其の伍 2
どれくらい時間が過ぎたのか。
目覚めたベアトリクスの目に真っ先に入ってきたのは、青空の下、風にざわめく樹々の葉だった。
彼女は、木陰に寝かされていた。
起きあがり、辺りを見まわす。
そこは湖のほとりだった。でも、なんだか妙な湖だ。
辺りに茂っている樹は、あきらかに熱帯の海辺に生えている種類のものだ。
それに湖の色も、驚くほどに鮮やかな青色をしている。これでは、昔、吟遊詩人から聞いた、南方の大陸、カデナの海のようだ。
ヌンはどこだろう?
ベアトリクスは、黒髪の美しい自動人形の姿を捜した。
彼女は浅瀬に立っていた。……ずぶ濡れで。
どうやらエプロンドレスの恰好のまま湖に入り、血を洗い流したらしい。
そういえば、彼女のエプロンドレスは魔法金属製だと、アインが云っていたっけ。
「大丈夫か」
ベアトリクスが起きたことに気付いたヌンが、長い黒髪から水を滴らせたまま歩いて来た。
「うん。大丈夫。……あ~、もう、それにしても、びっくりしたわよぉ。いきなり血まみれになってるんだもの」
「あぁ、その、すまぬ」
ヌンが申し分けなさそうな顔をした。
初めて会った時にくらべ、ヌンの表情は豊かになってきているようにベアトリクスは感じていた。
「ベアトリクス、御主は……なんと云えばよいのか分からぬが、血液に対する恐怖症のようなものでもあるのか?」
ヌンが問うた。
「恐怖症なのかしら?」
ベアトリクスは首を傾いだ。
「きっと、子供の頃に遭った馬車の事故のせいだと思う。私と母と弟、それに妹が乗っていた馬車が橋から落ちた事故。私が六歳で弟が三歳。妹はまだ一歳になったばかりだったわ。橋はたいした高さじゃなかったんだけれど、馬車は全壊しちゃってね。私はかすり傷程度で意識はしっかりしてたんだけれど、弟は腕を折って気を失ってて、御者は行方不明。母も気を失ってたけど、きっと妹を護ろうとしたんだと思う。でも、馬車の折れた支柱からは、妹が母を護ったの。支柱は妹の頭に突き立ってて……血が……血が……」
そこまで話すや、ベアトリクスの顔が覿面に真っ青になった。
「べ、ベアトリクス、落ち付け。大丈夫だ。誰も怪我などしていない」
ヌンが慌てた声を出した。これも彼女らしくない。知り合ってまだ数時間ではあるが、彼女の性格を、もうベアトリクスは分かっていた。
いったいどうしたのだろう?
「う、うん。大丈夫。大丈夫、お、落ち着くから。うん。えと、その、つまり、それで、私は、こんな感じ」
困ったような笑みを浮かべて、ベアトリクスはヌンを見つめた。
ベアトリクスの一家が遭遇したこの事故。実は、人為的に引き起こされたものである。御者がわざと馬車を橋から転落させたのだ。当時、彼女の父クーノは野心を持った政治家のひとりであった。そしてもちろん、政敵がいたのである。この事故はクーノに向けられた警告のひとつであったわけだ。このことがきっかけとなり、クーノは政治の一線からは身を引き、昼行灯となったのである。もっとも娘を殺された報復は秘密裏に遂げたようではあるが、そのことは家族の誰も知らないことだ。
ヌンがじっと確かめるようにベアトリクスを見つめた。
「……わかった。しかし思い出しただけでそれでは、また難儀だな。普段の生活に支障はないのか?」
「うん。大丈夫よ。多分、血まみれっていうのがダメなんだと思う。だから下手すると、赤い染料を頭から被った人をみても、私、倒れるんじゃないかしら。……確認したいとは思わないけれど」
そして、改めて周囲に視線を巡らす。
青い空。緑の山。そしてどうみても浜辺のこの場所は湖。
あまりにもでたらめで、ちぐはぐな場所だ。
「えと、それより、ここはどこなの?」
「わからぬ」
ヌンが答えた。
「……七王国のどこかじゃないわよね。あんな竜がいるんだもの」
「夜が来ない」
突然のヌンの言葉に、ベアトリクスは目をぱちくりとさせた。
「え?」
「夜がこない。いや、時間が全く経過しない。というのが正しいか」
ヌンが答えた。
時間が経過しないとは、どういうことだろう?
眉を潜め、ベアトリクスは空を見た。
お陽様は真上で照っている。
「この森に放り出されてより、いまに至るまで数時間が経過している。だが、太陽の位置が変わらない。時間が経過していない。本来なら、もう夕暮れのはずだ」
「な、ななななによそれ?」
ベアトリクスは頭を抱えた。
もはや、理解の範疇を超えている。
「うー。分からないものは、考えても分からないわよね。魔術の専門家じゃないんだし。でも……これからどうしよう?」
ベアトリクスは途方にくれた顔でヌンを見つめた。すると彼女は湖の対岸を指差した。
「ひとまず、あそこに行ってみよう」
ベアトリクスも対岸に目を向ける。だがあまりにも遠くて、目をそばめてみても、そこに何がるのか、ちっとも見えない。
「あそこって、何があるの? ちょっと、私には見えないんだけれど」
「砦……城か? とにかく、その尖塔から小娘が旗を振っている。どうやら私たちに気付いているようだ」
ヌンが説明した。
「……来いってことかな?」
「恐らく、そうだろう」
「他に行くところもないし、いってみましょ」
ベアトリクスは立ち上がると、スカートについた砂を掃った。
ヌンはというと、再び水際にまで戻ると、両手で頭上に大きく円を描いた。
「ど、どうしたの?」
「合図を返して見た。どうやら通じたらしい。旗を振るのを止めて、万歳している」
もう一度、目をそばめて対岸のみてみる。だが、やっぱりベアトリクスには、くすんで靄がかったようにしか見えない。
かなりの距離があるということだ。
「でも、どうやってあそこまで行こう」
「歩くしかなかろうな」
ベアトリクスはがっくりと項垂れた。
これはもう、またあの竜のような化け物と出会わないことを祈るしかない。
「歩くのが嫌か?」
「違う違う。またあんな竜みたいなのがでてきたらと思うと……」
ベアトリクスはヌンに答えた。そも表情はなんとも情けない。
「安心しろ。私が退治すればいいだけのことだ」
「また血まみれになったりしないでね」
「それは……難しいな……」
ヌンは困ったように答えた。
そしてふたりは、湖に沿って、対岸に向けて歩きはじめた。




