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68. きざし

 紙一重のところで、翼を救ったのは余目某だった。

 正確にいえば、余目某の手帳が翼を救ったのだ。


 某は完全に、阪田ダイムの目を欺いた。

 北川や蝋月も、某が翼の懐にひそませた、術具の存在に気づくことはできなかった。

 魔力の香りを、巧妙に押さえた護符。

 そのトリガーは、翼の一定の消耗だ。

 『気をつけろ』

 一度目の警告もそうだった。

 翼の存在が『アカバネ』世界から消えようとする時に、某の力は現れる。


 ダイムの刃が、翼を傷つけたその時だった。

 翼の胸ポケットにしまわれていた、それが爆ぜた。

 翼にかけられていた拘束の術が緩む。

 その瞬間を捕え、翼はもう一度世界を飛ぼうと試みた。

 しかし傷ついた翼は、不完全にしか力を発動することができなかった。

 ダイムの手から逃れることはできた。

 しかし翼は未だ雨の降り続く、『アカバネ』世界の空の下にいた。


 雨で霞みがかった景色。

 ここは城門の外だった。

 街道から外れた森の入口。

 翼はその草むらに倒れこんでいた。

 

 今度は遊びの一撃ではない。

 ナイフには、ダイムの魔力が籠められていた。

 かりそめの体に痛みはない。

 しかし傷口を確認するのは、やめておいた方がいい。

 翼の本能が、そう告げる。

 この体から、流れ出しているのは血ではない。

 砕かれたのは、彼の存在そのものだ。

 傷口を見てしまえば、きっと正気を保てない。


 今ごろダイムは、自分を必死で探しているはずだ。

 しかし彼のとどめの一撃を、待つまでもない。

 ダイムは翼の芯をえぐったのだ。

 肉体が解けていくのが分かった。

 この傷ついた体では、現実世界には戻れない。

 そして『アカバネ』世界も、翼を手放そうとしている。

 

 訪れようとしているのは、死よりも恐ろしい結末だ。

 このまま自分は、暗闇の中に沈むしかないのだろうか。

 その冷たいビジョンは、翼を震わせる。

 すがれるものは今や、絶え間なく降り続くこの雨だけだった。

 雨粒が顔に当たり流れる感触だけが、自分がここにいることを教えてくれる。

 みじめな最後だ。

 抵抗もできず、逃げ出すこともできなかった。

 そして、ひとりで消えていく。


 極限の中で、翼は思い出していた。

 自分がこの世界にやって来た理由を。

 それは、遠い日に交わした約束だった。

 しかしもう、果たせそうにはない。


 そして翼は、その音を聞いた。

 激しい振動が、彼を飲み込む。

 震源は翼自身だった。

 北川の持つ不完全なレプリカと、翼の中に眠るオリジナル。

 ふたつの無位の双眸の、共鳴が始まったのだ。

 

 ダイムによって翼に刻まれた深い傷。

 その裂け目から、強い力が翼の体外へと這い出そうとしている。

 内側から噴きだすマグマのような熱に、かりそめの体は喰い破られようとしていた。

 肩に爪が食い込むほど必死に、両腕で自分の体を抱える。

 祈りと悪態が入り混じった言葉が、翼のその唇から洩れた。

 受けた傷を押し広げるようにして、その力は翼の中で暴れ狂った。

 それは癒しなどという言葉では、説明ができないものだった。

 優しさなど微塵もない。

 存在を増した力が、翼の傷を強引に埋めていく。

 

 体のすべてが組みかえられていく。

 奪い、そして与える。

 それがあの遺物、無為の双眸の力なのだ。

 それはもの言わぬ、冷たい道具ではない。

 捕えた獲物の骨をしゃぶり、荒い息を吐く猛獣だ。

 翼は知らぬ間に、その獣を飼っていたのだ。

 

 ダイムから受けた傷は消えた。

 しかし無位の双眸の力は猛毒にも等しい。

 熱さと、例えようのない渇きが翼を襲う。

 そして、今度こそ本物の痛みがやってきた。

 痛みは中野翼が、この世界に居る証しだ。

 消えかけていた翼を押しとどめたのは、その体に通い始めた血の熱さだった。

 声の続く限り、翼は叫んだ。


 長い時間が経ったのかもしれない。

 それとも、一瞬の出来事だったのか。

 まるで潮が満ちて、引くように。急激に熱は去っていった。


「そうか――壊れているのは、僕だけじゃなかったんだな」


 翼は呆然と呟いた。

 無位の双眸が完全なものであったなら、翼の自我は焼き尽くされ、遺物の隷属へと変えられていたはずだ。

 中野司によって、破壊されたはずの遺物・無位の双眸。

 落ち延びたそのかけらも、脆弱な存在になり果てた。

 いまや翼という宿主を失うわけにはいかないのだ。

 壊れた中野翼と、壊れた無為の双眸。

 欠けた者同士が支え合っても、長くもつまい。

 あとひと押しもすれば、崩れてしまう。


 ――あと少しだけ、持ちこたえてくれ。


 翼は立ち上がり、歩き始めた。

 もう一度、ツバサに会わなければ。


                 ***



 ――なぜだ?なぜだ?なぜだ!?


 答えの出ない疑問が、ダイムの中で空回りする。

 なぜ、余目某が邪魔をする?

 中野翼……”アレ”はいったいなんだ? 

 無位の双眸の、おぞましくも強大な力に魅入られた山井蝋月が、異世界から召喚した化け物。

 おぼろげながら積み上げた推論は、余目某によって大きく揺らいだ。

 真実を知るには、逃げ出した中野翼を追うしかない。

 

 いま彼がどこにいるのか。ダイムには手に取るように分かった。

 負わせた傷から、流れ出す魔力の匂いを辿ればよい。

 中野翼からしたたる、その魔力の色は刻々と変化し続けている。

 強さも増す一方だ。

 無位の双眸がついに暴走をはじめたのか?

 いやそれでは、この静けさの説明がつかない。


 どんな敵と対峙した時でも、一歩もひいたことはない。

 あと一太刀。それであの化け物は終わりだ。

 しかし湧きあがった迷いが、ダイムの足を止めていた。

 雨に濡れた体が、やたらと重く感じられた。

 足を引きずるようにして、ダイムはその方向へと歩き始めた。

 心を静め、妖気を手繰り探っていく。

 無位の双眸――その強力な魔具の他にも、中野翼の中には看過できない何かが潜んでいる。


「あっ、あー!」


 天を仰いで、ダイムは叫んでいた。


「くっそ、なんてこった!!」


 糸口を一度掴んでしまえば、簡単なことだった。

 中野翼の中に潜んでいた、もうひとつの力。

 それはダイムの、よく知るものだった。



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