九段レーシング③
クダンウイングのオークス制覇以降、九段レーシングを取り巻く環境は大きく変わっていた。
その大半は外からもたらされたものだったが、最初に動きがあったのは社内だった。
年明けに彩夏さんから妊娠の報告を受けたのだ。
彩夏さんはいずれ産休・育休に入る。その間、会社の実務をすべて仲町くん一人に背負わせるわけにはいかない。
九段商事に増員を頼み、新たに竹橋くんを迎えることになった。
これで九段レーシングは、社長1人、社員3人の体制になった。
一方、外からは取材が増えた。競馬メディアはもちろん、変わったところでは九段商事グループの社内報や経済誌からも声がかかった。
今日は大司兄さん、智也兄さんと並んで、その経済誌の取材を受けていた。
「重視するのは目です。神楽和彦さんも、馬を見るときはまず目を見るとおっしゃっていましたし」
答えながら、この回答がどう経済に絡むのか不思議でならなかった。
◇◇◇
大司兄さんからは、購入予算の話も持ちかけられた。
「北味ファームのセールに行けば数億の馬も上場されるだろう?あれをお前が見ればGⅠを勝つような馬を見抜けるのか?」
「その自信はあるけど……」
「購入予算を1億くらいまで上げてもいいんじゃないかという話が出ている。
中には、いっそ10億くらい任せて、3億、4億する馬にも手を出した方がいいって意見まである」
「ちょっと待ってくれ、兄さん。そういう馬が全部無事にレースまで行けるわけじゃないんだ。失敗したら数億の損失になる。
1000万、2000万だって大金だけど、何億もする馬を買い漁るのは嫌だな」
「お前なら喜ぶと思ってたんだけどな」
「たしかに馬の数は少しずつ増やしたい。でも、預かってもらえる馬房も必要だし、今付き合いのある先生だけでは限界がある。信用して任せられる先生を増やしてからじゃないと無理だよ」
「わかった。今日の話はいったんなしにしよう。
言葉は悪いが、『安い馬を買って勝つ九段レーシング』そのものにブランド価値があるって意見もあるんだ」
俺は苦笑した。
◇◇◇
その頃、クダンムーンには予定通りクダンアイズを種付けした。葛西牧場から、初回で無事に受胎したと連絡が届いた。
そして6月。
彩夏さんが産休へ入る日が来た。
「会社のことは心配しなくていいです。こっちは俺たちでなんとかしますから」
「その言葉、信じますからね」
◇◇◇
彩夏さんを送り出した直後、ジュライセールの上場予定馬が発表された。
予算をむやみに増やすつもりはない。
去年は俺の買い目を読まれないよう、会場で下見する馬を増やし、セリも代理人に任せた。今年もそのやり方は続ける。
そして、今年は事前調査を行うこととした。要は、セリの前から候補を探し、可能な限り実馬を見て瞳の輝きを確かめておくということだ。
ただし、何百頭もの上場馬を俺が片っ端から見て回るわけにはいかない。
まずは上場馬を多く繋養する生産牧場やコンサイナーを優先して訪問し、上場馬をまとめて確認する。
さらに近親馬のデビュー時期や長期休養歴、故障歴を調べ、木場先生たちの意見も聞きながら候補馬を絞る。その繋養先も訪問する。俺の選別は一頭ずつ時間をかけるものではないので、訪れた先では基本的に全頭を見る。
都合がつく日は、木場先生たちにも同行してもらう。
当然、そこまでの段取りは俺一人では回らない。
仲町くんと竹橋くんは、上場馬の資料整理、牧場への見学申し込み、訪問ルートの設定、宿泊先や移動手段の手配、調教師との日程調整に追われていた。
俺も牧場巡りで忙しかったが、2人の方がよほど大変だ。
牧場巡りは順調に進んでいた。
ところがある日、仲町くんがスマホを差し出してきた。
『九段レーシングの社長さんが当牧場を訪れてくれました。第二のクダンウイングがウチの牧場から?』
訪問した牧場のSNSだった。
もちろん、そんな話は聞いていない。
悪意がないことはわかる。それでも、見学先を知られたら、狙っている馬を絞り込まれかねない。
「来年から、ここはセール前には見に来ない方がいいな」
以前なら、考える必要すらなかったことが増えていた。
◇◇◇
ジュライセール当日。
今年の購入計画は、ジュライセールで3頭。オーガストセールでは、S判定の馬がいれば追加するというもの。
クダンムーンの初仔もいるため、この世代の所有馬は4~5頭程度とする予定だ。
事前に確認していた馬を中心に、フェイクも織り交ぜつつ、改めて状態と瞳を確認して回った。
S判定が1頭。A判定が2頭。
狙った3頭を、すべて予算内で落札できた。
去年とは大違いだ。
続くオーガストセールにも参加したが、S判定の馬はいなかった。
購入枠にはまだ余裕があったが、予定通り追加購入はしなかった。
セールを終えて九段レーシングへ戻ると、仲町くんと竹橋くんもようやく一息ついた。
「お疲れさま」
「来年はもっと効率よく回せます」
仲町くんの言葉に竹橋くんも頷いた。
そこへ高田ファームから連絡が入った。
クダンウイングの調教が、帰厩しても問題ない段階まで進んだという。
ようやく。
クダンウイングが、美浦へ帰ってくる。




