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第5話 隠れ湯庵ゆらぎ、はじまる

 その言葉は、三度目だった。

「……泊まれたらなあ」

囲炉裏の前。リオンが湯呑みを持ちながら、ぽつりとこぼす。

「最近、夜道がきつくてさ」

ハナエも頷く。

「雪の夜は危ない」

ガルドが鼻を鳴らす。

「山は甘くねえ」

ルシエルは、静かに聞いていた。今までならすぐ言っただろう。

「作ろうよ!」

でも、今は違う。視線をセリスに向ける。セリスも、わかっている。これはもう、思いつきではない。必要だ。囲炉裏の火が揺れる。

「……空き家がある」

ガルドが言う。

「川向こうの」

リオンが続ける。

「屋根は抜けてるけど、柱はまだ生きてる」

ハナエが言う。

「布団なら、縫うよ」

静かな沈黙。

ルシエルが、ゆっくりと立ち上がる。

「……やろう」

声は、落ち着いている。

「宿、作ろう」

セリスは一度目を閉じ、そして小さく頷く。

「条件がある」

「なに?」

「急がない」

「うん」

「湯を止めない」

「もちろん」

「焦って壊さない」

「うん」

村人たちが笑う。

「もう決まってるじゃねえか」

ルシエルは少し照れた。

「隠れ湯庵ゆらぎ」

ぽつりと、呟く。

「なにそれ」

セリスが眉を上げる。

「隠れ家みたいな、ゆらぎ湯の宿」

囲いの向こう、湯気が揺れる。

「ここはさ」

「うん」

「羽も角も、立場も、全部隠していい場所だから」

セリスの視線がやわらぐ。

ハナエが頷く。

「いい名だ」

ガルドが立ち上がる。

「明日、見に行くぞ」

リオンが拳を握る。

「俺もやる」

囲炉裏の火がぱちりと鳴る。小さな湯屋が、次の形を持ち始める。でも。囲いはまだ低い。宿はまだない。


ただ“隠れ湯庵ゆらぎ”という名前だけが、先に生まれた。



 川向こうの空き家は、想像以上に傾いていた。

「……これ、立つ?」

ルシエルが見上げる。

「立ってるでしょ、今は」

セリスが冷静に返す。屋根は半分抜け、壁板は剥がれ、床は軋む。けれど柱は太い。それをガルドが叩いて頷く。

「骨は生きてる」

「骨って言うな」

「事実だ」

リオンが腕まくりをする。

「まず屋根だな」

作業が始まる。板を運ぶ。釘を打つ。雪が溶け、泥に足を取られる。ルシエルが派手に滑る。

「うわっ」

どさり。セリスが即座に襟を掴む。

「だから走るな」

「今のは地面が悪い!」

「地面のせいにするな」

笑い声が起きる。ハナエは布を広げている。

「二部屋分くらいならいけるかねえ」

「そんなに?」

「最初は小さく、だろ」

セリスが頷く。

「十分よ。ありがとう」


 昼過ぎ、屋根が半分戻る。梁に登ったルシエルが叫ぶ。

「景色いい!」

「降りろ!」

足を滑らせかける。

「わあっ」

セリスが下から支える。どさり、と二人で転ぶ。一瞬、顔が近い。湯気ではなく、冬の息。距離が近い。

「……重い」

「今助けたでしょ!」

「助けたの、わたしよ?」

でも手は離さない。リオンがわざとらしく咳払いをする。

「続きやるぞー」

「「はい!」」


夕方。屋根は仮止め完了。壁も最低限は塞がれた。歪んでいる。でも、とりあえずまあ立っている。ルシエルは満足げに見上げた。

「すごい」

「まだ骨組みよ」

セリスは腕を組む。

「客を入れられるのは、もう少し先」

「うん」

「湯の管理も忘れるな」

「忘れてない!」

ゆらぎ湯へ戻り、火を入れると湯気が立つ。その揺れが、以前より深い。

「……混ざり方が違う」

セリスが湯に手を入れる。

「人の気持ちも、増えてる」

「宿になる準備してるのかな」

「湯が?」

「うん」

セリスは小さく笑う。

「何それ」

「わかんないけど」

ルシエルは湯面を見る。囲いの向こうに、改修中の建物が見える。

「ここ、広がるね」

セリスはしばらく黙る。

「……壊さないなら、いい」

その声は優しかった。



夕暮れ。村人たちが帰っていく。雪の上に、たくさんの足跡。それは、二人だけのものではない。宿はまだ未完成。でも。隠れ湯庵は、もう始まっている。



 最初に泊まると言い出したのは、リオンだった。

「……試しでいいなら」

屋根は仮止め。壁はまだ隙間風が入る。布団はハナエの手縫い。部屋は二つ。灯りは小さな行灯ひとつ。

「無理するな」

ガルドが言う。

「無理じゃない」

リオンは首を振る。

「夜道、怖いんだよ」

それは強がりでも冗談でもなかった。ルシエルはゆっくり頷く。

「じゃあ、最初のお客さまですね」

「大げさだ」

「記念日だよ」

セリスは布団の端を整えながら呟く。

「騒ぎすぎ」



 夜。湯に浸かったリオンは、いつもより長く目を閉じていた。湯面が、深く揺れる。

「……やべぇ、落ち着く」

「それならよかった」

ルシエルは桶を下げる。セリスは火の様子を確認する。


湯上がり。縁側代わりの廊下に、リオンが座る。まだ未完成の板張り。隙間から月明かりが差す。

「……静かだな」

「山だから」

「違う」

リオンは首を振る。

「ここが」

少し考えて、言葉を探す。

「……肩が、軽い」

それ以上は言わない。でも、それで十分だった。布団に入ると、すぐに寝息が聞こえた。深く、穏やかな呼吸。ルシエルは襖越しにそれを聞く。

「……すごいね」

「なにが」

「初めての宿泊」

「まだ仮よ」

「でも、寝てる」

セリスは静かに頷く。

「寝てるわね」

囲炉裏の火が小さくなる。外は雪。ゆらぎ湯は、静かに揺れている。人が泊まる。夜を越える。それだけで、湯の揺れが少し深くなる。

「……ねえ」

ルシエルが小声で言う。

「なに」

「これ、続けたい」

セリスはしばらく黙ってから答える。

「もう始まってる」

その声は、穏やかだった。月明かりが、廊下に差す。未完成の板の隙間から、風が入る。寒いはずなのに、どこかあたたかい。


隠れ湯庵ゆらぎ。


まだ小さく、まだ頼りない。でも。今夜、初めて“帰らなくていい場所”になった。ルシエルはそっと目を閉じる。セリスも、隣に腰を下ろす。


肩が触れる。


離さない。


囲炉裏の火が、静かに消える。

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