其の伍 4
『やった! やった! これで、これで、これで物語が進むわ!』
真紅のドレスを纏った小娘は、転がるように階段を駆け降りてくると、ベアトリクスに飛びついた。
その威力によろけ、ベアトリクスは尻餅をつきそうになった。
少女はしがみついたまま、ニコニコとベアトリクスを見つめている。
ウェーブがかった金髪に赤いリボンを結んだ、翠色の瞳をした少女。その目は好奇心で埋め尽くされていた。
『物語? どういうことだ?』
ヌンが少女に問うた。だがその言葉は、ベアトリクスが聞いたことの無いものだった。故に、ヌンがなにを云っているのかさっぱり分からない。
少女はベアトリクスから離れると、ヌンに向き直る。
『えぇ。物語よ。私はずっと待っていたのよ。この停滞を終わらせてくれる人を!』
少女は感動したように目を瞑ると、胸に手を当てた。
だがベアトリクスはきょとんとして、首を傾げるばかり。
「ねぇ、ヌン。私、ぜんぜん言葉がわかんないんだけど」
ベアトリクスが不安そうな声をだした。
「私の耳、どうかしちゃったのかしら?」
「あぁ、そうか。安心しろ。そうじゃない。彼女の話している言葉は、いわゆる古代帝国語だ。第二次神々の戦で滅びた、ロゴスダウ大帝国の言語だ」
ヌンがベアトリクスに答えた。すると、今度は少女が驚いたような顔をしていた。
『どうした?』
『なんだか変な訛があると思ったけど、まるきり言語が違うのね』
少女が云う。だがもちろんベアトリクスには分からない。
ふたりは互いに顔をしかめた。
『言葉が通じないと不便ね。……あれ、使えるかな。ちょっと待ってなさい!』
少女はベアトリクスに指をつき付けると、くるりと踵を返して階段を駆け登っていく。たちまち少女の姿は見えなくなり、やがて、ばたんと扉を閉める音が聞こえてきた。
「えーと……私、なにか悪い事したのかしら?」
不安な顔のまま、ベアトリクスがヌンに尋ねた。
「いや、なにか、この言語の壁を解消する術があるようだ。彼女はベアトリクスに、待っていろと云っていた」
ベアトリクスはホッとした。
そして改めて辺りを見回す。
石造りの城。赤い絨毯。壁に掛けられたタペストリー。その絵柄は、群れ泳ぐ魚だ。所々に掛けられている、金縁の赤いカーテンの隙間をぬって、窓からの明かりが差し込んでいる。
頭上には豪奢なシャンデリアがぶら下がっているが、その蝋燭に火は灯っていない。
そのため、このホールは薄暗かった。
「そういえば、図書館は明るかったわよね。別にカンテラや魔法の石があったわけでもないのに」
なんと無しにベアトリクスが云ってみた。
「図書館の天井が光を発しているのだ。あれも、あの図書館に掛けられた術のひとつであるらしい。効力は半永久的と云われている。もっとも、あの建物自体、時間を止められているとのことだからな、そのせいなのかもしれん」
ヌンの答えに、改めてベアトリクスは、あの図書館の凄さを思い知った。
いや、あのあまりのでたらめさに、明かりに関してまで、気が回らなかったのかもしれない。
そんなことを考えていると、ベアトリクスは急に心細くなってきた。
「ヌン、私たち、帰れるのかなぁ」
「少なくとも、可能性はあるはずだ」
人形である彼女は、酷く現実的な分析をしている。
ベアトリクスはぶるぶると首を振ると、嫌な考えを振り払った。
もう一度辺りを見回して見る。
すると、視界の端になにかが引っかかった。奥のカーテンの陰だ。ベアトリクスはそこに目を向けた。
何かがいる。あれは――
「……猫?」
また猫。
ベアトリクスは顔をしかめた。この状態に陥らせたハインドへの怨みは忘れていない。
そうだ。絶対に仕返ししなくては。帰ったら犬薄荷をぶつけてやる。
ベアトリクスは決心した。
それはさておき、あのカーテンからこちらを覗いている猫はどこかおかしい。
そうだ。その高さがおかしいのだ。頭が妙に高い位置にある。それに大きい。
あそこに踏み台のようなものでもあるのだろうか?
ベアトリクスは首を傾げた。
やがて少女が戻ってきた。その手には、額当てのようなものが握られていた。だが、防具としてみると、この額当ては少々役不足のように思える。大抵の額当ては革製で、額に当たる部分に金属板を鋲で打ちこんで作られている。だがこの額当ては、バンダナに金属板を付けたような代物だ。
少女はその額当てをベアトリクスに差し出した。どうやら着けろということらしい。
金属板の表面には網目のような幾何学模様がレリーフされ、裏側には、ルビーが埋め込まれている。
ベアトリクスは云われるままに額当てを身に付けた。髪を巻き込まないよう注意して、後ろでぎゅっと縛る。少しばかり額の真ん中辺りが圧迫されているような感じがするが、それは、あのルビーが当たっているからだろう。だが、痛いというほどではない。慣れてしまえば、気にならなくなるだろう。
ベアトリクスが額当てをつけると、少女は満足げに笑みを浮かべた。
「えーと。言葉、通じる?」
「あ、あれ? 意味がわかる」
少女の問いに、ベアトリクスは目をぱちくりとさせた。
聞こえてくるのは、さっきと同じ聞き鳴れない言葉だ。だが、どういうわけだか、その意味するところは理解できるのだ。
「うん。上手く機能してるみたいね。よかった」
「これは、魔法具なのか?」
「そうよ。人間の思考の原理なんて、大抵みんな一緒だからね。頭に浮かべたイメージのようなものを、言語に変換して口から吐き出しているようなものだもの。そのイメージをダイレクトに伝達するのがあの額当てよ。暇だったたから、こないだ作ったのよ!」
「暇だったって。そんな暇潰しみたいな調子で、こんな凄いものが作れちゃうの?」
ベアトリクスが驚きの声を上げた。
「そーよ。私、天才らしいから」
らしいって。
「自覚ないの?」
「変人が自分を変人と思ってないように、天才だって、自分を天才とは思ってないわよ。それに、それを勝手に決め付けるのは周りの連中よ。私は私だもん」
少女は言い切った。だが、ベアトリクスにはなにか、彼女が精一杯虚勢を張っているように見えた。
特異であるということ。それゆえに彼女は周囲から浮いた存在となり、また、孤立させるようなことになっていたに違いない。
「と、せっかく来てもらったんだもの。私から自己紹介しなきゃね」
少女はそういうと、ピッと姿勢を正した。
「私はシビルよ。世界を綴る者・シビル。皇立ゲルマンド大学最年少主席卒業という偉業を成し遂げた、――よ」
ベアトリクスは顔をしかめた。最後のところがよく分からなかったのだ。
「いまのは固有名詞だろう。私たちが分類している、魔術体系各々の術師の名称と同じようなものだと思う。特に、分からなくても問題はない。私たちの云うところの、魔具創師や付与術師のようなものだろう」
ヌンがベアトリクスに云った。
「あー。そのあたりの翻訳というか、意思疎通は無理なのか。それがそのアイテムの限界ってところなのね。でもそんなことわかっても、どこをどう改良すればいいんだか」
シビルは呻いた。
そしてヌンをじっとみつめ、眉をひそめる。
「ねぇあなた、これが不躾だってわかっているんだけど、さっきからどうしても気になって仕方ないから、聞かせてもらうわ。目、どうしたの? 私、そんな義眼をみるのはじめてよ。もっと、ちゃんと造詣のしっかりしたものが作れるでしょう」
「これは義眼ではない。これが私の目なのだ。私はヌン。ウィラン中央図書館に属する自動人形だ」
シビルは目を丸くした。
「人形って……それじゃあなた、ゴーレムの類なの? 嘘。だって、どうみても人間じゃない。関節だって……、目、以外は全部……どう見たって……」
「実に嬉しいな。マスターの技術が古代帝国の技術を上回っている証拠を聞けるとは。私の装甲は特殊な流体魔法金属で構成されている。見た目には人間となんら変わらぬ。眼に関しては、あえてこうしてあるのだ。人と見分けがつかぬと、いらぬ面倒事が起こるからな」
「うわぁ。是非あなたのマスターと会ってみたいわ」
シビルが目をきらきらと輝かせた。
「ねぇ、ヌン。古代帝国って……まさかここ、そんな大昔なの」
「それはわからぬ。だが、彼女がロゴスダウ大帝国の者であることは確かだと思う」
「なんの話してるの?」
シビルが首を傾げた。
「あ、あぁ。ごめんなさい。えと、あ、私はベアトリクス。ウィラン中央図書館の職員よ。それでシビル。ここはどこなのかしら? 本当にロゴスダウなの?」
「そうよ。あ、でも、そうとも云い切れないのか。えーと、とりあえず、いまいるこの場所。ここは本の中よ」
シビルが云った。
ベアトリクスは目をぱちくりとさせた。
「……本、の、中?」
「そうよ。ここは物語の中。私の書いた本の世界よ! 故に、私は【世界を綴る者】という称号を得たのよ!」
ベアトリクスは頭を抱えた。
想像を絶するとはこのことだ。
ここが本の中だなんて!
「ということは、つまり、シビルは、物語を体感できる書物を作り上げる技術を持っている。ということか?」
ヌンが的確な質問をすると、シビルはびしっとヌンを指差した。
「そうよ! 私は思っていたのよ。最近の子供は殺伐として、ちっとも大自然を駆け回るような遊びをしやしない。というより、そんな場所がもうないんだけど。異世界の竜神が精霊界を壊しちゃったから。でもそれじゃ、あんまり寂しいじゃない。それに精霊界が壊れたからって、私たちは精霊さんの加護を失ったわけじゃない。確かに精霊界破壊で私たちの世界は大きなダメージを受けたけれど、精霊さんたちの力が消えたわけじゃない。ったく、それを大人連中はわかっちゃいないのよ。時至れば世界は修復されるってのに。それはさておいて、私は思ったわ。とにかく、いまは自然に戯れ遊べる場所がない。だから私は箱庭たる本の世界を作ったのよ! 精霊さんたちの力を借りて。そしてこの本は私の三作目。『猫は如何にして竜を出し抜き、魚を捕らえたか?』。この物語の中なのよ!」
ベアトリクスは疲れたように目を細めた。
どうやらこのシビル、話すのは上手くないようだ。
だいたい、シビルもまだ十分に子供だ。
「つまり、本の中に遊び場を作ったってことね」
ベアトリクスが一言でまとめた。
「そうよ。でも一作目の『麗しき稜線への旅路』は、なんだか年寄りくさいものになっちゃってね。……やっぱり露天風呂三昧な世界は子供に受けが悪かったわ」
「露天風呂……」
「二作目の『大海原に光るナマコを見よ』は、正直いまいちだったし。砂浜と海だけの世界じゃ、まともな冒険心は生まれないわ。塩水に浸かってるだけじゃダメなのよ!」
ここに来てベアトリクスは、このシビルの性格が分かってきた。
この娘は、本物の天才なのだ。そう。思いついた事を現実にできてしまうほどの。だが、それらの技術を的確に扱うだけの度量がかけらもないのである。
そのあたりはまさしくお子様なのだ。
そして、妙に遊ぶことにこだわっていることからも、彼女自身、これまで思う存分遊んだ事がないのだろう。
いや。ベアトリクスは確信した。
人は自分とあまりにも違うものを排除するものだ。もしかしたら、シビルは子供の世界からも孤立していたのかもしれない。もちろん、子供だけではなく、大人からも。
ベアトリクスは驚いたような顔のまま、シビルを見つめていた。そして、そのベアトリクスの表情に気付いたシビルの顔が、ほんの一瞬、強張った。
やはりそうだ。
この子は本当に孤独なのだ。
さぁ、どうアプローチしよう。
ベアトリクスはにっこりと笑った。
「ねぇ、シビルさん」
「さんはやめてよ」
「それじゃ、シビル先生」
「先生はもっとやめて。お姉さん」
「シビルちゃん」
シビルが言葉を詰まらせた。
その表情からさっするに、なにか葛藤しているのがみてとれる。
どうやら、子供としての自分と、術師としての自分とが、ぶつかっているようだ。
「た……ただのシビルでいい」
どういう折り合いを着けたのかは分からないが、悔しげな顔でシビルが云った。
「うん。分かったわ、シビル。それで、実は私たち、教えて欲しいことがあるのよ。この世界、本の中から、元の場所へと戻りたいのよ。どうやったら出られるの?」
ベアトリクスはシビルと目線が合うように身を屈めると、その細い両肩を優しく掴んで尋ねた。
「いいわよ。教えて上げる。でも条件があるわ」
「条件?」
ベアトリクスが首を傾げた。
果たして、天才の出す条件とはどういうものだろう?
「えぇ。あなたたちにお願いがあるの」
突然シビルの表情が切実なものに変わった。
「お願い。私をこの本からだして!」
「……はぁ?」
ヌンがこんな声を出したのを、ベアトリクスははじめて聞いた。




