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彼が来るのは決まって十六時頃。決まった席に座り、決まってブレンドコーヒーとパフェを注文する。今日もその通りに来た。そして、三十分から一時間ほどの滞在時間をほとんど読書をして過ごしている。白い布のブックカバーをかけているので、何の本かは分からない。ただ、あの女のような指がページをめくる瞬間、熱くて怠いような感覚が私を襲う。体中が熱病に侵されてしまったような感じだ。
ページをめくるたびに、彼は活字を通して何かを知り、彼の内に何か新しい風が吹き込まれる。
私はその本の内容が気になった。最初は純粋に気になっただけだった。だが、次第に肥大する脳内に不穏な影が差し込んだ。私は余計なことまで想像してしまったのだ。
ふと、暗転する。
風呂上りなのか私はバスタオルを巻いて洗面所にいた。周辺に甘ったるい香りが漂っている。私の体はというと、また太ってしまったのか、二の腕や腹回りの肉付きが少し気になった。心なしかバストも少しきつい。自分の頬を触ってみると、とても艶やかだった。試しに腕や首筋、耳の後ろなどをまさぐってみた。まっさらな肌の上をあの指が触れるか触れないかの狭間でゆっくりと走る。口元から漏れ出る息が空気中に溶けて馴染んでいく。実体ではないのに、その感触はとても現実的だった。
そこで、また暗転した。
私はきっちり服を着て、喫茶店の席に座っていた。目線の先にはちょうどオレンジを持った彼がいた。
彼が剥いだ果実が豊かな唇に向かっていく。その瞬間、毎度見ていた光景に目を背けてしまった。
私はカフェインと果糖とともに彼に吸収される活字の女に嫉妬してしまっていたのだ。
ある日の昼休み。
とある企業で事務職員として勤務している私は、同僚の香織とは今年の新入社員のことについて語っていた。
「営業に配属された村上君はK大卒のエリートなんだって。背も高くて、爽やかな見た目。ありゃ、幹部候補生らしいね。今後に期待って感じ? そして、広報の松沢君の実家は資産家でね」
そんな話題を持ちかけながら、頭をフル回転させて、結婚候補を漁る香織。私は毛頭興味のないことだったので、顔の表情筋を動かす努力もせずにいると、香織は話を止め、私に言った。
「なんていうか、あんたも欲がないというか。プラトニックよねぇ。お子様の恋愛ごっこじゃないんだから、もっと肉々しい恋でもしてみればいいのに」
「そんな逆恨みされるような恋は疲れるだけでしょ。何のメリットもない」
私は「肉々しい」を「憎々しい」と聞き間違えた。対する香織は、「何も不倫しろって言っているわけではないわよ」と噴き出した。
「あんたはいつも恋愛のレベルが中学生女子なのよ。美術室の窓からこっそり運動場にいる部活中の彼を見ているみたいな」
「それのどこがいけないの? 甘酸っぱくていいじゃない。そのニクニクシイ恋っていうのは体験したことないけどさ、なんか、ビターチョコをドロドロに溶かしたような、そんな苦さがあるように思うんだけど」
「固体だって液状だって味には変わりないって」
香織は笑う。
「それに、食べてみたら意外と美味しいものかもしれないよ。子どものとき、ピーマン嫌いでも、大人になったらいつの間にか食べることが出来ている。そんな感じ」
「私、ピーマン嫌い」
「食わず嫌いなんだからぁ。それじゃあ克服しなきゃ。もう子どもじゃないんだから、それくらい食べてみなさいよ」
私はピーマンの味を知っているが、アレ単体をオイシイと思える時が来るとも思えなかった。
いつだって私は自分の嫌いな事や知らないことからは避けてきた。自分を構成する世界に不要だと感じれば、それを自ら知ろうともしない。生温い現状に満足と言ったら、ものぐさな感じがして嫌なものだが、その先を知って、四苦八苦するよりはだいぶマシだ。必要ない、そんな乱暴な感情が渦巻いてくる。
無論、そんなことを指摘した彼女にも、私があの喫茶店へ密かな逢瀬をしに行っていることは言っていない。私だけが私だけの世界にひっそりと浸る。まるで、何もない寂れた国道沿いの秘湯に一人で浸かるような、そんな独占的な幸福を覚える。風呂に浸かりながら、静かにあの青年を思う。一枚のセピア色のフィルムの中に彼はいた。彼は笑っていた。その唇は変わらず豊かだったが、目元はノイズらしき加工がしてあり、どのような表情かうかがい知れない。
彼の性格、彼の趣味、彼の家族や友人、彼の思想、彼は――?
結局、私は何も解っていなかった。
昼休みが終わり、香織とともに職場へ戻ると、室内は浮足立った雰囲気であふれていた。
私たち二人の姿を見つけた同期の女子社員は「あぁちょうどよかった」と手招きした。
「何? どうしたの?」
と、香織。
「新入社員の松沢君って知っている? 広報部の資産家の」
そんな断片的な特徴を言われて、さっき香織と話したことを思い出した。温室育ちのお坊ちゃま。ふとそう思った。
「あぁ、ちょうどさっき、私たち話していたのよね。幹部候補生だって」
「そうなの。なら話が早い。その松沢君がおすそ分けくれたのよ。挨拶がてらに 全部の部署を回っているみたい。はい、これ二人の分」
同僚はそういって私たち二人に個包装の菓子を渡した。中身はオレンジピールチョコレートだった。ほろ苦いチョコレートがコーティングされたオレンジの甘酸っぱい香りに少しだけ洋酒の匂いがする。
それらの香りを身に纏った化粧箱が机上に置いてあった。そこからは何やら、毒々しい雰囲気がする。
温室育ちのお坊ちゃまからの贈り物に女子社員は皆、喜んでいたが、私には何だか重すぎる気がした。




