよく思い出せなかった。颯人それ以上は何も言わない。詳しく説明する気はないらしい
状況は全く掴めないが、先ほど“杏実ちゃん”と呼ばれたことを思い出す
……私の知り合い?
「あの……えっと……どなたでしょうか?」
杏実が何と言えば良いのかわからず、戸惑いながらもそうつぶやくと、その美少女は杏実からバッと身体を離し、至近距離で話しかけてきた
「杏実ちゃん!? 忘れちゃったの?」
その大きな瞳が寂しそうに、揺れた
ああ……泣いちゃう…
そう思って、何か言おうとした時―――――ふと、この表情に見覚えがあることに気が付く
…………その少女は、髪は短く、体は痩せていて、初めぼそぼそとつぶやく他は、下を向いていた
こんなに美少女だっただろうか
しかし、そのクリクリっとした大きな目、声は……
「も……もちゃん?」
杏実が恐る恐るそうつぶやくと、涙で潤みかけた大きな瞳がたちまち明るく輝く
ああ……そうだ。この表情。……間違いなく、ももちゃんだ
「杏実ちゃん! 思い出してくれたぁ!! 会いたかったよぉ!」
そう言って再び嬉しそうに抱きついてくる
しかし颯人は素早くあみのベットに近づくと、その少女の襟首をつかみ後ろに引っ張った。敢え無く、少女の抱きつこうとした腕は虚空を舞う
「いい加減にしろ! 杏実はまだ熱があるんだぞ」
「颯人お兄ちゃんのバカ!」
「バカはお前だ!」
「バカバカバカバカ………」
「あの……」
少し不毛なやり取りが続きそうだったので、杏実は少し口を挟む
「何!」
「ももちゃん? なんだよね?」
「そうだよ。正確にはね……私、ももじゃなくて萌っていうの。ずっと……言えなくてごめんね?」
そう言って杏実にすまなさそうに微笑んだ
萌?……ああ、そうだったのか
フミさんの身内だからあそこにいたのだ。ずっと気が付かなかった
「そうだったんだ……萌……ちゃん?」
可愛い名前だ。“もも”も可愛かったが、今の彼女にはぴったりだと思う
しかしまさか会わなかった2年の間に、こうも変わるとは驚きだ
あの内弁慶で引っ込み思案だった少女が、こんなに明るくはきはきと、話をしてくれている
「萌ちゃん。私もすごく会いたかった……すごく明るくなったね?」
杏実が笑顔でそういうと、萌は少し恥ずかしそうに顔を赤くした
「颯人お兄ちゃんについて行ってて、2年間アメリカに留学してたの。初めは何にも話せなくて辛かったけど、そこでちょっと趣味ができてね!! 趣味のために勉強したんだ~……そしたらだんだん言葉が分かってきて……仲間もできて、話せるようになったの。まだ……日本ではあんまりなんだけど……こうして目を見て話せるようになったんだよ!」
そう言ってにっこり笑う。その表情は本当にかわいい。妹のように思っていた少女の成長は何よりもうれしかった
「そうか……頑張ったね」
そう言って、いつもの癖で頭をなでた
萌は嫌がることなく、誇らしげに笑顔を見せた




