34. それぞれ後悔
サイン会も終わったことだし、これでご帰宅……とはいかない。
せっかく都心部までやって来たのだ。
翼には寄っておきたい場所があった。
「は?『アカバネ』に関するもの全部欲しい……って、遅いよ先輩!連載終了から4カ月、アニメ終了からはもう2年。いまから出たもの全部集めるって、かなーり大変だよ。原作本を繰り返し読んだり、アニメDVDを擦り切れるまで見返したり、そういう一途なのも愛だとわたしは思うんだけど。それじゃ満足いかないっての?」
翼の目的はマンガ・アニメ専門の中古ショップだ。
ここでならすでに絶版・廃版になってしまった『アカバネ』関連商品も手に入るかもしれない。
「ユーズドを探すなら、オクが一番手っとり早いのに。え?クレカ持ってないから、決済がめんどいって……大学生にもなって、めずらしい人ですね、先輩は」
しかしブツブツ言いながらも、夕は翼の探索に付き合ってくれた。
「おしっ、OVA付限定版コミック21巻と22巻ゲットぉ!このアニラジCDもいっとく、先輩?」
「うん、頼むわ」
夕が翼の持つ買い物かごに『アカバネ』商品をバシバシ放り込んでいく。
どこかの無名作家に書かせた『小説・アカバネ外伝』。『アカバネ』大判ポスターが付録のアニメ雑誌。
ゲームソフト『アカバネ』も売っていた。ゲーム機本体も持ってないのに、翼はそれも購入した。
幸いなことに『アカバネ』グッズには、プレミアなんてついていなかった。
二束三文。ただの中古品扱いだ。
「同人の方は収穫なし。あっち方面の人気はさっぱりだね。さっきのサイン会も、年齢層低かったし」
ひとり店の奥に行っていた夕が、スタスタと戻って来た。
「オタは見る目ないなぁ。『アカバネ』には、美味しいところがたくさんあるのに。男子も女子も、出てくる子みんな可愛いし。細かいガジェットも凝ってて、わたしはそういうとこが好きなんだけど」
「頼りになるぜ、波戸夕」
夕がいてくれたおかげで、買い物がはかどるはかどる。
「うっ、買被りですよ。買被り!わたし、マンガとかアニメとか詳しくない側のひとだし」
夕方までに3件ショップを巡り、翼の両手はすっかり『アカバネ』関連の品物でふさがってしまった。
さすがに『アカバネ』キャラが描かれた、ペアのマグカップまで買ってしまったのは余計だったかもしれない。
夕の解説によると、すでに入手済のものと合わせて、これで『アカバネ』絡みの商品はほぼコンプリートらしい。
「細かいところまで入れると、キリがないけどね。わたしの手持ちも少しはあるから、今度バイト先に持っていくね。先輩に貸してあげる」
***
サインを受け取った瞬間から、早くも翼の後悔は始まった。
サインに添えられたそれは、とても良いイラストだった。
翼ひとりのものにして、世に出さず埋もれさせてしまうのは惜しいくらいに。
劇中では見せたことがない、柔らかな表情の中野司。
穏やかすぎて、まるで本当の遺影のようだ。
「翼さんのことを、兄様と呼んでいいですか」
先日ツバサから言われた時と同じ、胸の痛みをおぼえる。
中野司という、ツバサにとってかけがえのない存在を、自分という粗悪な絵の具で汚してしまったような気がした。
そして今日も、翼は日記のページを開く。
翼は書いた。
サイン会に行ったこと。六坂ダイにあったこと。
向こうにいるツバサは必ずそれを読む。
けれど、触れない訳にはいかない。
今日あったことをなかったことにしてしまえば、その罪悪感は更に増すだろうから。
***
履いていたストッキングを引きむしるように脱ぎ捨て、波戸夕は自室のベッドに倒れこんだ。
お気に入りのワンピースが、しわになってしまう。
でもそれを脱ぎ、ハンガーに掛ける気力すら残っていない。
今日の戦利品である六坂ダイのサイン本も、袋に入れたまま部屋の片隅に置きっぱなしだ。
ああああ……夕は呻いた。
消えたい。消えてしまいたい。
今日は、夕にとっての決戦だった。
結果は惨敗。
サイン会は口実だった。
翼と一日ふたりきりで過ごせる。
それが重要だったのだ。
慣れないミュール、足にできたマメが痛い。
コンタクトレンズは、会場に向かう途中でずれてしまった。
おかげで、いつもの野暮ったいメガネに逆戻り。
その時に流した涙で、1時間かけて頑張ったアイメイクがグチャグチャになってしまった。
精一杯背伸びした。でも結局ボロが出た。
気持ちだけが空回りだ。
サイン会の後にはふたりでご飯も食べたし、帰り間際にはお茶だって飲んだ。
素直じゃないことも言ってしまったけれど、あのアニメショップ巡りだって本当は楽しかった。
本当のデートみたいだった一日。
でも、そう思っていたのは自分だけだ。
翼と喧嘩をしたわけでもない。
翼に冷たくされたわけでもない。
翼のメールアドレスと、電話番号も手に入れた。
勇気を出して、良かったと思う。
ちっとも進歩がないわけじゃない。
けれど、ふたりの距離は相も変わらず。
バイトの先輩と後輩のままだ。
――中野先輩には、わたしのことだけ見ていて欲しいのに……
一足飛びにいかないことは分かっている。
だけど少し泣きたくもなる。
隣にいても翼は夕のことなんて、まったく意識していなかった。
今日の翼は何か他のことに、気をとられているようだった。
サイン会でもそうだ。
会場にいた他のファンたちが発散する、無邪気な熱を翼は持っていなかった。
翼は六坂ダイと、彼の描いたそのサインを、張り詰めた表情で見つめていた。
まるで、そこに隠されている暗号を必死で読み解こうとしているように。
正面にいた六坂ダイも、翼がそんな顔をしていたことに気付かなかっただろう。
ずっと翼のことを見ていた夕だけが気付いた。
そして突如翼の元に出現した、ナカノツバサも問題だ。
彼女が翼の妹ではないことを、夕は知っていた。
「なかの……つばさ……」
夕はそっと唇に、その名前を乗せてみる。
翼の心の中を、占めているのは何だろう?
夕はそれが知りたかった。




