結
どさっ!
突然の衝撃にベアトリクスは顔をしかめた。だが、痛みはちっともない。
尻餅をついた恰好のまま、思わず閉じていた目を、恐る恐る開く。
目に入ってきたもの。それは、彼方まで続く書架の群れ。
このでたらめさ。まさにここは迷宮図書館!
「やった。帰って来た。帰って来たわ!」
そして慌てて辺りを見回す。
シビル! シビルはどこ!
ヌンはすぐ側で、ジャレッドを担いで立っていた。そしてその足元には、あの緑の本。だがその本は、色を黒く変じながら小さく消えていく。
「な、どうなってるのっ?」
「推測だが。おそらく、戻った奴がなんらかの手段を以って、本を焼いたのだろう」
ヌンが静かに答えた。
「焼いたって、それじゃ、私たちを……ううん、シビルを殺す気で……」
「恐らくな。私はああいう人間は大嫌いだ」
ヌンが吐き捨てた。
でも、それじゃ、シビルは?
「シビル? シビル? どこよ!」
見当たらない。まさか、戻って来れなかったんじゃ……。
ベアトリクスは慌てて辺りを見回す。すると、誰かが袖を引っ張った。
「シビル?」
ベアトリクスが振り向いた。
彼女の袖を引っ張ったもの。
それは、真っ黒い毛並みの、二足歩行する人型の猫。
「ロロ? なんであんたがここに? いえ、そんなことはどうでもいいわ! あんたがいて、どうしてシビルがいないのよ! シビルはどこ!」
ベトリクスはロロの肩を掴むと、ガクガクと揺すった。
もはやベアトリクスは恐慌を起こしかけていた。
「べ、ベアトリクス様。下です。下。どいてあげてくださいまし」
今度はネネが現れ、ベアトリクスの腕にしがみついた。
「ね、ネネまで。って、下?」
「お、重いよぅ」
呻き声が聞こえてきた。
これはまちがいなくシビルの声だ!
これまで静かだったのは、気絶していたからだろう。
「え? うわぁ。ご、ごめんねシビル。大丈夫?」
ベアトリクスは自分がシビルの上に座っていたことにいまさら気付き、慌てて彼女から飛び退いた。
シビルは呻き声を上げながら起き上がると、ペタンと座ったまま、ベアトリクスを恨めし気に見つめた。
「……ウミウシに潰される夢を見たわ」
「私はウミウシか。って、ウミウシってなに?」
ベアトリクスは不機嫌そうに目を半開きにした。
海にいったことのないベアトリクスは、ウミウシを知らない。
「あぁ。でも良かったぁ。これでシビルは死ななくて済むのよ。あのまま帰ったら、例えあいつが捕まって身の安全が確保できても、死んじゃったんだもの」
ベアトリクスはシビルを思いきり抱きしめた。
「ど、どういうこと?」
ベアトリクスの強烈な抱擁にもがきながら、シビルが問うた。
「あなたの国で、世界を再生する計画とかいう話はなかった?」
「え? どうして知ってるの? 先週、協会から計画への参加要請……ううん、要請じゃないわね。ほとんど強制の通知が来たけれど」
「その計画は失敗するのだ」
ヌンが静かに答えた。
「失敗?」
シビルが目をぱちくりとさせた。
「そうだ。失敗し、世界はさらに荒廃し、そして、帝国は滅亡する。その計画に参加した術師は全員死ぬことになる」
さすがにこれには、シビルも真っ青になった。
「でももう大丈夫よ。ここはシビルのいた時代とはぜんぜん違うもの!」
いうやベアトリクスは、もう一度シビルを抱きしめた。
だがシビルは混乱して、どういうことかを飲み込めずにいた。だがそんな中で、ひとつ、どうしても気になることを思い出した。
「あ、そうだ。こっちの……っていうか、えと、私の本はどこ?」
「えーと……」
「消えた」
いつもの調子で、あっさりとヌンが答えた。
「消えた?」
「恐らく、奴が燃やしたのだと思われる」
「ううぇ! 焼いたの? うわぁ。私、どうなっても知~らない」
シビルがいきなり頭を抱えた。
「どういうこと」
「云ったでしょ。あの本、精霊さんたちの力を集約して限定世界を作ってたのよ。それを、精霊さんに断りも無しに、勝手に壊しちゃったってことは……」
「精霊の怒りを買うな。まともに。そうか! ……なるほど。もしかすると……」
「なに? なにか気が付いたの? ヌン」
ベアトリクスが詰め寄る。
もうこれ以上の厄介事はごめんだ。少なくとも、もう今日は。
切羽詰まった顔のベアトリクスを見、ヌン首を振った。
なんだかベアトリクスには、彼女が微笑んだように見えた。
「いや。それもただの一因に過ぎまい。これもタイムパラドックスのひとつといえるのかも知れん。少し考えるだけでも、矛盾が山ほど出てくる。マスターにでも聞けば、色々と分析してくれるかも知れんが、何分、忙しい方だからな。今は、ある理由から帝国で教師をしているし」
いったい何を云っているのか分からず、シビルとベアトリクスは首を傾げた。
「あ、いたいた。どう? 捗って……。その娘はだぁれ? それにそっちの……猫?」
第一書架に来るなり、頓狂な声を上げたのは、黒メイドのアインだった。ベアトリクスは、今度はアインに抱き付いた。
「あぁ、アイン。大変だったのよ。……あれ? リューは? 一緒じゃなかったの?」
「リューマムはアキコの所よ。疲れたとかいって、カウンターで寝てるわ」
ベアトリクスは乾いた笑い声を上げた。
きっとリューマムのことだ、単に騒ぎ疲れただけに違いない。
「……うわ。言葉がさっぱりわかんない」
シビルがいまだにペタンと座り込んだまま、目をぱちくりとさせていた。
「あぁ、そっか。こっちじゃ、これ、シビルが着けてたほうがいいわね。大丈夫。シビルならすぐに会話ぐらいできるようになるわよ。天才なんだもの」
ベアトリクスは額当てを外すと、シビルに着けてあげた。
「いまの古代帝国語? なにがあったの……って、なによ。その裸の男は?」
ヌンが担いでいるものに気付き、アインが目を半開きにした。
ちょうどジャレッドの尻がアインに向いている。もちろん、尻以外のものも目に入る。
「これか? 例の麻薬組織の首領らしい」
ヌンがいつもの調子で答えた。
「首領は捕まったって話よ。いま逃げてるのは、麻薬を製造した魔術師だけだって」
アインが云った。
ヌンとベアトリクスは顔を見合わせた。
やはり思っていた通り、この露出狂男は組織のトップではなかったのだ。
「じゃあ、こいつよ。自分でそう云ってたもの」
「もっとも、自分が首領だとも言い張っていたがな」
屈みこみ、ネネを撫でまわしていたアインは眉根を寄せた。
「なによそれ。本当に組織の重鎮なの?」
「さぁ。あくまでも自称だったからな」
「でも、これだけは確かよ」
ベアトリクスが重々しく頷く。
「確かって?」
アインが問うた。ロロとネネを気に入ったのか、アインは早速ふたりを抱きかかえていた。
「露出狂の変態男ってこと」
真顔でベアトリクスがいうと、アインは顔をしかめた。
シビルは立ち上がると、ちょこちょこと書架の端にまで行き、辺りを見回した。
目に入るもの。それは、彼方まで続く書架の群れ。
シビルは目を丸くした。
「うわ……。なに、ここ」
「ここが私の職場よ。あ、下手に歩き回っちゃダメよ。迷って出られなくなるから」
「えぇっ! なんで?」
シビルが驚きの声を上げた。
まったくもって、理解できない。
「そこら中に罠があるから。下手に歩くと遭難するわよ」
シビルは目をぱちくりとさせた。
「遭難って、ここ、図書館でしょ? ううん。それより、罠ってなに?」
驚くシビルに、ベアトリクスはクスクスと笑った。
「えぇ。図書館よ。でも、こういうことが普通の図書館なのよ」
ベアトリクスは目を閉じ、耳を澄ます。
シビルも同じように耳を澄ました。
どどーん。
うわー。
シビルの顔が強張った。
「……いまの何?」
「爆発と悲鳴」
ベアトリクスは淡々と答えた。
シビルの顔に、ますます困惑した表情が浮かんだ。
なんで図書館で爆発と悲鳴が?
シビルの表情が如実に語っていた。
そんなふたりのやりとりを、ヌンとアインは面白そうに眺めていた。
そうだ。シビルは初めてこの図書館に来たのだ。
ベアトリクスの口元に笑みが浮かんだ。
ならば、それらしい挨拶をしなくては。
ベアトリクスはシビルの前に立つと、しっかりと姿勢を正した。そして、スカートをつまみ、優雅に一礼すると、流麗に歓迎の言葉を述べ上げた。
「ようこそ、世界を綴る者・シビル殿。七王国が知識の宝庫、我らが迷宮図書館へ」




