第138話 名前のない少女
塔の最深部。
光はすでに静まっていた。
巨大な観測機構は沈黙し、世界修正機構も完全に停止している。
何億年も宇宙を管理していた存在は、もういない。
その代わりに。
そこには一人の少女が立っていた。
黒い髪が静かに揺れる。
白い衣服。
そして、まだ少しぎこちない動き。
彼女は自分の手を見つめていた。
指を曲げる。
開く。
握る。
「……不思議です」
小さく呟いた。
「重い」
橘遼は腕を組んだまま、その様子を見ている。
「それが体だ」
少女は橘を見た。
「あなた達は」
「ずっとこれで生きているのですか」
橘は頷く。
「そうだ」
少女は少し笑った。
「大変ですね」
通信の向こうでミアが笑う。
『慣れれば普通ですよ』
少女は少し驚いたように周囲を見た。
「声が」
「遠くから聞こえる」
ユイが説明する。
『通信回線です』
少女は頷いた。
「……便利ですね」
橘は軽く肩をすくめた。
「まあな」
少し沈黙。
少女はゆっくり歩いた。
一歩。
少しふらつく。
二歩。
だが、すぐにバランスを取る。
三歩。
その動きは、少しずつ自然になっていった。
レイリアが言う。
『学習速度がすごい』
ユイが答える。
『元は超高度知性体です』
橘は少女を見ていた。
そして言う。
「名前」
少女が振り向く。
「はい」
「決めたか」
少女は少し考えた。
本当に少しだけ。
だがその表情は真剣だった。
「私は」
静かに言う。
「長い間」
「宇宙を観測していました」
橘は黙って聞く。
少女は続けた。
「星が生まれ」
「文明が生まれ」
「滅びる」
「そのすべてを見てきました」
ミアが小さく呟く。
『宇宙の歴史そのものですね』
少女は頷いた。
「だから」
少しだけ微笑む。
「ソラ」
橘が眉を上げる。
「空か」
少女は言った。
「はい」
そして少し照れたように笑う。
「ありきたりでしょうか」
橘は首を振る。
「いい名前だ」
ミアが言う。
『ソラさん、ですね』
レイリアも言った。
『歓迎するわ』
ソラは少し驚いた顔をした。
「歓迎?」
橘は言う。
「人間の世界へな」
ソラは少しだけ目を細めた。
そして小さく頷く。
「……はい」
そのとき。
ユイの声が入る。
『艦長』
橘が答える。
「なんだ」
『塔の崩壊が始まります』
ミアが叫ぶ。
『え!?』
ユイが続ける。
『観測機構の停止により』
『塔のエネルギー構造が維持できません』
レイリアが言う。
『要するに』
『ここ崩れるわよ』
橘は肩をすくめた。
「そりゃそうだ」
ソラが少し驚く。
「崩れる?」
橘は言った。
「帰るぞ」
ソラは頷いた。
「はい」
橘は通信へ言う。
「ユイ」
『はい』
「迎え頼む」
『了解』
その瞬間。
空間に青い光が走った。
転送フィールド。
ミアが言う。
『回収準備完了!』
橘はソラを見る。
「初めての宇宙旅行だ」
ソラは少しだけ笑った。
「楽しみです」
橘は頷く。
「いい心がけだ」
光が強くなる。
塔の構造が遠くで崩れ始めていた。
何億年も宇宙を見続けた観測装置。
その最後の瞬間だった。
橘は小さく呟く。
「長い仕事だったな」
ソラが聞く。
「誰のですか」
橘は答えた。
「お前の」
ソラは少しだけ空を見上げた。
宇宙の記録が消えていく。
観測の時代が終わる。
そして。
彼女は小さく言った。
「……終わりました」
橘は笑った。
「違う」
ソラが見る。
橘は言った。
「始まりだ」
光が弾ける。
次の瞬間。
二人の姿は消えた。
塔の中心は崩壊し。
宇宙の古い管理装置は、完全に消滅した。
そして。
遠くの宇宙で。
イージス艦〈みらい〉の艦橋に、光が現れる。
ミアが叫ぶ。
『帰還確認!』
光の中から、橘とソラが姿を現した。
ミアが走ってくる。
『艦長!』
橘は軽く手を上げた。
「ただいま」
そしてソラを見る。
「ここが」
「人間の世界だ」
ソラは艦橋を見回す。
人間。
機械。
光。
音。
そして。
彼女は小さく微笑んだ。
「……賑やかですね」
ミアが笑う。
『これが普通ですよ』
橘は言った。
「慣れる」
ソラは頷く。
「はい」
その時。
ユイの声が静かに響いた。
『おかえりなさい』
橘は笑った。
「ああ」
そして言う。
「帰ってきた」
宇宙の管理は終わった。
だが。
人間の物語は、まだ続く。
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