春休み明けの待ち伏せ(小夏視点)
春休みが終了した。
前期授業が始まって、三日目。
講義が終わった後の、人のいなくなった講義室。
そこの一番後ろの席に陣取って、私は一人ドアを見つめていた。
いつもならまだちらほらと無駄話をしてる学生が残ってるんだけど、今日はお願いして残らないようにしてもらった。
そんなことまでして何をしてるのか、と言うと。
人を待っている。
別に約束をしてるわけじゃない。
ただ、十分ほど前に“こっちに向かった”という内容のメールが来たから、もう少しで来るだろう。
でも。
(待ってると、案外遅いわね……)
時間つぶしにメールでもしようかと、ケータイに手を伸ばした時。
――ガチャ。
ようやく、待ち人が現れた。
「――奈夕ならいないわよ?」
誰もいないとは思ってもいなかったんだろう。
困惑した様子の男に、声をかけた。
奥に行くほど段上に席が高くなっていく大学の講義室。
一番奥に座る私のことは視界に入ってなかったんだろう。
男は慌てたように、こっちを見た。
「藤咲が来なくなったと思ったら、次はあんた。――いい加減、鬱陶しいのよね」
私を見て、驚いたように目を大きくした男に向かって言い捨てる。
「それで?奈夕にいったい何の用?この三日、毎日通って来るくらいなんだから、よっぽどの内容なのよね?――ねぇ、藤咲のオトモダチの氷室くん?」
奈夕が目の前の男に絡まれてすぐ、私は男のことを調べた。
男の名前は氷室和俊。
あの“藤咲透和”の“オトモダチ”。
「へェ、驚いたな。こないだは知らないみたいだったのに。俺のこと、調べたんだ?」
男の――氷室の口元が、軽薄そうに歪む。
眉間に皴が寄った。
「御託はいいから、さっさと答えて」
無駄話をするつもりはない。
言外にそう告げれば、氷室は口元の笑みを消した。
「……ここ最近、トウワが荒れてる」
「それが?」
だから何だって言うの?
ポツリと呟くように言われた言葉に、首を傾げてやれば。
氷室は忌々しそうに吐き捨てた。
「あの女が……松本が、トウワを避けるからだ」
「はァ?何それ?」
言いがかりも甚だしい。
「だから、松本をトウワのとこに連れて――」
「あんた、奈夕のこと嫌いなんでしょ。なのに、利用しようっての?」
最後まで言わせることなく、遮った。
こないだの、売店でのやり取りを見てればこいつが奈夕にいい感情を持ってないことなんてすぐに分かる。
それなのに。
私の問いに、氷室は下を向いた。
「確かに、俺は松本が嫌いだ。トウワの為には、このまま別れた方がいいって思ってる。……だけど!」
氷室が、語尾を強めた。
その声音には、隠しきれない悔しさが滲んでた。
「――あんなトウワ、もう見てられないんだ……!」
苦しそうに、氷室が叫ぶ。
でも、そんなの。
知ったことじゃない。
叫ぶ氷室の訴えを、冷めた思いで聞いていた。
荒れてる?
苦しんでる?
それが何だって言うんだろう。
まさかそれで、今までのことがチャラになるとでも?
冗談じゃない。
あんな男より、奈夕の方がもっとずっと苦しんでる。
傷付いてる。
それを。
この男は全く分かってない。
奈夕を傷付けたあの男に、同情の余地なんてない。
「あんたは、藤咲が奈夕に何したか、知らないの?」
被害者面する氷室に苛立つ。
苛立ちのままに口を開けば。
氷室が怪訝そうに私を見た。
その顔に、さっきまで声に滲んでたような悲痛の色はない。
(ほら、所詮その程度)
その程度の苦しみしか味わってないあんたたちが、奈夕を責める資格なんて――ない。
「あの男は奈夕を……、力任せに強姦したのよ!?」
そんな男と会いたい、なんて。
会わせたい、なんて。
思うわけないじゃない。
それくらい、分かるでしょ!?
そんな思いで口にした言葉を。
氷室は、
「……強姦?言いすぎだろ。あいつらは恋人同士なんだから」
あっさり切り捨てた。
しかも。
「つーかソレ、別れ話が出た後のことだろ?トウワだって感情があるんだ。いきなり別れ話なんてされちゃ、キレるのも仕方ねぇって」
藤咲を擁護するような言葉まで付けて。
「っ」
決死の思いで別れを切り出した奈夕に逆ギレして。
乱暴して。
傷付けて。
例え、今になってそのことを反省したのだとしても。
そんなの――許せるわけない。
そういう心境なのに。
こいつには、反省しようという態度すらない。
カッと血が上った。
別にその言い分は、氷室が思ってるだけのことなのかもしれない。
藤咲は、そう思ってるわけじゃないのかもしれない。
でも。
私には、氷室だけじゃなく藤咲も――そう思ってると言ってるように聞こえた。
「知ってる?」
冷たい、声が出た。
今、私はとても冷めた表情をしてると思う。
怒りは突き抜けると、逆に冷静になるものらしいと。
たった今、知った。
「夫婦でも、強姦罪は成立するのよ?――なら恋人は?」
言うまでもないわよね?
「こっちは出るとこ出たっていいのよ?」
黒板前に立つ氷室を見下ろしながら、口端を上げる。
あの男がやったことは立派な犯罪だ。
第三者から見なくたって、どちらが悪いかは分かりきってる。
(オトモダチが犯罪者になるのは、嫌でしょう?)
だから、これ以上、奈夕に関わらないで。
そんな思いのこもった私の言葉を、氷室は静かに聞いていた。
そして氷室は、
「……それは、無理だな」
ポツリ、と呟いた。
「なんですって?」
ピク、と眉が上がる。
「確かに出るとこ出られたら、大変な目に合うのは俺らだろう」
氷室は、慌てた様子もなく静かに言う。
(何で、こんなに冷静なの……?)
友達が犯罪者になるかもしれないって言うのに、どうして――。
「だけど、そんなことが本当に出来るのか?」
氷室が真っ直ぐに、私を見る。
「そんなことをすれば、松本は……、あんたのお友達は、好奇の目に晒されることになる。それに耐えられるとは思えないがな」
「――っ」
言われた言葉に、息が詰まった。
(こいつ……!?)
私は、奈夕を傷付けたいわけじゃない。
確かに出るとこに出れば、藤咲を奈夕から遠ざけることは出来るだろう。
でも、そのためには。
奈夕はその他大勢の人に事実を知られ、好奇の目に晒されることになる。
口さがない周囲からの言葉にも、耐えなくちゃいけない。
藤咲を排除すると同時に、きっと奈夕には深い傷が出来る。
そんなこと言われるまでもなく、分かってた。
だから、口では言っても実際にするつもりなんてなくて。
ただハッタリだとしても、こいつの、氷室たちへの牽制になればいい、と。
そう思って。
口にした。
それを、この男はあっさりと見破った。
少しの動揺も見せずに。
それが悔しくて。
でも反論する言葉も思いつかなくて。
悔し紛れに、睨みつけるしか出来ない。




