其の陸 3
「さぁ。まずは湖を渡るのよ!」
城から湖に下りるなり、シビルが湖を指差しのたまった。
「そういえば、森、湖、谷の順で話は進むのよね」
「そうよ」
「私たち、いきなり湖の向こうに……って、そうじゃないか。私、気絶してたんだものね。ねぇ、ヌン。なんであっちにいたわけ?」
ベアトリクスはヌンに尋ねた。
「小さな家の近くに出現し、後は森を彷徨っていたのだ。その内、あの竜と遭遇した」
ヌンは淡々と答えた。
「あー。それじゃ、この湖をすっ飛ばしちゃったんだ。かなり迂回したわね」
シビルが呆れたような声を上げた。
「本当はその家から森を抜けて、上の【名も無き城】へと進むのよ」
ベアトリクスは崖上の城を見上げた。
なるほど。あの城はイベントのひとつというわけだ。
「さぁ、いくぞ」
「あれ? どこ行くのよ。湖は?」
砂を鳴らして歩き出したヌンに、シビルが慌てた。
「渡る手段はあるのか?」
「えと……船とか」
シビルが指差した。その先には船着場があり、ボートが繋がれている。
「船は沈むだろう」
ヌンが答えた。
思わずベアトリクスは苦笑いを浮かべた。
だがシビルはどういうわけだか引き下がらない。
「あ、分かったわ。泳げないんでしょう」
「私はヌン。意味するものは魚だ」
それが答えだとばかりに、真面目な顔でヌンが云った。
そこでベアトリクスは気がついた。そういえば、まだそれを聞いていなかった。
「そういえばそれ、聞いて無かったわね。ねぇ、ヌンの象徴するものはなんなの?」
「死だ」
うっ。
ベアトリクスは絶句した。いや、彼女だけではない。シビルも、ロロもネネも。
死の象徴を持つ美しき自動人形。恰好は所々黒のアクセントのついた白いエプロンドレス。もちろんエプロンの色は黒だ。そして戦闘用たる彼女の得物は大鎌。
彼女の製作者は、相当に歪んだユーモアの持ち主か、でなければかなりの皮肉屋に違いない。
「シビル。この湖に厄介な生物がいないとも限らぬ。もはやお前の知っている世界ではないのだ。それに、そのふたりがな……」
「ふたり?」
シビルがヌンの指差す方向に目を向けた。
そこでは、湖を目前にして、あからさまに怖気づいてガタガタと震えているロロとネネ。猫は総じて水が嫌いだが、彼らもどうやらそうらしい。
いや、本当に水に怯えているのだろうか?
シビルはがっくりと肩を落とした。
「分かった。歩く」
「いや、シビルはベアトリクスか私の背だ」
ヌンがシビルの決意を一蹴した。
シビルは目をぱちくりとさせている。
「えと、それはどういうことかしら?」
ベアトリクスが問うた。
「彼女の靴では、あの森を歩くのは無茶だろう。私の刈った細い木の切り株は、容易く靴底を貫くぞ」
シビルの靴をみてみた。彼女の靴は上等な革靴なのが一目でわかるが、決して山歩きをするような靴ではない。
かくして、ベアトリクスがシビルを背負い、ヌンがネネを肩に乗せて森を進んでいた。ネネの靴は頑丈な物であったのだが、その背丈のため、スカートがものの見事に切り株にひっかかり、まともに歩けなかったのだ。ロロは草履であったが、どうやら底に金属を仕込んであるらしく、この程度の荒地はへっちゃらなようだ。
ベアトリクスがシビルを、ヌンがネネを運ぶ事にしたのには理由がある。もし、道中厄介な生物と遭遇した場合、戦うのはヌンである。その時は、背負っている者を放り出さなくてはならないのだが、もしそれがシビルであった場合、見事に転んで怪我をする可能性が極めて高いためだ。
かくして歩くこと暫し、一向は城の対岸の砂浜に辿り着いた。
ベアトリクスは肩で息をしている。
「あー。運動不足を実感するわね」
「あ、ありがとう、お姉ちゃん。大丈夫?」
いつの間にやら、シビルはベアトリクスをお姉ちゃんと呼んでいる。
「はい」
「なにこれ?」
水筒を手渡されたベアトリクスは、その中身の臭いを嗅ぎ尋ねた。
気持ちを軽くするような、さわやかな香りがする。
「レムリロの実の果汁を薄めたやつ。果汁そのままだと飲めたものじゃないんだけど、薄めるととっても美味しいのよ」
いわれるままにベアトリクスはそれを飲んでみた。
「美味しい」
ほのかな甘みのあるそれは、乾いた喉を潤すのにぴったりの代物だった。ベアトリクスは一気に水筒の半分ほどの量を飲み干した。
「はぁ。生き返ったわ~。あ、シビルごめん。私、半分ぐらい飲んじゃった」
ベアトリクスの顔があからさまに強張る。
「大丈夫よ。まだたくさんあるから。原液を樽ごともって来たのよ。それは、すぐに飲めるようにしといたやつだから、気にしないで」
「樽?」
樽なんてどこにあるんだろう? ううん。それ以前に、この水筒はどこから?
そう思っていると、シビルは水筒を腰の小さな皮袋に、無造作に押し込んだ。どうみても、水筒の方が大きいのに、水筒はすっぽりと飲み込まれてしまった。
……まぁ、人間を飲み込む本を作るような天才児だ。見た目より沢山ものの入る袋を作っていたとしても、不思議ではない。
ベアトリクスはうんと、ひとり頷いた。
「ベアトリクス。落ち着いたか?」
「えぇ。先を急ぎましょう」
ベアトリクスはシビルの手をぎゅっと握ると、ヌンの後をついて歩きだした。
やがて、竜の死体の転がる森の道に到達した。
ベアトリクスは顔をしかめ、シビルは目をまるくしていた。
ネネはというと、無造作に近寄って、その頭をぺしぺしと叩いている。一方、ロロは対照的に、木の枝を持った手を出来うる限り伸ばし、ぷるぷると震えながら竜の死骸を突付こうとしていた。
「これ、ヌンが退治したの?」
「そうよ。見てた私もびっくりしたんだけど。あっという間にね」
血まみれになったヌンの姿を思い出してしまい、ベアトリクスはぶるっと震えた。
「すまぬが、少し時間をくれ。この竜の歯と爪を採取する。できれば血も採取したいのだが……容れ物がないからな。それは諦めるとするか」
「あ、壜ならあるわよ」
シビルが袋から、空の壜を取り出した。きっと元々はワインかなにかの壜だったのだろう。口にはコルクの栓がしっかりとはまっている。
「ありがとう」
「でも、そんなのどうするの?」
「私のマスターは、この手の材料を集めるのに苦労しているからな。特殊な武具の材料のひとつとして、役立つかもしれないのだ」
ヌンがシビルに答えた。
「えーと、私、後ろ向いてるから、終わったら云ってね」
「どうしたの?」
「私、血はダメなのよ」
戻ってきたシビルにベアトリクスが答えた。
「うわ。なに? あの大っきい鎌!」
シビルが驚きの声をあげた。どうやら、ヌンが得物を展開したようだ。きっとあれで、竜を解体するのだろう。
「……シビル。お願いだから、ヌンのしてることを説明したりしないでね」
ベアトリクスは云った。
バキッとか、ベリベリっとか、物凄い音が聞こえてくる。
うあ~。
ベアトリクスは今にも泣き出しそうな顔だ。
これは、どうにかして気を紛らわさなければ。
ベアトリクスは隣でぼーっと森を眺めているシビルに目を向けた。
「ねぇ、シビル。あなた、結構長い事この本の中にいるみたいだけど、御両親は心配してるんじゃないの?」
「それは大丈夫よ。だって、ここから出る時間は確定してるもの。入った数時間後よ。この中だと歳も取らないようなものだし。……それに、私を心配してくれる人なんて、誰もいないもん」
囁くように答え、シビルは俯いた。
「だ、誰もいないって、誰かしらいるでしょう?」
シビルは首を振った。
「私ね、頭がいいからって、協会に売られちゃったの。パパもママも私のこと気味悪がってたし。でも協会の構成員はみんないい歳した大人ばっかりだから、私みたいなのはどうしても浮いちゃうのよ。おまけに下手に実績なんかあげると、変に疎まれるし」
あぁ。やはりそうだったのだ。
あの時、シビルが見せた怯えたような顔。その時にベアトリクスが感じたことは事実だったのだ。
ベアトリクスはシビルの頭をこしょこしょっと撫でた。
「私はシビルのことが好きだよ。まだ知り合って、ほんの少しだけれど、シビルのことが好きだよ」
ベアトリクスのその言葉を聞くと、シビルは俯き、唇を噛み締めた。
「待たせて済まなかった。作業は終わった。さぁ、先へ進もう」
再び一行は虹の泉を目指し歩きはじめた。




