其の肆 4
巨大になる三毛猫の体に、ヌンは摘まんだままではいられず、遂には三毛猫を放り出した。三毛猫は床に転がりながらも、姿を変じ、大きくなっていく。
やがて光りが消えうせると、そこには茶髪の男が身構えるように立っていた。
鋭い眼光をした、左頬に傷のある茶髪の男。年の頃は二十代半ばくらいか。
そしてその男の恰好はというと……。
「な、な、な、なんで裸なのよ!」
顔を真っ赤にしてベアトリクスが怒鳴った。
「うるせぇ! 変身は服まで変化しねぇんだ! しょうがねえだろ!」
男ががなる。
ベアトリクスは目を反らしたいが、この目の前にいる男は犯罪者だ。それも、件の首領なら組織のトップであった人物だ。目を反らす行為は危険極まりないといえる。
故に、目を反らすわけには行かない。反らすわけにはいかないのだが、そうするとどうしても目に入る。
正直に云おう。
彼女はまだこの手のものを見なれているほど、すれてはいない。
「それならせめて前を隠しなさいよ!」
うわずった声でさらにベアトリクスが怒鳴る。
「はっ! そんなことで隙を作らせようとしても無駄だ!」
そうじゃないぃぃっ!
ベアトリクスは頭を掻き毟った。
「ベアトリクス。気にするな。ヤツが裸であるのは、ヤツが未熟であるからに他ならない。変身術を初めとする位相術は、本来身につけているものも含めて変じるのだ。それができぬのは未熟な証拠。それよりもだ。御主、何者だ?」
ヌンが男に対し斜に立ち、やや俯き加減に睨み据えた。
だがそんなヌンの迫力にも、男はまったく動じない。
「は、名乗るとでも思っているのか? 人形」
男はニヤリと笑みを浮かべた。
「そうか、ならば仕方がない。呼ぶのに困るからな、とりあえず露出狂男と呼ばせてもらう。構わないな」
「ろしゅ……」
男は絶句した。
「さぁ、露出狂男、御主、何者だ?」
「ぬぁ! 馬鹿にしてんのかてめぇっ!」
「いや、ヌンは大真面目だと思うわよ」
そう男にいい、ベアトリクスは顔をしかめた。
やっぱりどうしても目に入る。
うー。
「やっぱり露出狂男で十分だわ、あんた」
ベアトリクスがぼそりと云った。
「ジャレッドだ、ジャレッド! ジャレッド・ルーサム! 変な呼び方すんな!」
「呼ばれたくなかったら、せめて前を隠しなさいよ!」
「だから、そんな隙を誰が作るかってんだ! 図書館の人形が侮れない相手だってことは知ってるんだ!」
ジャレッドがヌンを指差し喚いた。
だがベアトリクスにはそんなこと関係ないのである。
正直、このままだときっと夢にまで見てしまいそうなのだ。
ここは引き下がるわけにはいかない。
「好きでもない男のブラブラした貧相なおちんちんなんか見たくないのよ!」
「おちんちん云うんじゃねぇ! 俺のはガキじゃねぇ! 貧相でもねぇ!」
「じゃあなんて云えばいいのよ!」
「大人の男のは――」
「うぎゃあ! 云うな変態ぃぃっ!」
ベアトリクスは耳を塞いだ。
「俺は変態じゃねぇ!」
「図書館を裸でウロウロしている時点で変態よ!」
「しょーがねーだろ! 変身術ってなそういうもんなんだからよ!」
かくして、ふたりとも肩で息をしながら睨み合う。
双方とも顔が赤いが、ベアトリクスの方はジャレッドとは別の理由のためだ。
ベアトリクスの視線はジャレッドを直視できず、ウロウロと彷徨う。
うー。
「……御主、本当に何者なのだ? まさか本当に麻薬組織の首領を勤めた男なのか?」
ヌンが妙に静かな声で問うた。
いや、これがいつものヌンのペースなのだが、ベアトリクスとこの男との言い争いと比べると、場違いなほどに冷静な声だ。
「どーいう意味だ?」
ジャレッドは平静を取り戻しつつ、ヌンを睨む。
「……御主、馬鹿だろう」
珍しくヌンが呆れたような声をだした。
たちまちジャレッドの表情が変わった。
どうやらかなりショックだったようだ。
それとも今しがたのことを思いだし、自己嫌悪に陥ったのか?
「ヌン、ダメよ。確かに、よくこんなのに手下が集まったとは思うけど」
ベアトリクスが追い討ちを掛けた。
「はっ。ベイビーダンスを作ったのは俺なんだよ。だから俺がいなくちゃ組織は成り立たねぇのさ」
勝ち誇るようにジャレッドが云う。
いや、ある意味、自棄を起こしているのかもしれない。
「つまりはこういうことだな。麻薬製造者のお前と売人だけの組織。売人にしても薬で縛っていたのではないか?」
「そうよね。だいたい麻薬って常習性が強いから、薬で釣ればいくらでも手下は集められるわよね。でも売人を薬漬けにしたら本末転倒なんじゃ?」
そしてヌンが改めてジャレッドを見つめた。ベアトリクスは遂に折れ、目を反らしている。
「だが、とても人を束ねるだけの器量があるようには見えぬ」
ヌンが静かに云った。
「いや、そんなことなぞどうでも良い。捕らえるだけのことだ。大人しくしていれば、怪我をせずに済むぞ」
ヌンが右腕を突き出すように身構える。その手にはいつのまにかメイスのような棒が握られていた。それは今朝、ミディンから受け取った得物だ。
そしてジャレッドも身構える。
変身の術などを使うことから、ジャレッドは魔術師なのであろう。だが、こうして構える姿は堂に入っている。みるからに素人ではない。少なくとも格闘術もそれなりの腕を持っているようだ。
とはいえ素っ裸でそんな構えなど取るものだから、ベアトリクスにはますますそれの動きが目についてしまう。
ダメだ。これでは絶対、今晩見る夢にはそれが一杯でてくるに違いない。
……まさに悪夢だ。
ばさっ。
いきなり本が落ちてきた。
三人が上を見上げた。みると、書架の天辺から白猫が身を乗り出していた。
「あら。間違えたわね。それじゃこっち」
白猫が別の本に前足を掛け、ずるずると引きずり出す。
「は、ハインド!」
「はーい。おしおきに来たわよ~。私たちの真似をするヤツは許さな~い!」
再び本が落ちてくる。
だがなにも起こらない。
「あれ? これも失敗。久しぶりで腕が鈍ったわね、私」
「こら待て! 私たちも巻き込む気か!」
ヌンが慌てた声を上げた。
「そんなの知らな~い。巻きこまれたくなければ逃げればいーのよ~。えいっ!」
白猫が器用にも、更に書架から本を一冊引きぬき落とした。
それは緑色の表紙に、見たこともない文字でタイトルが刻印された本。
「ベアトリクス、逃げるぞ!」
「え?」
ヌンはベアトリクスの腕を掴むと、いきなり駆け出した。
ばさっ!
本の落ちる音が聞こえた。
直後、ベアトリクスの視界がすべて闇に塗り替えられ、全ての感覚が消えうせた。




