赦しの代償
「お兄ちゃん!」
さよは開け放たれた玄関を抜け、横たわる兄の元へ駆けつける。
そして自らの胸に抱き寄せる。瞳から溢れた涙がレクへ降り注ぐ。嗚咽を漏らしながらさよは「ごめんね……」と気絶している兄に向けて繰り返す。
兄を抱く腕が震える。どこか遠くから、五時を告げるチャイムが聞こえた。
豪は側で立ち尽くし、二人を見下ろしている。影が色濃く地面に伸びる。チャイムが鳴り終わる。
どれくらいの時間が経っただろう。
石畳を荒々しく駆ける足音が聞こえた。
「さよちゃあーーーん! サインするでしょぉ~~」
見るとペンと一枚の紙を持った絃歩がこちらに向かって来ていた。口元には縄のクズが付いている。
「お兄ちゃん、死んじゃったのぉ~?」
キョトンと首を傾げる絃歩。
「…………死んでない」
さよの呟いた言葉に、豪の眉根がピクリと動く。そして豪は、絃歩が手に持った書類を一瞥し、それが組織加入を契約する書類だと確認する。
「ようやく、組織に加入する決心がついたようだな」
「…………」
豪は一度息を吐き出して咳払いをする。
「説明してもらおうか。お前の、お前たちの能力を」
さよの拳の震えが止まった。
「私の……」
静かだが、芯の通った声。
「私の、私たちの能力は……」
☆ ☆ ☆
屋敷の一室に兄妹はいた。
壁には金縁の額にしまわれた絵画が飾られており、高い天井にはシャンデリアがある。すっかりと陽も落ち、窓からは静まり返った夜の景色が見えた。
部屋の隅には暖炉があり、その前には安楽椅子があった。
暖炉とは反対側にキングサイズのベッドが置かれ、そこにレクは寝ている。さよはベッドの縁に腰掛け、横になるレクの顔を覗く。
目の上にあった青あざは既に消えていた。
腫れていた頬も、切れた唇も。
すっかり傷は回復し、安らかな寝顔を浮かべている。その顔を見ながら、先ほど坂本豪と交わしたやりとりを思い浮かべる。
―……それが、お前の能力なのか。このゴキブリ野郎の……、血を、見ると……?
―はい。あの、私が思うに、家族を守ろうという防衛本能が働くのだと……思います。ほら、私って家族思いだから。決して兄の血液に興奮するなんてことは微塵もありません。断じて。
―いや、そんなこと聞いてねぇよ。
―それと、このことは兄には黙ってて下さい。
―なんでだ。
―お兄ちゃんを傷つけたくないんです。真実を知ったら、きっと絶望しちゃうから……。
豪は、約束を守ってくれるだろうか。
いや、そんなことは関係ない。彼が約束を果たすかなどうかに期待してはいけない。
私が、兄を守るんだ。
さよは愛しそうに寝ている兄の頭を撫でる。
あ、意外にまつ毛長いんだ。
気付いたさよは微笑をたたえる。
「……ぅん……うっ……」
その長いまつ毛が二、三度瞬き、ゆっくりと兄は目を覚ます。
「お兄ちゃん」
「ん…………さよ、よかった、無事か。……ここは、どこだ……」
レクは目をこすり、辺りを見渡す。
「ここは、その、組織の中だよ」
「そしき…………」
レクは、寝ぼけているのか。「よくわからない」という顔をしていたが、一度大きく瞬きをすると、勢いよく上半身を起こした。
「さよ、無事か。よかった。それで、あいつは? どうなった!」
「……坂本くんのこと?」
「そうだよ! あいつ、無事か? 生きてるか? 詳しくは憶えてないんだけど、俺、覚醒しちまった気がするんだ。罪獣じゃない、人間に! 俺、能力を使っちまった気がするんだよ! なぁ、あいつは? どうなった!?」
レクの剣幕に押されてさよは黙り込んでしまう。
その沈黙を、レクは肯定と受け取ったのか、顔が青くなり「あぁ……」と口に出して狼狽する。さよは慌てて「安心して、大丈夫。みんな無事だから。誰も死んでないよ」と優しい口調で話す。レクは呼吸を忘れてしまっていたようだ。妹の口から「誰も死んでない」という言葉を聞いて、ブハァと息を吐き出す。
「よかった、危なかった」とレクは口にしながら呼吸を整える。
さよが沈黙した理由。
それは、なんて声を掛けていいのか分からなかったからだ。さよは心の中で自問自答をする。
本当にこのままでいいのだろうか。
自分が安否を心配している人間に、殺されたということ。
そして自分がまだ最強の主人公だと勘違いしていること。
全部、自分の責任だ。
さよは罪悪感に押し潰されそうになった。決意を固めていたさよだったが、一瞬全ての真実を話そうかと思った。
本当は、お兄ちゃんは覚醒なんてしない。
お兄ちゃんは、いつも真っ先にやられて気絶しているだけ。
覚醒するのはどちらかと言えば私の方。
あなたの血液に興奮して、私は最強の少女になる。
敵も全部、覚醒した私が倒している。
なんて、そんなこと。
真実を知ったお兄ちゃんはきっと悲しむだろう。
それだけは、何としても防がなければいけない事態だ。
さよは改めて、兄を勘違いさせ続けるのだという覚悟を決める。
お兄ちゃんのためを想ってのこと。お兄ちゃんが傷つかないために、嘘をつく。
そう、自分に言い聞かす。全ては優しさから。
妹の兄を想う気持ちから。
藤宮さよは、嘘をついた。




