32. キャラソン
次はツバサの報告を聞いて、翼が驚く番だった。
ひとり遠出して、六坂ダイに会いに行ったこと。
そして彼には会えなかったが、『アカバネ』担当編集者の田沼利人に偶然会ったこと。
彼女の行動力を、翼は甘く考えていたようだ。
「ツバサはすごいな。ひとりで電車に乗ったの?」
「ごめんなさい。勝手なことをして」
「ううん、謝らなくったっていい。でも次からは、僕にひとこと言ってね。やっぱり心配だから」
「はい」
六坂ダイの顔を、一度見てみたかった。
ツバサは外出の理由をひとこと、そう説明した。
「でも、もういいんです。気が済みました」
あの後、ツバサは田沼利人と少し立ち話をして別れた。
「驚かせてしまったお詫びにと、これをいただいたんです」
ツバサが田沼から貰ったのはクオカードだ。
クオカードには、週刊少年ファイブで連載中のニューカマー『琥珀のテレヴィジョン』のイラストが印刷されている。
『アカバネ』の連載終了後、彼はそのマンガの担当に就いたんだろう。
「田沼さんには、2分間の間に『日本語うまいね』って5回言われました」
当然、ツバサは自分の正体を、田沼利人に明かすことはなかった。
彼は作者・六坂ダイの傍らに5年間寄り添い、『アカバネ』の立ち上げから完結までを見続けた担当編集者だ。
その彼もツバサに気づくことはなかった。
ツバサと田沼が、路上で行き会ったのはただの偶然だ。
その時ツバサも翼ももちろん、そう思っていた。
***
きょうの夕飯はハンバーグだ。
ふたりで作って、ふたりで食べて、ふたりで後片付けをした。
ふたり分のお茶を入れて、お茶菓子も用意した。
第3回『アカバネ』勉強会。
今夜は音楽鑑賞だ。
「”きゃらそん”って、なんですか?」
ツバサの顔にいくつもの?が浮かんでいる。
「朱音吾輝人や二条桜木、『アカバネ』に出てくるみんなが歌を歌うんだ」
「えっ、歌?吾輝人さんと隊長が?どうして?」
どうしてって。そう聞かれても、翼も困る。
「いや、ふたりが歌っているというより中の人……声優さんが役になりきって、熱唱しているわけなんだけどさ」
「中の人?なりきり?」
翼の下手な説明のせいで、ツバサははますます混乱してしまう。
ツバサが困惑するのも道理だ。
『アカバネ』はどこまでが創作で、どこまでが向こうの世界の現実なのか。
翼にだってその境目はわからない。
『アカバネ キャラクターソングCD』
このCDに今回のできごとの謎を解く、重大なヒントが隠れている……かもしれない。
それを確かめるために、翼はこれを買ってきたのだ。
「とりあえず聞いてみよっか」
翼はCDを差し込み、音楽プレイヤーのスイッチを入れた。
1曲目、2曲目。
ツバサは真剣な表情で耳を傾けていた……というよりも、何か酸っぱいものを間違って口の中に入れてしまったような顔をしていた。
翼といえば、開始30秒であくびを一つ。
おもむろに携帯電話をいじり始める。
『アカバネ』という名を冠してはいるが、内容はごくごくありふれたJポップアルバムだ。
しかも、これが結構いい曲だったりする。
音楽CDとしては掘り出し物。
だけど本来の目的としては大ハズレだ。
ひっかかりの一つもなにもない。
やっぱりこのCDは、本筋ではないファングッズ。
『アカバネ』としての純度が低いということなのだろう。
3曲目に入っていたのは、中野司の歌うロックバラードだった。
曲が終わるのと同時に、翼はプレイヤーの停止ボタンを押した。
――もう耐えられない!
ツバサも同じ気分だったらしい。
そしてふたりは、顔を見合わせて大きな声で笑った。
「ぷっ、あはっ……ふふっ……兄様が歌っているの初めて聞きました」
「おいおいおい!中野司ってば、歌うめえな!」
達者なところがまた笑いを誘う。
歌詞には愛だの、想いだの、未来だのと、臭い単語がこれでもか!とちりばめられていた。
しこたま酒でも飲ませて逆立ちさせたところで、あのひねくれものの中野司の口からは絶対出てこないワードたちだ。
「歌っているのは、本物の兄様じゃないかもしれないけど」
そう前置きしてツバサは言った。
「この”きゃらそん”を作ってくれた方は、楽しそうに歌っている兄様の姿を思い描いてくれたんですね」
これが本当のことでなくても構わない、とツバサは思った。
「わたし、この歌が大好きになりました」
そう言ってツバサは微笑んだ。
***
「あ、そうだ。お土産もうひとつあるんだ」
つまらないもんだけどさ。と翼はツバサにそれを手渡した。
「えっ、これ。わたしに?」
「うん、ためしに付けてみて」
先日ツバサの財布を買ったファンシーショップで、翼が買い求めたのはカチューシャだった。
カチューシャには、大きなピンクのバラの飾りがついている。
このカチューシャを頭につければ、誰もツバサことを男の子だと間違えないだろう。
これはダイヤの指輪じゃない。ささやかな値段の髪飾りだ。
しかしアクセサリーといえばアクセサリー。
アクセサリーを異性に贈る。
翼にとっては初めての経験だ。
無性に尻の座りが悪い。
「こんな感じでいいんでしょうか……?」
ツバサは戸惑いながらも、素直にカチューシャを髪に付ける。
「ん、良く似合ってるよ」
「ありがとう……ございますっ!」
ツバサは深く、ちゃぶ台に頭をぶつけるくらいに勢いよく頭を下げた。
「わたし、これ、宝物にします」
ツバサの声が微かに震える。
さきほど、少しでも寂しいと思ってしまった自分をツバサは恥じた。
ふたりは決して、すれ違ったりなんかしていない。
「ちょ、ちょっとツバサ……そんな、もう泣かないでよ。ああ、ほらティッシュ、ティッシュ……」
***
今晩は翼がベッドで、ツバサは床で眠ることになった。
2日連続で襲撃を受けるのは避けたい。翼としては苦渋の決断だ。
今度は玄関へと転がり出したツバサを、必死で引き止めるというハプニングはあった。
しかし今晩こそ、翼はおおむね朝までぐっすり眠ることができた。
そして今日は日曜日。
バイトも学校も休みだ。
ふたりきりで、ゆっくり過ごす。
ネットで検索すれば、意外と近場でイチゴ狩りをやっている農園がみつかった。
いまは5月、関東のイチゴはもう盛りを過ぎている。
朝の早い時間ということもあってか、客は自分たち一組だけだった。
ふたりは平和な狩りを満喫した。
「本当に、全部全部食べてもいいんですか!?」
「おーい、走って転ばないでよ。イチゴは逃げたりしないんだから」
受付でもらった練乳を入れた皿を持って、ツバサはビニールハウスの中を飛び回る。
短い制服のスカート。
彼女がイチゴを取ろうとしゃがむたびに、翼は目のやり場に困ることになる。
相変わらず無防備だ。
そう、今日のツバサはこの世界に来た当初の、自前の制服姿だった。
帰りの時間が近づいている。
その予感が、ツバサにはあったのだろう。
帰り道、翼は通りすがりの人に携帯を渡してカメラのシャッターを頼んだ。
ツバサとふたり並んだ写真が欲しかった。
彼女が向こうに帰ってしまったあと、ひとりその写真を見るときの気持ちなんて想像したくもない。
けれどまだ翼には、自分の隣にツバサは確かにいたという目に見える印が必要だった。
その時は突然やってきた。
その日の夕方、翼がツバサから視線を外したのはほんの数秒だ。
急にシンとした部屋の空気。
ちゃぶ台の上にぽつんと置き去りにされたカチューシャを見て、翼は彼女が元の世界へと帰っていったことを知った。




