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40. その背中に

「翼さんは、わたしをひとりにしないで」

 

 ツバサから投げかけられた唐突な言葉。


「……ツバサ?どうした?」


 戸惑う翼を無視して、ツバサは尚も言い募る。


「もう、向こうの世界には戻らないで」

「何言ってるの?そんなの、む……」


 翼の言葉をツバサが遮った。


「無理に決まってるだなんて、簡単にいわないでください。わたしが、ずっとそばにいるから。この世界で、翼さんが何も困ることがないように……わたし、何でもしますから」

「……今日はもう帰ろう。疲れているんだろう?ゆっくり眠ったほうがいい」

「やっぱり、そうなんですね。わたしより、向こうの世界が大事なんですね」

「そんなことを言ってるんじゃない」


 言葉を選んで、翼は答えた。


「向こうの世界に帰れないのは、やっぱり困る」


 でも、と翼は続けた。


「僕は向こうにあるものと、ツバサをくらべたりしない。どっちが大事とか、重いとか、そういうことじゃないんだ」


 現実世界の翼の人生なんて、本当にささやかで地味なものだ。

 自分がこのまま戻らなくても、向こうの世界には何の影響もないだろう。

 どこをとっても、平凡で取り柄のない人間だ。

 自分は特別な存在じゃない。

 でもそれが、中野翼の20年間生きてきた人生だ。


「ただの引っ越しとはわけが違うだろ。向こうの世界を捨てるのは、そこで生きてきた、いままでの自分の全部を捨ててしまうことだと思うから」


 だからできない。

 けれど翼は『アカバネ』世界と、ツバサを諦めることもしたくなかった。

 ツバサとの出会いは、自分の平凡な人生に訪れたただ一度きりの奇跡だ。

 その奇跡を、自分から手放そうなんてするわけがない。


「ツバサ、不安にさせてごめん。振り回してごめん。でも僕はツバサをひとりにしたりしない」


 そして温めていた決意を、翼は口に出した。


「魔法の勉強を頑張って、力をコントロールできるようになれば、僕は好きな時にツバサに会いに来られるようになる。頼りになる先生が3人もついてるんだ。ぜったいに出来るようになる……してみせる」


 けれどその答えは、ツバサの求めていたものではなかったようだ。

 翼が言葉を重ねるほどに、彼女の表情が陰っていく。


「ズルいですよ……翼さん。ふたつの世界が、繋がった理由は未だに分からない。ならばまた理由もなく、その繋がりは突然断ち切られてしまうかもしれない」


 淡々とツバサは言った。

 少しでも感情を滲ませてしまえば、とめどなく崩れてしまいそうだったからだ。


「どちらかの世界かひとつだけ、選ばないといけない。そんな日が来るかもしれないんです。翼さんは、どうしてそれが分からないんですか?」

「……」


 翼は黙っていることしかできなかった。

 馬鹿みたいだ。

 この『アカバネ』世界と、ツバサと、真剣に向き合うとに決めたのに。

 いま、怯えるツバサをなだめる言葉のひとつも出てこない。


 ツバサは携帯電話を取りだした。

 そして、画面を翼に突き付ける。

 そこには、中野司の描かれたサインの写真が表示されていた。


「だったら……向こうの世界を捨てられないっていうのなら……ここの人間になれないっていうのなら……」


 ツバサの声が微かに震える。


「こんな風にこちらの世界に触らないでください。わたしの記憶に……兄さんに触らないで」

「ツバサ……」


 後の言葉が続かなかった。

 弁明することも、謝ることもできなかった。

 自分が取り返しのつかない馬鹿な真似をしたことに、翼は初めて気づいた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 けれど、謝罪の言葉を口にしたのはツバサだった。

 うつむき、声を堪えて彼女は泣いていた。

 涙が、彼女のスカートに落ちる。


「謝らなきゃいけないのは僕の方だ……」


 翼はそっと、ツバサの手を取った。

 ツバサは手を握り返してはくれなかった。

 しかし拒みもしなかった。

 ツバサはすぐに泣きやんだ。いや、懸命にこみ上げてくる涙をこらえていた。

 そして、無理に微笑もうとさえした。

 しかし、それはうまくいかなかった。 

 そしてまた、そのまましばらく時間が経った。


「ごめんなさい……酷いやつ当たりをしてしまって……」

「やつ当たりじゃない。僕がツバサを傷つけた」

「やつ当たりです。翼さんを責める資格なんて、わたしにはありません。だってわたしはもっと、ずっとひどいことをしようと考えてたんだから……」


 それは現実世界で翼に黙って、ひとり四新社ビルまで出かけたときの話だ。


「わたしは六坂ダイに会って、こうお願いしようと思ってたんです。『アカバネ』の続きを描いて下さいって。どんな形でもいい。その中で、もう一度兄さんに会わせて欲しいって」

 

 翼はツバサの告白を黙って聞いていた。


「……最低です。だって、わたしは……わたしは『アカバネ』を読んで知っていたのに。兄がどんな思いで戦って、死んでいったのか、そして死後も苦しむことになったのか……全部知っていたのに。自分のわがままで兄の人生を、そしてこの世界全部を、わたしは汚そうとしたんです」

「どうして、そうなるんだよ……」


 翼は言わずにはいられなかった。


「そんな風に言うなよ。ツバサのやろうとしたことは、ちっとも酷いことじゃない。大切な人にもう一度会いたいって、それは当たり前の気持ちだろ?わがままでもなんでもない」


 六坂ダイに願ったところで、中野司は蘇らない。

 死を覆す力なんて誰にも無いのだ。

 ツバサにだって分かっていたはずだ。

 しかし、そんな幻の希望さえ縋りたくなってしまった。

 彼女を責めることなんて誰にもできないはずだ。


「もういいんです」


 だって、とツバサは言った。


「もういちど兄さんに会えたとしても、わたし何を話していいか分からない……」



                 ***


 学園まで送っていく。その翼の申し出は断った。

 ツバサはひとり、逃げるように教会の外へと飛び出した。

 どうして、あんなに取り乱してしまったんだろう?

 翼にむき出しの気持ちをぶつけても、みじめになっただけだった。

 

 兄の司が死んだのは、もう3年前のことだ。

 兄の死を乗り越えたとは言わない。

 でも事実は受け止めているつもりだったのに。


 ツバサは、血がにじむほどに唇を噛みしめた。

 ツバサには分かっていた。

 『アカバネ』は、自分と翼を結びつけてくれた。

 『アカバネ』が存在しなければ、自分が奇跡と信じるこの出会いもなかった。

 けれど、ツバサは『アカバネ』と六坂ダイに対して、強い怒りをおぼえていた。

 自分の痛いところに触れられたからだ。


 ツバサが兄の司に対して抱いている気持ちは、真っ直ぐで純粋なものではない。

 心の奥深くに隠しておいたはずのわだかまりを、『アカバネ』は無遠慮に掬いあげ、ツバサの眼前に突き付けた。


 自分は中野司の妹だ。

 それが、ナカノツバサの存在理由のすべてだ。

 銀色の髪に、深紅の瞳。

 そしてこの身には重すぎる力。

 自分は兄に似せて造られた。


 だがツバサが、兄から与えられたのは劣等感だけではない。

 大切なものもすべて、兄から与えられた。

 国本女史も、蝋月も、兄が引き合わせてくれた。

 そして北川がツバサの話に耳を傾け、手を差し伸べてくれるのも、兄の存在があったからだだろう。


 帝国軍・対魔専戦隊の一員として、二条桜木の元で戦う。

 その夢さえも、兄の模倣でしかないのかもしれない。

 自分は、いくら求めても、手を伸ばしても、振り向いてくれなかったあの人の――中野司の妹なのだ。


 追いかけても、決して追いつけない背中。

 これからも、ツバサは兄の影を追いかけていく。

 見習い騎士として、夢へのたった一歩を踏み出そうとしたばかりなのに。

 もう躓きかけていた。



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