43. あの時の血
目を閉じていても、空気が変化したことがわかった。
いや、変化は周囲だけではない。
北川自身にも訪れていた。
顔が温かいもので濡れている。
嗅ぎ慣れた匂いだった。
その何かを舌で舐め取る。予想通りの鉄臭い味。
これは多分、自分自身があの時流した血だろう。
いや、あのときの血を再現した”何か”だ。
目を開けると、そこは狭いワンルームだった。
北川は見知らぬ部屋に、仰向けに倒れていた。
今までいた屋敷の、応接間とは違う低い天井。
煩雑に散らばっている生活用品。
ここはツバサに聞いていた、別世界にある中野翼の部屋なのだろう。
北川は翼の能力によって、この異世界に運ばれてきたのだ。
服装も今しがたまで身につけていた平服から、軍服に変わっている。
体を起こすとき、思い切り脛を座卓にぶつけた。
北川にダメージはない。
そのかわり、ガツッとものすごい音がして、座卓の足はポッキリと折れた。
卓上に置かれていたものが雪崩を起こす。
ノートパソコンが滑り落ち、飲みさしのコーヒーが残ったカップが倒れた。
床に敷かれたカーペットに、北川の上着に付いていた血液とコーヒーで、派手なシミができた。
テーブルの足を折った犯人は、いつの間にか装備されていた金属製の足甲だった。
上着は肩口に受けた剣撃によって裂かれ、裂け目はその下に身につけていた帷子にまで達していた。
「あん時の再現かよ……」
北川が呟く。口の中に苦い味が広がる。
屈辱と後悔の記憶。なんという悪趣味な趣向だろう。
『アカバネ』で、北川が中野司に敗北したあのシーン。
こんな形で再現されなくても、今日まで一日たりとも忘れたことなどない。
引きつれた傷痕は、今も彼の肩口に残っているのだ。
中野翼の能力は、対象者の肉体をそのまま異世界へと送りこむことではない。
対象者の肉体をイメージに依って、別世界で再現する能力だ。
この世界での北川のイメージは、あの時のこの格好で固まってしまっているということなのだろう。
北川は、もはや役に立たない上着と帷子を脱ぎ捨てた。
肉体のダメージまで再現されなかったのは幸いだ。
ここに存在するのは、北川の精神だ。
だが以前、中野翼に北川自身が言ったとおり、魂の傷が元で肉体が死ぬこともある。
あの時の傷が忠実に体に現れていたら、もうまともに動くことすらできなかっただろう。
この点で多少の融通が利いたのは、ここで北川に死なれるのはまずいとこの世界が――あるいは中野翼が無意識のうちに?――判断したためだろう。
北川は、この世界に一度は来たいとは考えていた。
そして、その方法を蝋月と共に探っていたのだ。
しかしあっけなく、随分早く実現してしまった。
北川がこちらに来たのは、世界を繋ぐ門である翼にとっても想定外のことだろう。
彼のピンボケも、たまには都合の良い結果を生むと北川は思った。
次の北川の行動は決まっていた。
ただ待つことだ。
ベッドサイドに置かれた目覚まし時計をみる。
時刻は午前10時を指していた。
いま、翼は大学で授業を受けている。
この部屋に戻ってくるまでには、まだ時間があるはずだ。
北川には翼と今すぐ連絡を取る気はなかった。
北川は壁を背にして、この部屋の玄関のドアを見据えていた。
そのまま15分ほど過ぎた。
この部屋は、アパート2階の最奥にある。
共用廊下に面した、キッチンのすりガラス小窓に人影が覗いた。
北川は気配を探る。人数は4人で間違いない。
やがて静かに、施錠されていた筈の玄関ドアが開かれた。
侵入者は背広姿の男たちだった。
「北川ビオラさんですね?」
先頭の男の問いかけに、北川は黙ってうなずいた。
数時間後。
翼が自宅に戻ってきた。
そこは彼が朝出たときと、まったく変わらない様子に整えられていた。
座卓の足はつがれ、カーペットのシミはふき取られ、散らばったものはすべて元の場所に戻されている。
そして北川も背広の男たちも、すでに立ち去った後だった。
翼が、数時間前に起きた異変に気づくことはなかった。
***
現実世界に戻ってからも、翼は特訓を続けていた。
北川から習ったルーン文字を、暇さえあればノートの片隅やチラシの裏に書き付ける。
そして朝晩、走りこみもした。
あの後何度も、向こうの世界に渡ろうと瞑想を試みた。
しかし上手くはいかなかった。
唸っても、転げまわっても、この世界からピクリとも移動しない。
やはり一度だけ上手くいったのは、ビギナーズラックだったのだ。
それからまた何日か過ぎた。




