エピローグ
神原義人は京浜東北線の一号車にいた。
神原は電車に乗るといつもあの日を思い出す。三年前に行った実験協力のアルバイトだ。実験当日に被験者だけで集められて、長峰という人から説明を受けた。その後に、神原達は役割を充てられた。太った女の人が化粧をする役、坊主の子が食べる役というように決まっていった。彼らは自分の担当の迷惑行為を終えたら、隣の車両へ移るように指示されていた。自分はどういった迷惑行為をするのだろうと考えていると、長峰から指示が与えられた。その内容は、東京駅を過ぎたあたりで女性に席を譲り、新橋駅に着いたら急いで銀座口に向かうというものだった。銀座口に車が待っているので、被験者はそれに乗って廣瀬という人よりも本社に先回りしなければならなかった。まさか自分が席を譲るという好青年の役をやるとは思わなかった。
浦和駅で電車に乗ると、今までに感じたことのない緊張感を感じた。廣瀬という人がどの人か長峰に教えてもらえなかったからだ。
しばらく乗っていると、他の被験者が迷惑なことをしてきた。実験だからと割り切っていたが、何も知らずにこの車両に乗っていたら、神原はイライラしていたに違いなかった。それほど、他の被験者は上手く自分の役割をこなしていたのだ。周りの乗客の不機嫌そうな顔を見て、この役の担当ではなくて良かったと思った。
東京駅に近づくにつれて、手の汗が多くなった。そして、東京駅を過ぎたあたりで何となくこのタイミングだという直感で女性に席を譲った。
周りの空気がいい方向に変わったように感じた。拍手をされた時には、もちろんうれしかったのだが、善意ではなく、あくまで打ち合わせに基づいた行動なので、少し引け目もあった。
三年前を振り返っていたら突然、車内で赤ちゃんが泣き始めた。母親が申し訳なさそうな顔をしながら、必死にあやしている。しかし、赤ちゃんが泣き止む気配がない。
周りの乗客はどう思っているのか神原は気になった。神原自身は、赤ちゃんは泣くことが仕事だという考えを持っていたため、特に気にしなかったが、早く泣き止んでほしいと思う人もいるだろう。
こんなことを考えていると、赤ちゃんが泣き止んだ。そちらの方を見ると、赤ちゃんの近くにいた年配の女性が、コンビニのレジ袋をガサガサしていた。赤ちゃんは嬉しそうだ。
「昔、うちの子が泣き止まないときに、いつもこんなようにしたら泣き止んだから、やってみたのだけど、うまくいってよかったわ」女性は微笑みながら、このように話した。母親は、お礼の言葉を述べていた。やはり、母親の先輩であるから、子育てに関しての知識や経験は、誰にも負けないだろうなと神原は思った。ほほえましい光景を見て、ほっこりした。
赤ちゃんと母親、そして年配の女性の上半身をよく見ると、日光でわかりづらいのだが、薄く光っている。周りの乗客も同様だ。神原が首を折り曲げて、自分の胸元を見てみると、光っていた。
長峰が提案した「思いやり発電」は、既に実用化されているのだ。発電されているかどうかが分かりづらいという意見もあり、身体に貼られた機器が光るようになったということは、テレビで取り上げられた時に知った。日本が導入をしてから、世界の国々も真似をするようになった。今となっては、国にとって重要なエネルギー源となっている。
神原は、あの日と同じく新橋で降りた。あの日は、急いで出口に向かう必要があったが、今日はその必要がない。一歩一歩、階段を踏みしめて降りていく。駅からの道は何となく覚えている。スーツを着た就活生らしき人が同じ方向に歩いていくのが視界に入る。
目的地が見えてきた。少し心臓の動きが速くなった。入口の自動ドアは輝いている。受付に制服を着た女性が二人いた。
「こんにちは。本日十四時から、下空電力の面接にまいりました雨楚大学の神原と申します」
「こんにちは。ただいま七階の部屋にご案内いたします」
受付の女性に案内され、エレベーターに乗った。エレベーターのスピードが速い気がする。乗っている間、ずっと階数表示を眺めていた。
降りてからすぐに、面接の部屋らしきものが見えた。鞄を持つ手の汗の量は尋常でなかった。歩く足も少し震えている。高校の推薦入試の面接の数倍緊張している。あのときも緊張していたのだが、今となっては、あんなことで緊張していたのが恥ずかしい。このあとの面接で人生が決まるといっても過言ではない。
「ぁりがとうございます」受付嬢に対して案内してくれたお礼を言ったのだが、緊張のせいか声が裏返ってしまった。緊張するときには、必ず手に人という字を三回書いて、それを飲み込むということをやってきた。今日は、いつもよりもゆっくりと書き、ゆっくりと飲み込んだ。
手汗を拭き、ノックする右手に力を込めて、ノックした。「どうぞ」という声が聞こえた。中に入ると、二人の男性が椅子に座っていた。神原は男性たちの顔に見覚えがあった。緊張の糸がぷつんと切れた。これは良い意味でだ。二人とも相変わらず変わっていないようだ。何気なく胸元を見ると、二人とも光っていた。もちろん神原の胸も光っていた。




