クダンウイング①
「144番は絶対に買いましょう!最悪、予備費を突っ込んでも構いません!」
夏の日高。
1歳馬セールの会場で、彩夏さんが力説していた。
144番の父はクダンアイズ。
彩夏さんがこうなっている理由は、それ以外にない。
一体あの馬の何が、冷静な彩夏さんをここまで狂わせるのだろう。
「まだ木場先生の評価も聞いてませんからね?」
「わかっています。でも、144番ですよ?」
何が「でも」で「144番ですよ」なのかさっぱりわからない。
隣を見ると、木場先生も呆れた顔をしていた。
そういえば木場先生は、彩夏さんが九段レーシングに入社する前から彼女の存在を知っていたらしい。
クダンアイズが走るたびに競馬場で横断幕を掲げ、厩舎へファンレターを送っていたそうだ。
おそるべし、強火のオタ。
とはいえ、俺も144番は欲しかった。
今年はクダンロードの活躍もあって、馬の購入予算を過去最高の7000万円まで増やしてもらっている。
すでにジュライセールで、俺がAに分類した馬を2頭購入した。合わせて3500万円。
そして今回のオーガストセール。
比較展示で馬たちの瞳を確認していると、その中に1頭だけ、久々に見る強い輝きがあった。
144番。
俺の分類ならS。クダンロードやクダンムーンと同じだ。
欲しい。
ものすごく欲しい。
「まずは木場先生に見てもらいましょう」
「はい!すぐ行きましょう!」
駄目だ。今日の彩夏さんはもう止められない。
◇◇◇
144番と、Aに分類した馬たちの個別馬房を回る。
馬体や脚元は木場先生に見てもらい、俺は彩夏さんが用意してくれた資料に目を通した。
近親馬は何歳でデビューしているか。長期休養を経験した馬は何頭いるか。
「144番は問題ないと思います」
木場先生の言葉に、彩夏さんが小さく拳を握る。
まだ買えてませんよ。
他の馬も確認してもらい、A判定では3頭が候補に残った。
問題は、どの馬のセリに参加するかだ。
これまで1世代に買うのは3頭までだったが、今年から4頭まで増やすことにしていた。俺の目があれば、走らない馬ばかりを掴む危険はかなり減らせる。
ただ、闇雲に増やせばいいわけでもない。競走馬は買えば終わりではなく、預託先にも限りがある。
今、九段レーシングがお世話になっているのは3厩舎。先に買った2頭は稲田先生と行徳先生に1頭ずつお願いする予定で、木場先生からは2頭まで預かると言ってもらっていた。
つまり、買えるのはあと2頭。
「Aの3頭は、どれか1頭買えるまで参加しましょう。上限は1000万円で」
木場先生が頷く。
「144番は?」
彩夏さんがすぐに訊ねてきた。
「もちろん、全力で取りにいきます」
「ですよね!」
◇◇◇
先にセリへ出てきたのは、A判定の牡馬だった。
値段は上がったが、上限の1000万円には届かない。
「900万円」
片手を上げる。
次の声はなく、そのまま落札できた。
これで今年3頭目。
残る1枠は、もちろん144番だ。
順番が近づくにつれて、隣の彩夏さんが落ち着かなくなってきた。
「彩夏さん」
「はい」
「俺より緊張してません?」
「そんなことありません」
絶対に嘘だ。イレ込みまくっている。
やがて、144番がセリ場へ姿を見せる。
改めて瞳を見る。
やはり輝きは強い。
600万円。
700万円。
俺が800万円で応じる。
まだ上がると思った。
だが、次の声が飛ばない。
そのまま落札が決まった。
「……800万?」
思わず声が出た。
この輝きが見えているのは俺だけだ。それでも、もう少し競ると思っていた。
クダンアイズの種付け料も下がっているし、その辺りも影響したのかもしれない。
「買えましたね!」
横を見ると、彩夏さんが満面の笑みを浮かべている。
「買えましたね」
「アイちゃんの娘ですよ!」
「そうですね」
「しかも牝馬です!」
「知っています」
彩夏さんが覚悟していた予備費の出番すらなかった。
こうして、九段レーシングの今年の新規購入馬4頭が決まった。
そして、800万円で落札した144番。
この牝馬が後のクダンウイングである。




