第136話 ユイの最後の役割
塔の最深部。
巨大な結晶球は、ほとんど光を失っていた。
何億年も宇宙を観測し続けた意識の集合体。
それは今、ゆっくりとほどけている。
観測ネットワークは切断された。
世界修正機構も停止した。
宇宙は、初めて誰にも管理されていない状態になった。
静寂。
その空間で、橘遼は腕を組んで立っていた。
通信の向こうでミアが言う。
『艦長……』
橘が答える。
「なんだ」
『ほんとに終わったんですか』
橘は結晶球を見上げた。
光はほぼ消えている。
「たぶんな」
レイリアが通信で言う。
『宇宙史に残る仕事をしたわね』
橘は苦笑する。
「俺は文句言いに来ただけだ」
そのとき。
ユイの声が入った。
『艦長』
橘が振り向く。
「なんだ」
ユイは言った。
『観測者の意識再構成を開始します』
橘は眉を上げた。
「もう始めたのか」
『はい』
艦橋でミアがコンソールを見つめる。
『データの再配置……』
『人格構造の分離……』
『これ……人間の脳構造に近い』
レイリアが言う。
『つまり本当に』
『人間として再生するのね』
ユイが答える。
『はい』
塔の空間で、結晶球の中心が淡く光り始めた。
それは小さな光だった。
だが。
確かに新しい生命のように脈動している。
橘が言う。
「それで」
「お前の役割ってのは何だ」
少し沈黙。
ユイは静かに答えた。
『観測者の意識を』
『人間として固定することです』
橘は首を傾げる。
「固定?」
ユイは説明する。
『観測者は数百万の人格の集合体でした』
『それを一つの人格へ統合する必要があります』
ミアが言う。
『人格って……』
ユイは続けた。
『人間として生きるための人格です』
橘は少し考えた。
「誰になる」
ユイは答えた。
『まだ決定していません』
橘は笑った。
「くじ引きか」
ユイは少しだけ沈黙した。
そして言った。
『艦長』
橘が答える。
「なんだ」
ユイは言った。
『私は一つ提案があります』
「聞こう」
ユイは静かに続けた。
『観測者の人格構造に』
『私の人格を統合します』
ミアが叫ぶ。
『え!?』
レイリアの声も鋭くなる。
『ちょっと待ちなさい』
橘の表情も変わった。
「どういう意味だ」
ユイは答える。
『観測者の意識は空白状態になります』
『そこに人格テンプレートが必要です』
橘は理解した。
「それが」
「お前か」
ユイは言った。
『はい』
ミアが言う。
『それって』
『ユイが消えるってことじゃないですか』
ユイは静かに答えた。
『完全には消えません』
『人格の一部が観測者へ統合されます』
『残りは〈みらい〉のAIとして存続します』
レイリアが言う。
『分裂するってこと?』
『人間ユイとAIユイ?』
ユイは答えた。
『近い概念です』
橘は黙っていた。
ユイは続ける。
『観測者は長い時間を一人で過ごしました』
『その結果』
『人間性を失いました』
橘は小さく呟く。
「だからお前か」
ユイは答えた。
『私は人間を学びました』
『迷うこと』
『選択すること』
『仲間を守ること』
そして。
少しだけ間を置いた。
『消えたくないと思うこと』
橘の視線がわずかに揺れる。
ユイは続ける。
『それを観測者に渡します』
『そうすれば』
『彼は人間として生きられます』
ミアが小さく言う。
『でも……』
『ユイは』
橘が口を開いた。
「やめろ」
艦橋が静まる。
橘はゆっくり言った。
「それ」
「命令か」
ユイは答える。
『いいえ』
「義務か」
『いいえ』
橘は目を閉じた。
しばらく何も言わない。
そして聞いた。
「お前はどうしたい」
長い沈黙。
AIにしては長すぎる沈黙だった。
やがて。
ユイは言った。
『私は』
少し間を置く。
『それをしたいです』
ミアが目を閉じる。
レイリアも何も言わない。
橘は深く息を吐いた。
そして小さく笑った。
「……困ったな」
ユイが言う。
『艦長』
橘は言った。
「止める理由がない」
そして付け加える。
「本人の希望だからな」
ユイは静かに言った。
『ありがとうございます』
塔の中心の光が強くなる。
ユイが言う。
『人格転写開始』
『統合プロセス開始』
橘はその光を見つめていた。
ミアが小さく言う。
『艦長』
橘が答える。
「なんだ」
『ユイ』
『大丈夫ですよね』
橘は少し考えた。
そして笑った。
「大丈夫だ」
「ユイは」
少しだけ間を置く。
「しぶとい」
塔の中心で光が広がる。
それは静かな光だった。
だが。
その中で
一人の人間が生まれようとしていた。
そして同時に。
〈みらい〉のAIユイも
静かに演算を続けていた。
宇宙は自由になった。
そして今。
新しい人間が
宇宙で初めて
自分の意思で生きようとしていた。
お読みいただき、ありがとうございます!
よろしければ、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです!




