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 実際、私はこれをただの果物だと認識している。だが、細長く白い、女のように華奢なあの指がこれに触れる瞬間、体の中心が熱く、電流が走る。甘美な果実に噛り付き、果汁が溢れ出すのと同時に指先が果汁で濡れていく。暗い室内の中、そこだけ陽の光に当たり、キラキラと艶やかなネイルをしているように見えてきた瞬間、私は我を忘れる。そして、それを気にせずに、果実に貪り付く彼を見ていると、自分の顔が熱くなっていくのにようやく気が付く。

 私は再度、夢想した。よくみると、垂れ目で柔らかい印象の目元、その目元に掛かる髪。それは、決して軽薄な印象のないふわふわとしたもので、全体的に優男といった印象だった。そして、なんといっても肉厚な唇。それは厭味のないセクシーなものだった。そんな唇に誘われるように入っていくオレンジ。

 あぁ、あれが私の指ならどんなに素敵なことかと、何度も思った。

 

 彼はそれを食べ終わると、すぐに店を出ていった。店内の様子は変わらず穏やかだった。彼が店を出てからも。まるで、彼が元から居なかったかのようで、残されたのは空になったパフェのグラスと、スプーン、丸められた紙ナプキンにオレンジ色の皮だけだった。私のテーブルの上にも同じものが同じように置いてあった。ただ、違うのは、まだ口の付けていないこの果物だけであった。一粒、一粒実がぎっしり詰まっている。

 これが、彼に対する私だけの秘密の逢瀬だ。こうして私が彼の行き付けとなっていることを彼はきっと知らない。

 彼と私の出会いもこの喫茶店であった。最初は長身の美青年が座っていると思っただけであった。その日、テーブル席に座った私の視線に、店の奥のボックス席の窓際にひっそりと座る彼が入ってきた。ウェイトレスにブレンドコーヒーを注文してから手洗いのため、彼は席を立った。座っている際は判らなかったが、長身の男だった。次の日もこの店に来ると、彼が座っていた。今度は入店したその瞬間に目に入った。興味本位の人間観察程度の心持だった。

 恋をしたなどという大それた気持ちではないが、彼の魅力に何か誘われるものがあった。例えば、香りで虫をおびき出す、食虫植物のようだ。毒々しい見た目もどこか妖艶で、虫をおびき出す、食虫植物は時にネズミをも溶かしてしまうらしい。そんなことを思い、私は身震いした。彼はそんな毒々しい人物ではない。喫茶店の奥の席に座ると、決まってパフェとブレンドコーヒーを注文し、鞄から毎回文庫本を取り出し、自分だけの世界に浸るような青年だ。窓から差し込む光に暗めの髪が照らされ、毛先がオレンジのように光る。注文されてきた熱いコーヒーに一度口を付けると、それからずっと文庫本を読み進める。時折、冷めかけのコーヒーを口に付けるがパフェには最後まで手を付けない。そんな金色の中に溶け込む彼に毒々しい要素は見受けられなかった。

 強いて共通点を見出すとすれば、見た目ではわからないことだ。香りで虫を騙す植物と、読書をする青年。というのも、あの青年の世界観というものはわからないし、喫茶店の外を出た青年という人物も私にはわからない。この喫茶店という小さな箱の中の彼しかわからない。わかるとしたら、あの青年と私の平行線に続いた妙な無関係だけだ。

 私はため息を吐くとオレンジを残して、席を立った。勘定をすると、重たい扉を開いて、さほど軽くない足取りで家路についた。

 私は都内のワンルームに一人で住んでいるが、帰宅するたびに感じるのは冷たさだ。鍵を開け、冷たいドアノブを握り、冷たい床を進み、風呂など面倒くさい日には、帰宅した足のまま冷たい布団を敷き、冷たい床に伏せる。化粧はシートで落とすだけだ。

 帰宅すると、冷たさで覆われた部屋を照らすべく、電気を点けた。しぃんと静まり返った部屋に音を流そうとしてテレビを点ける。すると、丁度、オレンジジュースのコマーシャルがやっていた。厚い唇に飲み口を付けるシーンで、爽やかなコマーシャルとは裏腹に、妙にセクシーな印象だった。唇のカットの後に、喉元がアップされる。ごくごくと喉仏が鳴る。

なんて厭なもの。私はいきなり映し出された画面を睨んだ。こんな露骨なカットは入れる必要はあるのか? そもそもまだ七時前で、子どもも見ている時間帯であろう。こんなシーンが流れたら、気まずくなるのではないか。そこまで思い、しまったと思った。普段気にならないことに過剰に反応してしまったことにより、一人で気まずくなった。

 結局、終始タレントの顔は映らず、口から喉にかけてのアップのあとに、カミングスーンと出てきた。

コマーシャルを見てから、チャンネルを回すが、特に見たい番組もやっていなかったので、そのままテレビを消した。真っ暗になった画面に人が映っていた。濁りきった目は力なく私を見据えている。それが私自身の姿だと気づいたのは数秒経ってからだった。

 子どものように、無邪気に何かを好きになったり、夢中になったりすることが少なくなったように思う。幼少期、自然にできたそれらのことが、今では、どこか尻込みする。虎穴に入らざれば虎子を得ずとあるが、まさに今の私の為にあるのではないかという気分にさえなる。


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