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第4話 ぬくもりが増える日

 雪が止んだ朝。ゆらぎ湯の囲いの前には、すでに足跡があった。

「……早い」

戸を開けながら、セリスが呟く。そこに立っていたのは、あの青年リオンだった。

「……開いてるか」

「もちろん!」

ルシエルが元気よく答える。

「今日は仕事前ですか?」

「ああ」

リオンはぎこちなく囲いに入る。もう迷いは少ない。湯に浸かると、肩がすっと落ちる。

「……慣れたな」

「常連ですから」

「まだ二回目だよ?」

「立派な常連!」

セリスが小声で言う。

「勝手に決めるな」

青年は小さく笑った。それが、前より自然だった。



 昼前。今度はハナエと、その友人。

「噂を聞いてな」

「噂?」

「ここの湯は、よく眠れるって」

セリスは眉を上げる。

「誰が言ったの」

「ガルドだ」

「……あの人」

湯に浸かると、ハナエたちは目を閉じた。

「はあ……」

ゆらぎ湯が、深く揺れる。怒りや焦りよりも、今は疲労。それがやわらかく溶けていく。湯に入った者が皆揃って、へにゃっ……とした顔になってくれるのが、なんとも微笑ましい。ルシエルは桶を並べながら、嬉しそうに言う。

「増えてきたね」

「油断するな」

セリスは湯の温度を確かめる。

「薪の消費も増える」

「じゃあ明日、森行こう!」

「私も?」

「もちろん!」

「はあ……」

でも、嫌そうではない。



 夕方。囲炉裏の前に、湯上がりの人が三人並ぶ。笑い声が増えた。

「最近、夜ぐっすりだ」

「体が軽い」

「森も静かだしな」

ガルドがそう言って白湯をすする。ルシエルは、その言葉に少しだけ胸を張れた。セリスは横目で見る。「顔に出てる」

「え」

「誇らしいって顔」

「出ちゃってる?」

「うん」

ルシエルは照れたように笑う。ハナエがぽつりと呟く。

「……ここは、不思議だねえ」

「不思議。どの辺が?」

「身分も、役割も、関係ない」

囲炉裏の火がぱちりと鳴る。

「ただ、あったまるだけ」

セリスの手が止まる。それは、彼女自身がずっと欲しかった言葉だった。

魔界では、人を陥れることこそが正義で、褒められることだった。そのことがずっと疑問だったセリスは、誰にも悟られずに口角を少し上げた。


天界でも魔界でもない。ただ、温まるだけの場所。


「……そうですね」

ルシエルが柔らかに答える。外では、星が瞬く。囲いはまだ低く、小屋はまだ狭い。でも。湯気の向こうに、笑い声が重なる。ぬくもりは、確かに増えている。



 昼過ぎ。想定外の来客が重なった。

「桶が足りない!」

ルシエルが慌てて走る。

「昨日割れてたやつ、直してないでしょ!」

セリスが即座に指摘する。

「忘れてた!」

「でしょうね!」

囲いの中は湯気でいっぱい。ハナエが笑う。

「貸してやろうかね」

どこからともなく木桶が二つ出てきた。

「持ってきてくれたんですか!?」

「若いもんが走ってとってきたのよ」

村の子どもが得意気に立っている。

「セリスお姉ちゃん、これ置いとくね!」

「……お姉ちゃん言うな」

でも、受け取る手はやさしい。



 夕方前、薪が切れた。

「うそでしょ」

セリスが眉をひそめる。

「まだこんなに人いるのに」

「俺、取ってくる!」

「今から?」

「すぐ戻る!」

雪道へ飛び出そうとするルシエルの腕を、セリスが掴む。

「一人で行くな」

「大丈夫だよ」

「大丈夫じゃない」

目が合う。ほんの一瞬、空気が止まる。

「……一緒に行く」

セリスが言う。それは叱責でも義務でもなく、自然な言葉だった。すると、陰から老女が、ぬっと出てきた。

「あたしが少しの間、見とくからの。安心して行ってきなさい」

ハナエだった。

「ありがとう、ハナエさん」



森は静かだ。雪を踏む音だけが響く。

「ねえ」

「なに」

「今日さ、すごく賑やかだったね」

「そうね」

「嬉しい?」

セリスは少し考える。そして、視線を逸らす。

「……悪くない」

「またそれ」

ルシエルが笑う。枝を拾いながら、ふと真面目な声になる。

「あのさ」

「なに」

「俺、一人じゃ絶対無理だった」

セリスの手が止まる。

「この湯」

「……」

「セリスがいなかったら、ただのあったかい水だったよ」

素直すぎる。セリスは顔をしかめる。

「急にそういうこと言うのやめなさい」

「本当だよ」

「……調子が狂う」

でも、頬は少し赤い。薪を束ねる手が触れる。ほんの一瞬。どちらも引っ込めない。

「……戻るわよ」

「うん」



 小屋に戻ると、リオンが囲炉裏の前に立っていた。

「薪、少し足しておいた」

「え?」

「さすがに回らないだろ」

ルシエルは目を丸くする。

「ありがとう!」

「湯が止まると困る」

ぶっきらぼうだが、顔は柔らかい。セリスは小さく息を吐く。

「……支えられてるわね」

「うん」

囲いの中では、湯気がゆらゆらと揺れている。桶も増えた。薪も足された。小屋はまだ小さい。でも、もう二人だけの場所じゃない。


そして。

ルシエルは、薪をくべるセリスの横顔を見る。火の明かりに照らされて、やわらかい。守る湯。守る人。少しだけ、胸が熱くなる。



 夕暮れ時。囲いの外に、見慣れない馬車が止まった。村のものではない。外套の仕立てが違う。

「……誰」

セリスが小さく呟く。扉が開き、降りてきたのは、品のある中年の男だった。

装飾は控えめだが、布の質が良い。「ここが、“山の湯”か」

低く、落ち着いた声。ルシエルが一歩前に出る。

「ゆらぎ湯です!」

「噂を聞いた」

「噂?」

「ユノハ村で、よく眠れる湯があると」

リオンが、少し誇らしげに鼻を鳴らす。広がっている。知らないうちに。男は囲いを見回す。低い木柵。簡素な脱衣所。歪んだ板の看板。

「……素朴だな」

「はい!」

即答。セリスが横で小さく肘を入れる。男は、やがて湯に足を入れた。ぴくり、と表情が揺れる。

「……ほう」

肩まで沈み、目を閉じる。ゆらぎ湯が、深く、静かに揺れる。怒りでも恐れでもない。疲労と責任。重い何かが、少しだけほぐれる。長い沈黙のあと、男は息を吐いた。

「……帰るのが惜しい」

また、その言葉。ルシエルとセリスの視線が交わる。男は目を開け、二人を見る。

「泊まれぬのか」

今度は、はっきりと。セリスが口を開きかける。でも、まだ。

「……今は」

ルシエルが柔らかく答える。

「湯だけです」

男は頷いた。

「そうか」


囲炉裏の前で、湯上がりの男は村人たちと並ぶ。ハナエが茶を差し出す。ガルドが笑う。リオンが、薪を足す。男はその光景を、静かに眺めた。

「不思議だな」

「何がですか?」

「いろんな立場が、消える」

肩書きも、出自も、関係ない。ただ湯に浸かる。

「……また来よう」

男はそう言って立ち上がった。馬車が去り、雪の上に轍が残る。囲炉裏の火がぱちりと鳴る。

「……広がってる」

ルシエルが小さく言う。

「うん」

セリスも頷く。

「でも、急がない」

「うん」

「今はまだ、このままでいい」

その言葉に、ルシエルは少し驚く。

「珍しいね」

「なにが」

「広げようって言わない」

セリスは火を見つめる。

「焦ると失敗しそうで」

「……」

「ここは、ゆっくり育てる場所でしょ」

ルシエルは、しばらく何も言わなかった。それから、笑う。

「やっぱりさ」

「なによ」

「セリスとやれてよかった」

不意打ちで、セリスの動きが止まる。

「……またそういうこと言う」

「本音だよ」

火の明かりに照らされて、頬が赤い。ゆらぎ湯が、静かに揺れる。ぬくもりは、村を越え、外へ広がりはじめている。


囲いはまだ低い。小屋はまだ小さい。それでも、ここは確かに――帰るのが惜しい場所になりつつあった。


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