プロローグ
天界の裁定は、いつだって静かだ。白い大理石の間に、羽音ひとつ響かない。
「ルシエルを落第とする」
理由は簡潔だった。
「敵を討てず、感情に流された」
弁明の機会はあったが、彼は首を振った。討てなかったのではない。討たなかったのだ。あの悪魔の少女は、震えていた。それだけで剣を振る気にはなれなかった。
「地上へ降りよ。次はない」
背中の羽が、重くなる。それでも彼は、どこかほっとしていた。空の上ではなく、地に足をつけて生きてみたいと、ずっと思っていたから。
♢♢♢
魔界の査問は、天界よりも騒がしい。嘲笑と舌打ちが飛ぶ。
「セリス。失格だ」
「人間を堕落させられなかった」
彼女は肩をすくめた。
「……別に、泣かせたかったわけじゃない」
人間の少年は、堕ちるどころか、最後まで抗った。その姿が、少しだけ眩しかった。それが罪なら、仕方がない。
「地上へ落とせ」
黒い翼が、乱暴に押しやられる。地へ。どこでもない場所へ。
♦︎♦︎♦︎
雪山は、音を吸い込む。吹雪の中、先に辿り着いたのはセリスだった。岩の隙間から、湯気が立っている。凍える指先で触れる。
「あったかい……」
天然の湯だ。溜まりきらない、浅い温泉。彼女は外套を脱ぎ、湯に足を浸した。そのとき、背後で雪を踏む音がする。
「……だれ?」
振り向いた先に、見覚えのある金の髪。ルシエルは目を丸くした。
「え。きみ……」
沈黙。湯気の向こうで、視線がぶつかる。
「……また、あんた」
雪は降り続いている。まだ小屋もない。名もない湯だ。
けれど、ふたりは同じ場所に立っていた。
面白ければ、ブックマーク、評価をいただけると励みになります




