其の肆 2
「なにをしている?」
音も無く少年の背後に立つや、相変わらずの平淡な声でヌンが声を掛けた。
まったく気配を感じなかったのだろう、少年は驚いて振り向いた。だが相手がただの女であることを確認すると、彼は再び本を無造作に書架から抜き出し始めた。
ヌンは目を閉じていた。
無表情のまま、ヌンが再び同じ問いをした。
「うるせぇな。見てわからないか? 持って行くんだよ」
「当図書館では、一度の貸出限度は三冊までだ」
「ったく、うぜぇな」
ガチンッ!
金属のはじけるような音が急に聞こえた。
少年が振り向きざま、いきなりナイフをヌンに刺したのだ。
いや、ナイフはヌンのエプロンドレスに止められていた。
そういえば、あのドレスは魔法金属だとアインが云っていたのをベアトリクスは思い出していた。
注意したのがヌンだったからよかったものの、もしベアトリクスだったらどうなっていただろう?
それを思い、ベアトリクスはぶるっと身震いした。
「明確な敵対意思を見せたな。これは立派な殺人未遂だ。よって、これより御主を犯罪者として取り扱う」
ヌンが目を開いた。現れるブラックオニキスの目。
「てめぇ、人形か! ったく、人形如きが人間様に口出しすんじゃ……」
ヌンがゆっくりと拳骨を振り上げ、そして――
ごんっ!
えらく鈍い音が突然響き、ベアトリクスは思わず身をすくめた。
どさっ。
一瞬の間をおいて、少年の倒れる音。
ベアトリクスはゆっくりと目を開けた。
少年はすっかり気を失って倒れていた。
うわぁ。
ヌンの拳骨の威力に、ベアトリクスは目を瞬いた。
「ベアトリクス。すまないが、ゲートを開いてくれ」
「え、あ、うん。ちょっと待って」
慌てて指輪を使って、書架の側板に受付への魔法陣を開く。ヌンは、少年の襟首を掴んでずるずると引きずってくると、魔法陣に上半身を通した。そして少年を魔法陣の向こう側へと引っ張り込む。ややあって、少年を受付に放り出たヌンが魔法陣から上半身を引き戻した。
そのヌンの雰囲気に、ベアトリクスは首を傾げた。
なにか違和感を感じる。
「……ヌン、どうかしたの?」
不思議に思いベアトリクスが尋ねた。
「どういうことだ?」
「いえ、なんだかちょっと、変な雰囲気がするから」
ベアトリクスが答えると、ヌンはまじまじと彼女を見つめた。
「御主は凄いな。いままで私たちの表情を読む事のできた者は、マスターたち以外にはいないというのに」
「あ、じゃ、やっぱりなにかあったのね」
ヌンが頷いた。
「麻薬騒ぎは聞いているな。どうやらその首魁がウィランに逃げ込んだらしい。この図書館は隠れるのに絶好の上、トラップブックの中には、使い方によっては逃亡するのに最適なものがあるからな。その注意に役人が来ていた」
「逃亡に最適って?」
「館外転移のトラップブックだ」
ヌンは答えた。
「大抵はロクでもない場所。魔の森、背骨北端の魔境、竜の楽園など危険極まりない場所に飛ばされるのだが、稀にまったく危険のない場所に飛ぶこともあるらしいからな」
なるほど。半ば博打ではあるが、追い詰められれば、きっと賭けにでるに違いない。
「ま、私たちが遭遇する確率は極めて低いだろう。気にする事は無い。さ、整理に向かうとしよう」
【第一層第一区画第一書架:初等魔術】
書架の側板に、そう記された木板が貼り付けてあった。
ここが目的地だ。
ここにきてはじめてベアトリクスは、この書架の群れの中で壁を見る事ができた。
綺麗に積み上げられた石の壁。
なんだか嬉しい。
ちょっと壁に触ってみたりする。
思わずベアトリクスはにへらっとした笑みを浮かべた。
「そうだ。ねぇ、ヌン、どうして二階層整理するだけで、九十年も掛かったの?」
ベアトリクスは聞いてみた。アインといい、ヌンといい、目的の場所まで迷わずにまっすぐ辿り着くことができている。迷うことがなければ、そこまで整理に時間がかかるとは思えない。
「原因のひとつはシャッフルの罠だ。このトラップブックはいまのところ 三冊確認されている。そしてもうひとつが館内に仕掛けられた転移の罠だ」
ヌンが答えた。だが、ベアトリクスは首を傾いだ。
「でも、ここまでまっすぐこれたじゃない。どこでどう飛ばされるか、もう知り尽くしているんでしょう」
「フロアに仕掛けられている転移の罠は不定期に位置が変化するのだ。ここ一月は変化がないが、もしかしたら明日にも変わるかもしれん」
ベアトリクスは息をのんだ。
「え、えーと、とすると……」
「ここが迷宮図書館と呼ばれる所以だ。私たちに幻術は効かないが、それでも何度も迷わされている。その指輪が多数生産できるものなら、作業も多少は捗るのだろうが、なにしろひとつ作るのに付きっ切りで丸一月掛かる魔法具だ。しかも同時に複数作るのは無理ときている。数十年前にマスターが作ったものなのだが……六つ作った時点で、やってられるかと怒り出してな」
「い、一ヶ月! それを六個って、指輪を作るのに半年も!」
思わずベアトリクスは大声を上げた。
「いや。八ヶ月だ。一度はトイレ、一度は食事をしたために失敗したといっていた」
「そんな! たったそれだけの時間で失敗しちゃうの?」
ベアトリクスは思わず右薬指の指輪をあらためて見つめた。
まさか、そんなとてつもなくデリケートな魔法具とは思ってもみなかった。
「単なる特定地点への転移の魔法具なら、材料さえあれば、マスターなら一時間と掛からずに作り出すだろう。だがここは迷宮図書館だ。仕掛けられた転移罠に、なぜか幻影術が転移関連の術に過剰干渉するらしく、まともに起動しなかったそうだ。
そのため、マスターはそれらの干渉を回避する術式を組んだらしいのだが、数十にわたる積層型魔法陣を用いる羽目に陥ったと云ってた。さらには指輪の材質にも制限を掛けたために、制作に細心の注意と緻密さが必要となったらしい」
「材質?」
ベアトリクスは右手薬指の指輪をみつめた。
こういってはなんだが、安物の指輪にしかみえない。
「一応、銀の指輪ではあるが、純度の低い安物だ。魔道具としては、この図書館でしか使えない代物であるため、その点では無価値に等しい。そして素材としての価値も、いいとこ二束三文の代物だ。誰も好き好んでこれを盗もうとは思わないだろう?」
ヌンの言葉に、ベアトリクスはぽんと手を打った。
「あぁ、これも盗難防止のひとつなのね」
「そうだ。だがその素材では魔法具の素材、土台としては強度が弱くてな。積層型魔法陣を封じるなど無茶もいいところなのだ」
「……つまり、壊れないように、慎重に魔法を刻んだってこと?」
え、もしかして壊れやすいの、この指輪。
「あぁ、強度に関しては問題ない。あくまでも制作過程での強度の話だ。それに破損防止のために強度上昇の術式も組み込んであるそうだ。この指輪を破壊するくらいなら、街一つ吹き飛ばすほうが楽だとマスターは云っていたな」
……なんでそんな極端なの?
「人間、追い込まれるとどう暴走するかわからないものだぞ」
ベアトリクスの表情を読んだのか、ヌンが答えた。
「だいたいだ、さすがに一ヶ月不眠不休に加え、絶食の上に用も足せないとあっては、マスターといえど無茶が過ぎるというものだ。冗談ではなしに、アキコは泣いて感謝していた」
うわぁ……。
「そ、そうだよね。普通、そんなに絶食したら死んじゃうんじゃ……」
「栄養剤などの薬で凌いだと云っていた」
す、凄い人だわね、それ。
物凄く、不健康そうだけれど。
「さて、それでは整理を始めるぞ」