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18. 記憶-3

 そこから先の記憶は北川には無かった。

 その時何が起こったのか。

 『アカバネ』を読んで初めて知ることになった。


 見開きのページでの中野司の一撃。

 そして暗転。

 ページをめくると、北川はうつぶせに倒れていた。


 北川の右腕は剣の柄を握りしめたまま、体から1メートルほど離れた場所に転がっていた。

 腕を覆っていた異形の力は消え、元の形に戻っている。

 すでに遺物の恩寵は、北川の元を去っていた。

 やがて斬撃を受けた肩口から、血が流れ地面に大きく広がり始める。

 

 司もまた無傷ではなかった。

 目に見える血こそ流していない。

 しかし、この攻防で彼も傷ついていた。

 北川を操ったおもかげ姫の力と、司の力とは同じコインの表裏のようなものだ。

 姫が種を撒き、司がそれを刈り取り踏みにじる。

 司の行動は、自分の体に刃を突き立てているのと同じだ。

 司はその遺物、無位の双眸によって生かされている。

 遺物の種をひとつ潰していくたびに、自分の存在が削られていく。


 まだ息はある。

 しかし北川は微動だにしなかった。

 その顔は青白く強張っている。

 出血だけが理由ではない。

 生命力そのものの消耗が激しい。

 遺物に何もかもを吸いつくされたのだ。

 このまま時をおくだけで、彼の命は消えるだろう。


 司は言葉に出さず、語りかけた。

 

 ――お前は、馬鹿だ。

 

 姫は必ず、この中野司の首を落として来いと命じたはずだ。

 彼を倒す気ならば、遺物の力を食わせた仲間全員を引きつれてくるべきだったのだ。

 北川は自身の死、そして死後の破滅を覚悟していたのだろう。

 だがその汚辱を、仲間たちに負わせるだけの覚悟はなかった。

 しかし主を諌め、その暴走を止めようとするだけの勇気もなかった。

 主を守りたかった?

 三月十三日隊という、自分の居場所を守りたかった?

 しかし北川がやったことといえば、いたずらに自分を傷づけただけだ。

 主の妄執に殉ずることもできない。

 反対にそれに抗うこともできない。


 ――卑怯者め。


 いや、北川を責めるのは間違っている。

 これは北川を育て上げた、司自身の不明なのだ。

 

 司は剣を大きく振り上げた。


「やめろ……!なにをする、司!勝負はもうついているだろ!?」

 

 吾輝人が制止の声をあげた。

 だが、司はそのまま剣を振りおろした。


 間一髪。

 司の剣と北川の体との間に、自分の体を投げ出すように滑り込んだのは桜木だった。

 桜木の耳朶を、剣が風を斬る音が打つ。

 剣は桜木をかすめ、その黒髪を一筋落とし、まさに皮一枚のところで止まった。


「……何の真似だ?」


 怒りを孕んだ司の問い。

 司の問いかけには答えず、桜木は北川を抱き起こす。

 そして、回復呪文を唱えた。

 北川の血が止まり、その鼓動に強さが戻る。

 完全な治癒には程遠いが、これで当座はしのげる。

 

 そんなことをしても無駄だ、と司は言った。


「こいつは殺す。サクラ、お前だって知っているはずだ。一度でも遺物の呪われた力に触れたものは、そこから決して逃れることはできない。遺物の隷属と化し、周囲に災厄をもたらすことになる」


 死が北川にとっての最善なのだ。

 だが桜木は言った。


「俺が北川を、そして遺物の刻印を受けた仲間たちを、一人残らず助け出す」

「迷いごとだ。一度壊れたものは元には戻らない」


 司は再び、右手の剣に呪法を込めなおした。


「さあ、そこをどけ」


 しかし、桜木は従わなかった。北川への治療の手を休めることもしない。

 それまで成り行きを見守っていた、吾輝人が一歩動いた。

 だが、桜木は大丈夫だと首を振り彼を止めた。


「隊長、あなたも知っているはずだ。遺物の力を止める唯一の方法を。遺物を破壊し、その手綱を握る術者を殺せばいい。そうすれば、遺物から生まれた子どもたち――飛び散ったその種も枯れる。種に植えられた北川たちも、解放される」


 桜木は司を見据えて言った。

 揺れることのない決意を込めて。


「俺がそれを成す」

「はっ、ハハハ……そうか、お前が殺してくれるのか。無位の双眸の使い手を。つまり、このわたしを!」


 この苦しみからの解放は、一度目の死を迎えたあの日以来の、司の切なる願いだった。

 司は呪法を解いた。

 剣を鞘に納め、桜木に投げ返す。

 いつでも来い。そう言ったのだ。


「だが、無位の双眸はふたつでひとつの遺物だ。使い手はもうひとりいる」


 そのもう一人の使い手こそが、司がこの世に留まる訳だった。

 彼女を自分の手で、なんとしても止めなければならない。

 

「サクラ、お前には無理だ。もうひとりの使い手は、お前の大切な大切な主様だ。おまえはあの御方に、その剣を向けることができるのか?それに姫は……」

 

 暗に含ませるつもりで、司は言葉を切った。

 しかし桜木がその続きを引き取る。


「そうだ……血を分けた俺の姉だ」


 突然の告白に、かたわらにいた吾輝人が息を飲んだ。


「だが、もう我々の知る姫はいない。あれは民を喰らい、帝国に災いをもたらす邪悪だ」



                 *** 


 ここで自分の出番は終わりだ。

 北川はいったんページを閉じた。

 端末を操作し、『アカバネ』のずっと先の巻をまた開く。


 中野司は2度目の、完全な死を迎えた。

 そののちも吾輝人と桜木、その仲間たちの旅は続いていった。

 幾多の苦難を超え、強敵たちを打ち倒し、いまや帝都を遠く離れ、彼らはこの東菜種ヶ原市にやってきた。

 そして、この街の学園にナカノツバサはいた。

 物語の終盤になって、彼女はようやく『アカバネ』に登場した。

 結末に向かって加速し始める物語の、最後の幕間だった。


 ナカノツバサは、いま現在とまるで変わらない姿だ。

 その時から現在まで、数か月とたっていないのだから当然だ。

 北川は『アカバネ』とは関わりのないところで2度、実際の彼女と会ったことがある。

 最後に顔を合わせたのは、たった2ヵ月前のことだ。

 

 しかし自分は、彼女の何を見ていたんだろう?

 中野司の妹。

 北川の中で彼女は、ただそれだけの意味しかもたない存在だった。

 『アカバネ』での、ナカノツバサの出番は決して多くない。

 全24巻のうちのたった1巻分。たった10話だ。

 その10話の間に劇中で経過した時間は、3日に過ぎない。

 しかし描き出された場面は濃密だった。

 一読者として知った『アカバネ』のすべてが、北川にとっては衝撃だった。

 知らない景色、たくさんの人々、恐ろしい敵、世界の秘密……

 しかし、彼をいちばん引きつけたのはナカノツバサだった。


 桜木や吾輝人との出会いと別れを通じて、ツバサはたくさんの表情を見せた。

 北川がそのかたわらに何時間、何日、何年間いたとしても、決して見ることのできない彼女がそこにいた。

 『アカバネ』の作者・六坂ダイによってすくい上げられた、ツバサの心の機微、そのモノローグのすべて。

 彼女の流した涙。

 自分ではない人に向けたれた、その笑顔。

 北川は純粋な読者ではない。

 ツバサと同じこの世界に暮らす人間だ。

 それは本来なら、北川が覗いてはいけない領域だった。

 それが身勝手な錯覚だと、北川自身も分かっている。

 しかし彼女の心の奥深い場所にまで、触れることができた気がした。


 突き上げられるような感情の揺れを、北川は止めることができなかった。

 中野司の死。

 それは北川とナカノツバサに共通する転機だった。

 しかしその時に取った行動は、対照的だった。

 朱音吾輝人や二条桜木と出会い、彼らの助けを借りて進むべき道を見つけたのがツバサ。

 差しのべられた手を、駄々っ子のように跳ねのけたのが自分だ。


 劇中でツバサは、桜木に向かってこう言ったのだ。

 兄の意思を継ぎ、帝都を守る騎士になる……と。

 それは、北川の破れた夢だった。

 ツバサがそう言ってくれたことで、自分も救われた気がしたのだ。

 『アカバネ』を通して、北川とツバサは本当に出会うことができたといえる。

 ツバサもまた『アカバネ』を読み、北川の弱さを、犯した罪を知っている。

 だけれど北川は、それを恥だとは思わなかった。

 ツバサはすべてを知った上で、彼をここに呼んだのだから。


 北川は、何度も『アカバネ』を読み返した。

 自分がおかしかった。

 まさか絵に描かれた少女に、恋をするなんて。


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