第1話 続・荒野のワンオペ店長
「立て、レオッ!」
怒声と同時に、脇腹へ硬い革ブーツの爪先がめり込んだ。
「ぐ、ぁ……っ!」
内臓を蹴り上げられたような衝撃に、息が止まる。
床に転がった俺の視界で、割れたバーボン瓶の茶色い破片がギラリと鈍く光った。
木造の粗末な床板。石炭ストーブの煤けた匂い。
ここはデンバー町保安官事務所の奥にある、俺たちの自宅だ。
見上げれば、仁王立ちになった巨大な影。
熊のような体躯に、埃まみれの分厚い革ベスト。腰には使い込まれた大口径。
デンバーの町保安官であり、俺の実の父親――ジョン・カーターだ。
「町中のゴロツキどもがお前を見てゲラゲラ笑ってやがった! 保安官の息子が、サルーンのど真ん中で銃も抜けずにへたり込んだってなァ!」
ジョンの唾が、俺の頬に飛んでくる。
先刻の駅前サルーンの光景が、痛む頭の奥でフラッシュバックした。
荒くれ者の喧嘩。飛び交う怒号。
ジョンは俺の背中を押し、「銃を抜け」と命じた。
だが、向けられた剥き出しの殺意と銃口の冷たさに、足の骨が抜けたように崩れ落ちた。
引き金に指をかけるどころか、震える手から重いリボルバーを床へ取り落とし、無様に這いつくばったのだ。
「いいか、レオ。このデンバーで法が通じるのは、逆らう奴を俺が確実に撃ち殺してきたからだ。暴力のねえ保安官なんざ、ただの肉袋だぞ」
ジョンの声から怒気が消え、代わりに氷のような冷酷さが滲み出た。
「『保安官のガキは引き金も引けねえ』と知れ渡ったんだ。……カーターの名をぶら下げたまま、明日もお前の首が胴体に繋がってると思うか?」
「…………」
「俺の息子としてここに残るなら、明日の朝には無法者どもに喉を裂かれて路地に吊るされるだけだ。……そんな穀潰しを庇って、俺まで撃ち殺される気はねえよ」
弱者は切り捨てる。
だが――保安官の息子という看板を剥ぎ取られなければ、銃も撃てない人間がこの街で一晩たりとも生き延びられないのもまた、西部の現実だった。
「今日からお前はカーターでも何でもねえ。ただの野良犬だ。野良犬にわざわざ高い弾丸を使ってやる奴はいねえよ。……俺の家にも、この町の法の下にも、お前の居場所はねえ」
「親父、待っ――」
弁解の言葉を紡ぐ暇さえなかった。
襟首を乱暴に鷲掴みにされ、巨大な力で宙へ吊り上げられる。
ドゴッ!
視界が激しく明滅した。
顔面にめり込んだ硬い鉄拳。
鼻骨が軋む鈍い音が頭蓋に響き、口の中に鉄錆と生温かい血の味がどっと広がった。
痛い。死ぬほど痛い。生身の顔面を殴られて平気でいられる人間なんているわけがない。
激痛に涙と鼻水が溢れ、呻き声しか出ない。
ギィ、と荒々しく玄関の木製ドアが開け放たれた。
「二度と敷居を跨ぐな! 野垂れ死ね、出来損ないが!」
重い蹴りが尻に突き刺さる。
俺の身体は夜の闇へと放り出され、雨水でぐちゃぐちゃにぬかるんだ通りへと叩きつけられた。
バダンッ!
背後で暴力的な音を立てて扉が閉ざされる。
直後、内側から重い鉄の閂が落とされるガチャンという絶望的な金属音が、雨音の中に冷たく響いた。
冷たい泥水に顔面から突っ伏していた。
鼻腔と口の中に、泥混じりの濁水が容赦なく逆流してくる。
「ゲホッ……! ぶ、カハッ……!」
咳き込んでも、肺に空気が入ってこない。
殴られた鼻と喉が血で塞がり、気道が焼き切れるように熱い。
泥水を吐き出そうともがくが、手足が鉛のように重くて力が入らない。
息が吸えない。
酸素が足りない。
心臓がドクドクと不規則に早鐘を打ち、視界の端から真っ白なノイズが侵食してくる。
――あぁ、死ぬ。
このまま泥水の中で、誰にも知られずに窒息して死ぬんだ。
胸が張り裂けそうな酸欠と激痛の極限状態が。
俺の魂の奥底に眠っていた「何か」の引き金を、乱暴に引き絞った。
ピピピピ、ピピピピ――!
脳内でけたたましく鳴り響く、フライヤーの加熱アラーム。
注文レシートを際限なく吐き出し続けるプリンターの駆動音。
『おい、まだかよ!』
『ドライブスルー何分待たせんだ!』
車載マイク越しに浴びせられる、深夜の酔っ払いたちの怒号。
深夜2時。
バックレたバイトの穴を埋めるための、連続40時間勤務。
灼熱の鉄板でパティを焼きながら、片手でバンズをトーストし、背後で鳴り続ける揚げ油からポテトを引き上げる。
誰も助けに来ない。一秒でも手を止めれば客が怒鳴り込んでくる。
立ち込める酸化した油の悪臭。
熱気と煙で酸素の薄い厨房。
そして――油でギトギトに滑るタイルの上で、軋む心臓を掻きむしり、一人きりで倒れ伏した最期の瞬間。
(……あぁ、そうだった)
濁流のように溢れ出す、10年分の現場の記憶。
何万個のバーガーを焼き、どれだけの修羅場をたった一人で捌ききってきたと思ってやがる。
使い潰され、すり減らされ、最後はバックヤードでゴミのように息絶えた――あの焼き切れるような記憶が、冷え切った血を一気に沸騰させた。
ふざけんな。
ふざけんなよ!
前世であれだけ身を粉にして働いて、理不尽に使い潰されて、あっけなく死んだっていうのに。
生まれ変わったこの世界でも、また同じか?
銃が撃てないから死ね?
暴力を振るえない腰抜けだから人質になる前に野垂れ死ね?
「冗談じゃ……ねえぞ……ッ!」
二度も理不尽に殺されてたまるか!
誰が死んでやるものか!
「ぐ……っ、あぁぁぁッ!」
俺は泥水の中に指を突き立てた。
爪の間に泥と砂利がめり込み、激痛が走る。
だが、その痛みが最高の発火剤になった。
腹筋に力を込め、ぐらつく視界を怒りでねじ伏せて――俺は、自分の足で立ち上がった。
泥水に突っ伏したまま死ぬなんて、絶対に御免だ。
腫れ上がって半分塞がった右目で、固く閉ざされた保安官事務所のドアを睨みつける。
口の中に溜まった生温かい血と泥を、木製のドアの足元めがけてペッと吐き捨ててやった。
振り返る。
雨煙に煙る、1872年のデンバーの街並みが広がっていた。
石炭の煤煙と、馬糞と、湿った木材の匂いが混じり合う混沌の街。
遠くから、デンバー・パシフィック鉄道の蒸気機関車が放つ、大地を揺るがすような重い汽笛が響いてくる。
「……銃は撃てねえよ」
雨に打たれながら、俺は血まみれの口元を歪めた。
殺し合いなら、あの熊みたいな親父や荒くれ者どもにやらせておけばいい。
俺には銃の腕なんざ最初からない。
だが――絶対に死んでやるもんか。
雨煙の向こう、駅前の灯りを見据え、俺は泥だらけの足で一歩を踏み出した。
駅前の粗末なサルーンには、金鉱掘りや牛追いの荒くれ者どもが溢れている。
やつらが何を食わされているか──。
石のように硬い塩漬け干し肉と、冷え切って泥のような豆の缶詰。
胃袋を痛めつけ、酒で誤魔化し、常に飢餓感に苛まれているケダモノども。
やつらの食事はあまりにも劣悪だ。
勝ち筋はある。
ここデンバーの見向きもされない食材の中に。
美味くする方法など、文字通り死ぬほど知っているのだから。
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