76. 朗読
帝都の蝋月から、東菜種ヶ原の屋敷に便りが届いた。
蝋月と国本女史、ふたりが無事であることは阪田兄弟から聞いてはいた。
しかし本人からの知らせに、ツバサたちはホッと胸をなでおろした。
蝋月たちはこの屋敷には戻らず、帝都に留まるという。
用事が済んだら、帝都で落ち合おうと書いていた。
そう、蝋月はその手紙で翼と北川に、ちょっとしたお使いを命じていた。
お使いに同行できないと聞いて、ツバサは餅のようにふくれた。
現地に着いたらすぐに、彼女に宛てて手紙を出すこと。
おみやげを買ってくること。
翼がそう約束して、やっとツバサの機嫌は直った。
「大蛇足だな」
お使いの内容を、北川はそう評した。
翼も同感だ。
こういう下らないことに全力を出すのが、山井蝋月なのだ。
「でも、僕はちょっと楽しみです」
「なんだよテバサキマン、蝋月さんの悪趣味がうつったか?」
「懐かしい顔に会えるから」
今は出発の前夜だ。
ツバサはすでに眠っている。
翼と北川は、台所で夜食を取っていた。
こうして、ふたりがゆっくり膝をつきあわせるのは、現実世界の晩以来だ。
ずいぶん久しぶりに思われる。
調理用のストーブには火が入れられ、スープの入った鍋が乗せられている。
粥ばかりでは飽きるだろうと、まだ本調子ではない翼のために北川がこしらえてくれたのだ。
たっぷりの野菜と麦が入ったスープだ。
実は、彼は料理上手なのだ。
『アカバネ』には、もちろん描かれていない瑣事。
だが、それはしっかりと翼の記憶に刻まれていた。
「いただきます。と、その前に……」
翼は戸棚からいくつかのスパイスを取りだした。
そして、自分のスープにパラパラふりかける。
何気ないその行為を、北川が見とがめた。
「どこまで憶えているんだ?」
「え?なんですか?」
それ、と北川は翼の飲んでいるスープを指差す。
「かけすぎだ」
「このくらい効かせたほうが、グッとうまいんですよ」
「その食い方、あの人の悪い癖そのまんまだ。ダイムに払った報酬といい、どこまで思いだした?」
違いますよ、と翼が答えた。
「思い出すというより、元々あるものを引き出せるようになった……と言った方が正確ですね」
「タチが悪いな。俺の恥ずかしい過去もぜんぶ、テバサキマン君に握られてるってわけか」
「ははは、そうですね。司さんの記憶は、ぜんぶこの中に入ってます」
翼は自分の胸を、軽くこぶしで叩いてみせた。
「それにしては、君は以前と変わらないように見える」
「司さんの人格まで、受け継いだわけではないですから。僕は僕のままです。そして僕の記憶と司さんの記憶は、クッキリと分かれていて混じり合ったりしない」
なんて説明したらいいのだろう。
翼はしっくりくる言葉を探した。
「僕の中に『中野司』という本が置いてある……そんな感じでしょうか。僕はその本をめくって、好きなページを読むことができるんです」
「そっか」
頷いた北川は、どこか寂しそうだった。
だから翼は言った。
「本のいいところは、いつ読んでも中身が変わらないことです。そして、分かち合うことだってできる」
「分かち合う?」
「いまからその本を声に出して読みます。だから北川さん、聞いてください」
翼は愛しむように、ゆっくりとページをめくった。
***
特別な合図は何もなかった。
ゆっくりと髪をかきあげる動作に、北川は息をのむ。
そして向けられた、まなざしに確かな変化を見てとった。
温かく静かなその目は、北川の身近にいたあの人のものだった。
目の前の翼の姿が、声が、変化したわけではない。
なのに、中野翼に彼が完全に重なって見えた。
彼はゆっくりと立ち上がると、酒瓶とグラスを持ってきた。
あの琥珀色の強い酒だ。
なみなみとグラスに注ぐと、グッと煽るように飲む。
「……!!」
しかし、たちまちむせ返る。
「その体は、半病人です。しかも下戸だ」
北川がそう指摘した。
咳き込みながら、彼は苦笑する。
「情けないことになったもんだ」
「まったくです。代わりに茶でも淹れますよ」
「濃い目に頼むぜ、ビオ」
北川ビオラ。だからビオ。
彼のことをそう呼ぶのは、目の前にいる彼しかいない。
ダサいからやめてくれ、と何度北川が抗議してもやめてくれなかった。
二度と口にすることはないだろうと思っていたその名を、北川は唇に乗せた。
「ご無沙汰しております……中野隊長」
時計の針は3年前に巻き戻されていた。
「わたしはずっとここにいたよ」
そういって、彼は微笑む。
まるで昨日別れたばかりのようだ。
「あっ、そうだ。ナカノ君を……妹さんを起こしてこないと」
腰を浮かした北川を彼が引きとめた。
「いいさ、今はお前とふたりで話したい」
それに、そう急ぐ必要はないんだと彼は言った。
「ここがわたしの終の棲家だ。ツバサだっていつかわたしに会いたくなったら、ドアをノックすればいい。もうわたしはどこにもいけない。そして変われない」
再会の喜びを塗りつぶすように、北川の中に湧きあがってきたのは寂しさだ。
中野翼ごしの中野司は、無位の双眸に侵される前の、北川のよく知る彼のままだ。
ここにいるのは司自身ではなく、司の残した影なのだ。
この先、移り変わっていくのは北川自身だけだ。
「……今のあんたが何なのかなんて、分からない。でも何でもいい。こうやって声が聞けたんだ」
唇を少し尖らせぶっきらぼうに話す北川を見て、司は苦笑した。
こういうところは10歳のころから、まるで変わっていない。
泣き虫で駄々っ子で。つい構いたくなってしまう。
北川は三月十三日隊の末っ子だった。
「結構じゃないですか。厄介事はぜんぶ生きてる俺たちに放り投げて、隊長は彼の中でダラダラ暮らして下さい。いつまでもね」
「ありがとう。そしてごめんな」
「よしてください」
「言わせてくれ。お前を引っぱりこんだのは妹の金星だ。ビオがいなければ、わたしも中野翼もここまで辿りつけなかった」
「ハハ、隊長にやっと褒めて貰えた」
まったく遅すぎる。
けれど北川の長年の願いは、これで叶ったわけだ。
「それに、楽しかった。中野翼の手を引いて歩くビオを、ここから見ているのは」
「楽しかった……ですって?こっちはあんたに振り回されて、どれだけしんどい思いをしたか」
「わがまま言って、守ってもらって。まるで、君の小さな弟になった気分だった」
「……そんなこと言って。俺を泣かせようとしても、そうはいきませんよ」
「泣き虫は返上か。昔はよくベソかいてたのに」
大人になったんだな、と司は笑う。
「あなたの前では、泣きません。あなたが帰った後に、ひとりで泣くんです」
そして、北川は二杯めの茶を淹れた。
ふたりは黙ってそれを飲んだ。
「ひとつだけ、教えて欲しいことがある」
ほんの付け足しというように、司は切り出した。
「あの方はいまどうしている?」
「あの方……?」
「羽生おもかげ。他に誰がいる?わたしの主様だ」
北川は司のその質問を予期していた。けれど受け止め損ねた。
にわかに北川の表情が陰るのを見て、司は答えを察したようだ。
「そうか、わたしのしたことは無駄だったわけか」
帝国第一皇女・羽生おもかげ。
凶刃に倒れた司を救おうと、彼女は無位の双眸という禁断の力に手を伸ばした。
蘇った司は、その罪をおもかげ姫と分かち合った。
しかし、咎は彼が一身に引き受けた。
無位の双眸という災厄を抱えて、彼はひとり沈んだのだ。
「病未だ篤し……臣民に明かされているのは、それだけです」
これは噂にすぎない話ですが、と前置きして北川は言った。
「あの日からずっと、姫様は眠り続けているらしいのです」
だが遺物の力は、司の手で完全に浄化されているはずだ。
おもかげの中に、その棘は残っていない。
「あなたのしたことは、決して無駄なんかじゃない。傷さえ癒えれば、姫はすぐにでもお目ざめになられる」
「そうか」
けれどその時、目覚めた姫のそばには司はいない。
生者のために、彼が出来ることはなにもない。
「ビオ、お前さんにアドバイスを贈ろう」
「は?」
「人生は一度きりだ。目の前のおっぱいは、カッコつけずに揉んでおけ」
「……その言葉、あんたの墓石にいまから刻んであげましょうか?」
至言だろ?と司は笑う。
「わたしはあの御方をさらって、逃げるべきだったんだ。使命も、隊も、すべてを捨てて」
どう転んでも、中野司がしたはずがないことだ。
それは北川にも、司本人も分かっている。悲劇は避けられなかった。
けれども昔見た温かな夢を思い出すように、あり得たはずのないもうひとつの人生に、司は想いを馳せる。
「せめて、一度だけでも想いを言葉にしておくんだった。お前は後悔するなよ。女のことに限らずな」
「……」
俯いた北川の顔を、司は下から覗き込む。
「お前の涙のツボは分からないな」
「……うるさい」




