27. ぶらっと翼の日常風景
三角堂(さんかくどう)書店は、波戸珈琲と同じ商店街にある。
翼が波戸珈琲のおつかいで行く書店だ。
店のフロアに置く雑誌類は、いつもそこで買っている。
「もっと大きな本屋も、近くにあるのに」
けれど、ツバサは三角堂がいいと言った。
三角堂書店と波戸珈琲、そして翼の通う大学は、翼の自宅から3駅ほど離れている。
電車に乗っての移動は、ちょっとした冒険になった。
「こっ、この券を、この穴に差し込めばいいんですね。あっ、すごい。シュッて、こっちから出てきた!」
まずは第一関門の改札を、なんとか通過。
そして、いよいよ乗車だ。
先に到着した反対ホームの列車。乗客の乗り降りを、ツバサは緊張した面持ちで見つめていた。
「こんな乗り物初めて見ました。人が何人、入っちゃうんですか?こんな大きなものが、本当に動くなんて……信じられません」
「平気平気、怖くないよ。ごっついのは見た目だけだから。老若男女の足、おまけにエコだ」
「わたしが普段使う馬や馬車とは、だいぶ違いますね」
「僕にしてみれば、そっちの方が電車よりよほどおっかない」
そんなことを言っているうちに、ふたりの乗る電車がやって来た。
「よしツバサ、僕につかまって。歩幅を合わせていこう」
ツバサが翼のパーカーの袖を遠慮がちに掴む。
「それ、1、2の3!」
翼が号令をかける。
ふたりは無事に電車に乗り込むことができた。
平日の午後、車内はすいている。
ふたり並んで座席に腰かけてからもしばらくの間、ツバサは翼の袖を固く握っていた。
***
ツバサが欲しがったのは、『アカバネ』関係の本だった。
コミックの巻末広告に載っていたそれが、ずっと気になっていたらしい。
それは『アカバネ』アニメ化に合わせて出版された、ファンブックだ。
しかし、その本が出たのは2年前。
アニメ専門店というわけでもない小さな書店に、あるとは思えないのだが。
「あ、あった……!」
奇跡的にそれは、マンガコーナーの棚に一冊残っていた。
「よっ、波戸さんのところのお坊ちゃん。まいどありっ」
レジカウンターの向こう側から、本屋にはそぐわない威勢の良い声が飛んできた。
三角堂(さんかくどう)の若主人、三角(みすみ)さんだ。
三角さんは、波戸珈琲店の常連客だ。
頼むのはいつもブラジルとハムサンド。
窓際の2人掛け席が定位置で、いつも文庫本を読んでいる。
この人にかかると翼は「波戸さんのところのお坊ちゃん」になってしまう。
しかし人を坊ちゃん呼ばわりする店主だって、まだ20代後半といったところだ。
「しっかし、驚いた……お人形さんみたいだ」
ツバサを見て、店主はため息をもらす。
そして三角堂の若主人は、なめらかな英語でツバサに話しかけた。
翼も知らなかった意外な特技だ。
「???……あ。こ、こんにちは」
「おお、日本語OKか。留学生?偉いねえ。中学生かな?勉強頑張んなよ」
「は、はい。がんばります……ね?」
ツバサと店主の会話はどうもかみ合わない。
「ふたりはお友達なのかい?」
翼は返事の代わりに、曖昧な笑顔を浮かべておいた。
「お?この本『アカバネ』ってやつだよね。海外でもこのマンガは人気なんだな」
商品を袋に詰めながら、店主はふたりに尋ねるともなく呟いた。
「最近また動くんだよ。今月に入ってから、コミックも揃いで3セット注文が入った。これまたアニメになるの?」
異国からのお客さんのためにと、店主はずいぶん沢山のおまけをつけてくれた。
『アカバネ』とはまったく関係のないマンガのポスター、三角堂のネーム入りのボールペンにカレンダー。それに何の販促物なのか、入浴剤にメガネ拭き…いらないというのに山盛りでくれた。
ツバサは深々とお辞儀をして、丁寧にお礼を言った。
彼女が嬉しそうなので、翼もよしである。
三角堂からたった30歩あるけば、波戸珈琲店に着く。
ツバサは普段の翼の生活が見たいと言った。
しかし波戸珈琲店には、波戸夕がいる。
「ツバサ、疲れない?お茶でも飲もうか?」
遠まわしに翼は、そう尋ねてみた。
ツバサが望むなら、夕を紹介しようと考えていた。
事情を話せば、夕は驚くだろう。なかなか信じてもらえないかもしれない。
けれどツバサと夕は、同じ年の女の子だ。
うまくいけば、ふたりは友達になれるかもしれない。
この世界に来たばかりで、なにかと心細いであろうツバサの助けに、夕はなってくれるかもしれない。
そんな目論見も翼にはあったのだが、ツバサの答えはノーだった。
「いえ……疲れてはいません。もう少しこの街を歩きたいです」
少しあとになってツバサは、ポツリと言った。
「まだ、勇気が出ないです」
***
そのままふたりは、翼の通う大学へとやってきた。
夕方の校内は人影もまばらだ。
案内するといっても、このキャンパスは観光名所じゃない。
派手なところなど皆無。地味で冴えない学校だ。
けれどツバサは楽しそうだった。
翼の日記で読んだ風景に触れられる事が、とにかく嬉しいのだ。
学校図書館で本を眺めたり、購買を冷やかしたり、学内のカフェテリアでうまくもないお茶を飲んだりした。
「翼さんはこの学び舎で、日々勉学に励んでおいでなんですね」
翼は立派な学者先生になるため、ここで勉強している。
なぜかツバサはそう思い込んでいた。
「なんでまた?」
ツバサに聞いてみて、ようやく分かった。
20歳を過ぎて机に向かって勉強をしている人間は、『アカバネ』世界ではそう多くはないからだ。
波戸珈琲店での給仕仕事に身をやつし、苦学する青年……という昔の偉人まがいの大層道徳的なイメージを、翼は付与されていたらしい。
「学者か。ハハ、それも悪くはないね」
まぁ無理だろうけど、と翼は思う。
仕送りを貰い、適当にバイトもして、効率的に卒業に必要な単位を取って。
そして半年後には就職活動が始まる。
それが当たり前だと思って、学生生活を過ごしていた。
こう真っ直ぐなことを言われると、その当たり前が少し後ろめたく思えてしまう。
「それで翼さんは、ここで何のお勉強をされているんですか?」
翼はツバサに、ざっくりと自分の専攻の説明をした。
「…………な」
「な?」
「なっ、なるほどぉ」
ツバサの目が完全に泳いでいる。
異世界人である彼女には、翼の説明はお経と同じだ。
医学とか農学とか、分かりやすい学部に進んでいれば良かった。
ほんの少しだけ、翼は後悔した。
「……ごめんなさい。やっぱり、わたしにはよくわかりません……ですが!そんな難しいお勉強をしているなんて、やっぱり翼さんはすごいです!」
ツバサが強引に話を締めくくった。




