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第1話 何もない場所から

 「……で?」

湯に浸かったまま、セリスがじとりと睨む。

「どうするのよ、落第天使」

「どうするって」

ルシエルは肩まで湯に沈み、へらりと笑った。

「まずは、あったまりましょう」

「聞いてない」

湯気が立ちのぼる。雪は相変わらず降り続いているが、岩場の湯だまりは不思議と凍らない。浅い。粗い。囲いもない。でも、あたたかい。

「この温泉、最高ぉ……」

両腕を広げ、ルシエルは仰向けに浮かぶ。

「生き返る……」

「死んでないでしょ」

セリスは呆れたように言いながらも、目を細めた。確かに、悪くない。魔界の熱とは違う。天界の清らかさとも違う。ただ、じんわりと芯から温まる。

「あの……ここ、いいですね」

ルシエルが空を見上げたまま言う。

「……何が」

「静かで、誰もいない、怒鳴る上司もいない」

「それはまあ」

「最高じゃないですか」

セリスは鼻で笑う。

「落第のくせに、前向きね」

「落第だから、ですよ」

くるりと身体を起こし、ルシエルは笑う。

「もう、天界の“役割”はない。自由なんです」

その言葉に、セリスはわずかに目を逸らした。自由。それは、どこにも属さないということでもある。居場所がないということでもある。


湯面に、雪が溶けて消える。

「……で、ここで何するの」

「うーん」

ルシエルは岩場を見回した。湯だまりのそばに、朽ちかけた小屋がある。屋根は傾き、壁板は隙間だらけ。けれど、囲炉裏の跡がある。

「住めますよね?」

「……住めなくはないわね」

「よし。住もう」

即決。

「軽っ」

「だって、考えてみてください」

湯から上がり、濡れた髪をかきあげながらルシエルは言う。

「温泉付きの小屋ですよ? しかも無料」

「誰も買わないだけでしょ」

「最高じゃん」

小屋の戸を押す。ぎぃ、と情けない音。中は埃だらけだが、雨風はしのげる。ルシエルは両手を広げた。

「ここ、俺たちの拠点にしましょう」

「“俺たち”?」

「はい。どうせ他に行く場所ないでしょ」

丁寧な言い方に雑さが混じる。でも、悪意ではない。セリスはしばらく黙り、やがて肩をすくめた。

「……まあ、湯は気に入ったし」

「でしょ?」

「勘違いしないで。湯が、よ」

「うんうん」

軽い。あまりにも軽い。けれどその軽さに、救われる。


そのとき、外で小さな物音がした。雪を踏む、軽い足音。ルシエルとセリスは顔を見合わせる。戸口の向こうに、震える影。幼い子どもだった。薄い上着一枚。頬は赤く、指先は青い。

「……迷っちゃいましたか?」

ルシエルがしゃがみこむ。子どもはこくりと頷いた。

「さ、寒い……」

セリスは即座に動いた。

「湯に入れる。服、脱がせるわよ」

「え、ちょ、乱暴」

「うるさい」

慣れた手つきで子どもを支え、湯へ導く。足が触れた瞬間。

「……あったかい」

子どもの顔が、ほころぶ。それを見て、ルシエルは息を呑んだ。ただの天然温泉。囲いもない。名もない。でも――

「ここ、ずっとあったらいいのに」

ぽつりと、子どもが言った。湯気が揺れる。セリスの手が、わずかに止まる。ルシエルは、ゆっくりと立ち上がった。目が、きらきらしている。

「ねえ、セリス」

「……なに」

「これ、ちゃんと整えましょう」

「は?」

「湯、囲って。小屋も直して」

ぐい、と一歩近づく。

「温泉、やりましょう」

セリスは瞬きをした。

「経営?」

「はい!」

「正気?」

「正気です」

ルシエルは真顔で言う。

「俺、ずっと思ってたんだ」

「戦うより、育てるほうが好きだって」

囲炉裏。庭。静かな場所。それが、彼のささやかな憧れだった。

「ここならできる」

「俺たちの場所、作ろう」

子どもが湯の中で笑っている。セリスはその姿を見て、視線を逸らす。少しだけ、頬が赤い。

「……ふーん」

腕を組む。

「まあ、悪くない……わね」

小さく、呟く。

「必要とされるの」

ルシエルは満面の笑みを浮かべた。

「でしょ!」

「調子に乗るな」

「よーし! まずは屋根直すぞー!」

「待ちなさい、計画性!」

雪の中。笑い声が混ざる。まだ囲いもない温泉。まだ名前もない。

けれど、何かが始まった。



 翌朝。雪はやんでいた。空は抜けるように青い。

「さあ、やるぞー!」

ルシエルは腕まくりをして、勢いよく外に飛び出した。セリスは戸口に寄りかかり、半目でそれを見る。

「……まず何をやるか、考えてから叫びなさい」

「えーと」

ルシエルは小屋と温泉を見比べる。朽ちた壁板。傾いた屋根。囲いのない湯だまり。

「屋根ですね!」

「雑」

「じゃあ壁!」

「順番」

セリスは、ため息をつきながらも外へ出る。

「まず囲い。湯を冷まさないようにする」

「なるほど!」

「あと脱衣所。昨日の子ども、凍えかけてたでしょ」

ルシエルは、ぱっと顔を明るくした。

「はい! じゃあ囲い作りましょう!」

「木材は?」

「探す!」

「釘は?」

「……拾う?」

「はあ……」

文句を言いながらも、セリスは近くの林へ向かう。ルシエルは後ろからついていく。

「ねえ、楽しくない?」

「楽しくはない」

「俺、すごく楽しい」

「……あっそ」

でも、セリスの口元は少しだけ緩んでいた。天界では、与えられた役割をこなすだけだった。魔界では、命じられた任務を遂行するだけだった。今は違う。自分で決めて、自分で作る。木を切る。慣れない手つきで運ぶ。途中でルシエルが転ぶ。


ーーん?


「いたたた!」

「ほら見なさい」

「でもこの板、いい感じ!」

「転んだことは無視?」



 昼過ぎには、即席の囲いが出来上がった。歪んでいる。隙間もある。でも昨日よりはずっと“湯らしい”。ルシエルは誇らしげに腕を組む。

「どうでしょう」

「……まあ、溜池よりはマシね」

「やった!」



 夕方。作業終わりの湯で、汗と木屑を流す。

「ふああああ……」

ルシエルは完全に蕩けている。

「この瞬間のために働いてる」

「一日目からそれ言う?」

セリスも湯に肩まで浸かる。ふと、違和感。

「……ねえ」

「ん?」

「今日、湯……少し揺れてない?」

湯面が、淡く光っている。昨日より、ほんの少し。ルシエルが瞬きをする。

「え、ほんと?」

二人が同時に湯に沈む。ゆらり、と、波紋が重なった瞬間。温度が変わる。熱くなるわけでも、冷たくなるわけでもない。ただ、深くなる。セリスは目を見開いた。

「……混ざってる」

「なにが?」

「祝福と……制御」

天使の光と悪魔の抑制。本来なら相反するはずの力が、溶け合っている。拒絶も、衝突もない。ただ、ゆらぐ。

「……これ、大丈夫?」

セリスの声は低い。

「観測されたら」

ルシエルは少し考えて、それから笑った。

「でもさ」

「なによ」

「気持ちいいよ?」

言われて、セリスは言葉を失う。いや、うん。確かに。怒りも、焦りも、追放の記憶も。湯の中では、少しだけ軽くなる。消えるわけじゃない。ただ、柔らぐ。

「……ゆらいでる」

セリスが小さく呟く。

「ゆらぎ、だね」

ルシエルは嬉しそうに言った。

「ゆらぎ湯!」

「急に名付けるな」

「いいじゃないですか」

湯気がふわりと立つ。山の静寂の中で、湯はやわらかく光っていた。まだ小さい。まだ不格好。でも、これはもう、ただの天然温泉ではない。二人の湯だ。



 三日目の朝。囲いは少しだけ高くなり、小屋の屋根はなんとか雪に耐える程度に直っていた。歪んでいる。隙間風は入る。でも、形にはなっている。

「……それで?」

セリスが腕を組む。

「いつ開くの」

ルシエルは、手に持った板を掲げた。

「今日!」

「即断即決やめなさい」

板には、ぎこちない字でこう書いてある。


――ゆ


「途中でやめるな」

「まだ乾いてない!」

ルシエルは慌てて墨を足す。


――ゆらぎ湯


字は傾き、ところどころ滲んでいる。けれど、真剣だ。

「どう?」

「……みすぼらしい」

「正直!」

「でも」

セリスは小さく笑う。

「悪くない」

板を戸口に立てかける。風が吹き、暖簾代わりの布が揺れる。まだ宿ではない。脱衣所も簡素。でも湯は、確かに温かい。

「よし!」

ルシエルは胸を張った。

「本日開業!」

「誰も来なかったら?」

「僕たちが入る」

「経営破綻」

二人が笑った、そのとき。足音がする。雪を踏む、重い靴音。ルシエルが顔を上げると、外套をまとった男が立っていた。肩に剣。包帯の巻かれた腕。

「……湯か」

低い声。ルシエルは、ぱっと表情を明るくした。

「はい! 今日からやってます!」

「今日から?」

「今日からです!」

勢い。男はしばらく板を見つめる。歪んだ文字。傾いた囲い。不格好な小屋。それから、静かに息を吐いた。

「……入れるなら、入る」

「どうぞ!」

脱衣所へ案内する。男が湯に足を浸した瞬間、肩の力が抜けた。

「……ーーっ」

深く、長い息。湯面が、ゆらりと揺れる。セリスはそれを見て、息を潜めた。怒りと疲労。戦場の匂い。それが、少しだけ丸くなる。完全には消えない。でも、軽くなる。

「……変な湯だな」

男が呟く。

「や。悪い意味じゃない」

ルシエルは嬉しそうに言った。

「ゆらぎ湯って言うんです」

「自分で名付けたのか」

「はい!」

男は、ほんの少し笑った。それはきっと、久しぶりの表情だった。しばらく湯に浸かったあと、男は囲いの外を見つめる。雪景色と静かな山。

「……帰るのが惜しいな」

ぽつり、と。ルシエルとセリスは顔を上げる。

「ここに泊まれたら、よかったのに」

その言葉は、冗談でも不満でもない。本音だった。湯気の向こうで、視線が交わる。セリスが、先に逸らす。ルシエルは、ゆっくりと息を吸う。

「……ねえ」

「なによ」

「やっぱりさ」

目が、またきらきらしている。

「宿、作ろうよ」

セリスは額を押さえた。

「嫌な予感しかしない」

「だってさ!」

ルシエルは湯気の向こうで笑う。

「帰るのが惜しい場所って、すごくない?」

男が小さく息を吐く。ゆらぎ湯が、静かに揺れる。まだみすぼらしい小屋。まだ名も知れない場所。けれど――ここに、もう一度来たいと誰かが思った。それだけで、十分だった。

「……考えるだけよ」

セリスが呟く。

「いきなり増築はしない」

「やった!」

「決定じゃない!」

雪の中、湯気が立ちのぼる。こうして、ゆらぎ湯は小さく開業した。宿になる未来を、まだ知らないまま。

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