八章・二人の星空(1)
「フン……やはり長くは保たんか」
ミナの影の頭部から半身だけを突き出しているゲッケイ。その体もまた記憶凍結魔法によって凍り付き始めた。
「ナスベリとか言ったかい? 面白い術を使うじゃないか。それに、その顔……」
「か、顔? アタイの顔がなんだよ。てか、誰だアンタ?」
困惑するナスベリを見下ろしたゲッケイの脳裏に、四十年ほど前に戦った一人の魔女の記憶が蘇る。
(そうかい、生き甲斐を見つけたのかい)
どんな結果になったかは知らないが、こうして生きた証を残せたなら満更悪い人生でも無かったんだろう。
「ゲッケイ……どうやって……」
スズランの問いかけに、かつての宿敵は得意気に方法を語る。
「お前さんの頭の中にゃ、あの坊やに阻止されたとはいえ、まだアタシの転生術式が無傷で残ってたのさ。そいつを通して魔素に干渉してみただけさね」
「呆れた……人」
「そういうお前さんは正体が神そのものだった割に情けないね。ま、とりあえずさっさと出な」
スズランを引き上げミナの影から完全に引き剥がすと、駆け寄って来たカタバミへ投げ渡すゲッケイ。スズランは意外な展開に再び驚く。
「いいん、ですの……? 私を、乗っ取らなくて……」
「お前さんを通じてこっちの状況は逐一確認してたんだよ。世界が滅んじまっちゃ意味が無いし、ウィンゲイトとして目覚めた今、精神防壁を破れるとも思えん。それにまだ仕事が残ってるだろう?」
「……流石」
そこまでお見通しかと、もはや苦笑する他無い。
「お主からの賞賛なぞいらんわ。それじゃ、アタシはそろそろ冥府に戻るとする。いつか寝首を掻いてやるでな、震えて待っとるがええ」
「うるさい……クソババア……」
「こ、コラ、スズ、助けてくれた人になんてこと言うの」
叱るカタバミ。ただし相手が良くないものだとは察したようで、娘を抱いたままそっと距離を取る。
入れ違いで弟子に治療してもらったロウバイが近付き、頭を下げた。
「ご助力、感謝いたします」
「ひ、ひひ……アンタの体は、使い勝手が、よかっ……」
謝意を示した彼女の前でついに完全に凍り付くゲッケイ。しかし、その目が最後に見ていた相手はロウバイでなく、彼女の後ろのクルクマだった。
「まさか、本当にまたお会いするとは……いい加減にしてくださいよ師匠」
(アタシの遺したものか……まあ、せいぜい気張るが良い)
そしてミナの影の全身にも凍結が広がった。最後に残されたほんのわずかな部分が氷で覆われる直前、彼女は言う。
『無駄だよ……ママ……』
自重に耐えられなかったのだろう、瞬く間に亀裂が走り、とてつもなく大きな体が崩壊した。膨大な量の氷片が荒野に散る。魔力障壁で皆を保護する魔道士達。人々は障壁越しに風に流されて行く無数の結晶を見送った。
「これで無害化できたはずだ」
振り返りつつ呟くナスベリ。彼女の術は魔素に保存されていた記憶そのものを凍結させ破砕する。六柱の影の正体は始原七柱の記憶の再現。なら、もう二度とあの氷片から復活することは無い。
別の方向へ顔を向けると四方の神々も記憶災害の獣を全て打ち倒し、座り込んで休んでいた。あれだけ巨大な怪物の群れをたった四人で片付けるとは、流石神様。
『勝ったか……』
『なんとか、ね……』
「や、やったのか?」
「本当に?」
まだ信じられないと互いに顔を見合わせ困惑する人々。ドワーフにもウンディーネにもエルフにもわからなかった。これは本当に勝利なのか? 実感が湧かない。何故ならミナの影が最後に遺した言葉を、この場にいる全員が聞いていたから。
無駄とは、どういう意味だ?
「アカンサス様、シクラメン様、あの言葉は……」
「わからない。わかるとしたら、きっと彼女だけだろう」
ムスカリに問われ、アカンサスはロウバイに治療されて立ち上がったばかりのスズランを見つめる。あの青い光の柱が生じた時、その場にいなかった彼等にも彼女が神子でなくウィンゲイトそのものだという事実は伝わって来た。おそらく世界規模で彼女の精神波は伝播したのだ。
だから彼は彼女に近寄り、訊ねる。
「スズラン君……いや、ウィンゲイト様。教えて欲しい、僕達は勝ったのかな?」
「ある意味では」
まだふらつくスズランはカタバミに支えられながら答える。実際これは快挙だ。レインボウ・ネットワークの支援という強力な助けがあったとはいえ、人類が六柱の影を相手に勝利を収めた、おそらくは初の事例。
でも、まだ終わってはいない。
「私達の界球器に入って来た分は打ち倒せました。けれど、あれは一部。全てではありません。あの子達は今もなお存在しています、こことは別のどこかの界球器に」
『そうですウィンゲイト様。再度侵入される前に今こそ封印隔壁を!!』
立ち上がったアルトラインの提案の声に眉をひそめるシクラメン。
「アマノイワト?」
知神ケナセネリカの神子である彼女も知らない情報。視線は当然スズランに向けられる。他の者達もだ。注目された彼女はミナの影に穿たれた空の穴と、その向こうの魔素の海を見上げつつ逆に問う。
「アカンサス様、シクラメン様、あなた達は知っていますね。かつての私、マリアが何故この界球器を創ったのか」
「うん」
神子達と代々の教皇は知っている。この世界が創られた目的は二つ。
一つは他の始原七柱を打倒しうる“魔法”を生み出すこと。そしてもう一つは七柱同士の戦闘に耐えられる“戦場”を造り出すこと。
「封印隔壁は、界球器もしくはその内部の並行世界群のどれかに始原七柱を封じ、他世界に被害を出さず戦うためのもの。私達七柱であってもあれを突破することは容易ではありません。ただし私の承認が無ければ作動しないので、実際に使われたことは今まで一度も無いでしょう」
「では、それを使えば敵の再侵入を防げると?」
「当面はね……でも、使いません」
『何故ですか!?』
『ウィンゲイト様……!!』
「少し待ちなさい」
ストナタリオとケナセネリカへの返答は保留し、スズランは沈痛な面持ちで俯いたままのテムガミルズを見上げる。
「……アイビー社長は?」
『……ここに』
彼が巨大な右手を地上に置き、握っていた拳を開くと、手の平の上にアイビーが現れた。彼の能力で隠し、保護していたのだ。
「アイビー様!!」
「社長!!」
再会に喜び、駆け寄って行くナスベリらビーナスベリー工房の社員と聖域住民達。だが地面に下ろされたアイビーを見て、その表情は見る間に曇っていく。
「社、長……?」
「……」
ナスベリの呼びかけにも、アイビーは何一つ答えない。虚ろな表情で、ただそこに座り込んでいる。生気や感情が全く感じられない。
彼女に代わりテムガミルズが答える。
『今のアイビーには何もわからない。全ての記憶を失った』
「え……?」
『結界を維持するために魔力を使い過ぎた。そして不足分を補おうと秘術を使った。森の木々が蓄えた魔素に自分の記憶を与え、それを魔力に変換する術。複製でなくオリジナルの情報を使う。その方が変換効率が格段に高い。だから今のアイビーは赤子と同じ。お前達のことはわからないし、覚えてもいない』
「そん、な……」
せっかく敵を倒したのに、世界は救われたのに、アイビーは救えなかった。残酷な結末を知って膝を落とすナスベリ。
けれどスズランは、さらに辛い事実を告げなければならなかった。それこそが保留していた答え。
「ナスベリさん、立ち上がってください。すぐに始まりますよ」
「ス、ズ……?」
「ここからが本番です」
『ただいま、ママ』
ミナの影の声が再び響く。空の穴の向こうに見えていた銀色の魔素の海全体が見る間に黒色化していく。
『だから言ったのに、無駄だって』
「あ、あ……」
「まさか……そんな……」
絶望する人々の見上げる先で、まだ残っていた“空”に亀裂が走った。そしてあっさり砕け散る。太陽が無くなり世界は闇に包まれた。その闇が迫って来る。
『今度こそ一つになろうね』
悲鳴を上げる人々の上に、黒い空が落ちて来た。
「クソッ、どうなってんだ!?」
屋上の中心に座り毒づく雨龍。少しでも繋がりやすくなるのではないかと考え、こんな場所まで来たものの、結局接続は切れたまま一向に回復しない。
(負けたのか? 勝ったのか? どっちだよ……!)
状況は不透明。この世界を襲っていた“崩壊の呪い”は何故かいきなり消え去り、今は影も形も見当たらない。
「どうなってんの……」
「わけがわからん」
必死に発電を続けていた両親は息を切らして倒れている。一方、自分達を守ってくれていた雫は恐ろしいことにまだピンピンしており、屋上の縁から周囲を見渡し事態の把握に努めていた。
「やっぱりもう、どこにもあのバケモンどもはいないみたいだよ!」
「おいボウズ、何が起きた? あとちょっとでぶち殺せると思ったら、あのデカブツ急にいなくなっちまったぞ。他のも全部だ」
壁面をよじ登って来た鬼の姿の日華も首を傾げて不思議がる。
「ちょっと待って、今、調べてるから」
他の世界の仲間達とも連絡を取り合ってみる。しかし誰一人として正確な状況を掴めていない。判明したのはスズラン達の世界との接続が回復しないことと、襲撃を受けていた全ての世界から一斉に敵が消えたという二つの事実のみ。
一斉に?
「まさか!?」
そのまさかだった。複数の界球器から観測データが送られてきて、ようやく何が進行中か判明する。
「なんてこった……」
「なに? このレーダーみたいなの」
「黒い点がいっぱい……ひーふーみー……数え切れねえな」
「全部一ヵ所に集まってくみたい」
そう、そういうことだ。今、方々に散っていた“崩壊の呪い”が移動を始め一点に集結しつつある。ヒメツルがいる界球器に。敵は自分達を無視して彼女の元へ走った。
「クソッ、あいつら“ウィンゲイト”さえ手に入ればいいんだ! 最初からオレらの世界なんて興味も無かった!! 逃げろ、逃げてくれウィンゲイト!」
彼女が取り込まれたら何もかも終わってしまう。どうやら自分達は彼女を支援したことで本気にさせてはいけない相手を本気にさせてしまったらしい。
その事実に、彼等は今さら気が付いた。
暗い……何も見えない……自分すら……。
カタバミは果てしない闇の中に浮かんでいた。自己の存在は認識できるが、他には何も無い空間。絶望が具現化したような世界の中で、たった一人。
「カズラ……ショウ、ブ……」
手足に力が入らない。
呼びかけに応じる者もいない。
「誰か……私、ここに……いる……よ」
愛しい者達が消えてしまった。いなくなってしまった。流す涙も冷たい。自分の全てが熱を失っていく。
「ス、ズ……」
最愛の娘の顔まで思い出せなくなりつつある。この闇が意識を浸食し、一体化しようとしている。
やがて彼女は、自分が何者だったのかも忘れ始めた。