29. おとぎの国の王子様
そして一夜明け、今日は土曜日。
翼は朝から波戸珈琲店でアルバイトだ。
結局、翼の睡眠不足は解消されなかった。
冷たいシャワーを浴びてきたのに、あくびは止まらない。
午前3時。
ベッドの上から転がり落ちてきた、ツバサの体当たりで目が覚めた。
「ふぐっ……!」
強烈な一撃をあばらに受けて、翼は息を詰まらせた。
高さ30cmからダイブした本人は、未だにスヤスヤと規則正しい寝息を立てている。
呆然としている翼を、さらなる攻撃が襲う。
寝返りパンチ、そしてキック。
さらに絞め技。
背中に両腕を回され、ギュッと抱きしめられた。
――きゃーーー!!
翼は声にならない悲鳴を上げた。
夢の中にいるツバサは彼のことを、大きなクマのぬいぐるみかなにかと間違えているのかもしれない。
ラッキー!なんて感想、一滴たりとも湧いてこない。
TPOのすべてが間違っている。間違いなんて起こりようもない。
しかしこの状況、よく考えなくても非常にまずい。
彼女を起こさないように、なるべく穏便に。
ここから逃げ出さなくては!
「……は、外れない」
20分程もがいた後で、翼は脱出をあきらめた。
ツバサの熱く湿った呼吸を、背中に感じる。
シャンプーと女の子の肌の匂いが、翼の鼻孔をくすぐる。
0距離。
密着して改めて、ツバサの幼さに驚く。
細い腕、薄い胸。
本当にまだまだ子どもだ。
欲望とはほど遠い場所にある感情が動く。
何だこの、甘く切ない気持ちは?
ちょっと考えて、今の感情に近い言葉が見つかった。
これって母性本能ってやつ?
暗闇の中で、翼は一人苦笑する。
この世界で、ツバサのそばにいるのは自分ひとりきりだ。
――ああ、もう仕方ないなぁ!
半ばヤケクソで翼は覚悟を決めた。
安心して眠れるっていうんなら、こんな背中いくらでも使ってくれ。
ふたりは密着したまま、夜を過ごした。
そして朝。
ツバサはスッキリと目覚めた。
しかし起きぬけの彼女は、首をかしげることになった。
「なんでわたし、お台所で眠っているんだろ?」
しかも掛け布団だけは、しっかりとかけたままで。
本人にまったく記憶はない。しかし、その後もツバサの寝像の悪さは留まることを知らなかった。
夜明け前にようやく、翼はツバサの抱きつき攻撃から解放された。
だが寝返りと同時に、翼の背中にキックを一発。
ツバサはその反動でゴロゴロと、台所まで転がっていったというわけである。
台所で眠るツバサに、そっと布団をかけたのはもちろん翼だ。
そして目覚めたときにツバサが気まずい思いをしないようにと、翼はタヌキ寝入りしていたのである。
「やだ。わたし、ちょっとだけ寝ボケちゃったみたい」
ツバサは翼を起こさないようにと、忍び足でベッドに戻った。
***
午前9時。
翼がアルバイトに出かけるのを見送ってから、ツバサも外出の準備を始めた。
翼のリュックサックを借りて、そこにラップに包まれた昼食用のおにぎりを詰め込んだ。
おにぎりは翼が彼女の昼食にと作ったものだ。
買ってもらった財布も忘れずにリュックに入れる。
電車の乗り方は昨日おぼえた。
携帯電話を使って路線も調べる。
目立つ髪の毛は、パーカーのフードをかぶって隠す。
サングラスはどこかで調達することにしよう。
「いってきます」と手を振って出かけて行った翼の顔を思い返すと、チクリとツバサの胸は痛む。
「外出禁止」と翼から、言い渡されている訳ではない。
しかし当然翼は、ツバサが大人しく留守番していると思っている。
だから安心して、仕事にいったのだ。
けれどもツバサにはこの世界で、どうしても行きたい場所があった。
それも、ひとりで。
この部屋のスペアキーは、無造作に玄関先の靴箱の上に置いてある。
ツバサはそれを知っていた。
ツバサはしっかりと戸締りをして、外へと飛び出した。
***
波戸珈琲での休憩時間。
翼は休憩室へと引き上げると、テーブルに突っ伏し仮眠モードに入った。
しかしささやかな休息は、邪魔された。
波戸夕は休憩室に入ってくるなり、前置きなしに核心に切り込んできた。
「警部殿、中野先輩の目撃情報を聞きこんできたであります!」
「……ん、なに?僕の話?」
「そ。昨日わたしも店のお使いで、三角堂に行って来たのだよ。ちょうど先輩たちと入れ違いのタイミングで」
「そ、そうだったんだ」
後ろ暗いことなどない。
しかし思わず翼は言葉に詰まった。
当然の成り行きだ。
三角堂とこの波戸珈琲は目と鼻の先。互いに馴染みの店だ。
三角堂の若主人から、ツバサの存在が夕に伝わらないはずがない。
だけどこんなに早くとは!
「おとぎの国の王子様と、先輩が一緒にいた……そう三角堂さんはおっしゃっていた」
夕の目がキラリの光った……ように見えた。
文学に通じている三角堂さんのことだ。
きっと、きらびやかな形容詞をちりばめつつ、ツバサのことを描写して夕に聞かせたのだろう。
「わたしも見たいなー。先輩のお友達の美少年。その子の写真とかないの?」
ちょっと待て。美少年ってなんだ?
昨日もツバサはスカートを履いていたはずなのに。
「わたしのクラスメイトの家、レンタルビデオ屋なんだよね。先輩の家の近所にある、お店なんだけど。何度かうちの店にも、遊びに来たことがある子だよ。先輩、憶えてない?」
あの晩、レンタルビデオ店のレジに立っていた女店員……女子高生だったのか!?
「その子も見たって。先輩が王子様と一緒にいるところ」
「あはは……客のプライバシーはどこにいった?」
もう翼は笑うしかない。
「それに王子様じゃない。あの子は女の子だよ」
「へえ?そうなんだ」
夕の声のトーンが一段下がった。
「中野先輩は、綺麗な外人の女の子と連日デートしてたんだね。しかも夜遅くにレンタルビデオ屋って……お泊りデート?この前、女の子の服が欲しいって言ってたのも、その子のためだったんだね。嫌だなもう!正直に言ってくれれば良かったのに」
そして夕はじっと翼を見つめる。
まったくの無表情。
白い視線がこたえる。茶化された方がまだましだ。
ああそうだ、何が悪い?ひとり暮らしの部屋に女の子を引っ張り込んで、よろしくやったんだよ。
いっそのこと、そう開き直ってしまおうか?
けれど、翼はそんな嘘をつきたくなかった。
自分はどう思われたって構わない。もともと夕には先輩として尊敬されているわけでもないし。
だがこれは、ツバサの名誉の問題だ。
なるべく平静な声を作って翼は言った。
「うん、実はそうなんだ。彼女は2日前から、僕のアパートに泊ってる」
「ああ、そうなんですか。別にどうでもいいですけど」
そう言いながらも、夕の目はバッチリ怒っていた。
「でもデートとか、そんなんじゃないよ」
大げさに笑ってやった。
「あの子は僕の妹だ」




