第二十一話 傷心、そして――
衝撃の事件から一夜明けて、自室にこもっていた五味は……
第二十一話 傷心、そして――
十九日目木曜日。
あれから五味に何度もメールを送った。電話も掛けてみた。だがメールは返信がなく、電話もなしのつぶてだった。そして今日、学校では――。
園城は自分の隣の席に視線をやる。そこは五味の席だ。だが今は誰も座っていないし、机の中は空っぽだ。そう、五味は今日、学校を休んでいる。朝、担任に五味の母親から欠席する旨の連絡があったそうだ。体調の不良だということだが、そうではないことは園城が良く分かっている。昨日の事件が原因だということは間違いがない。ふと園城はアキの話を思い出す。
「……私たちはみんな顔面蒼白で。誰も一言も話せませんでした。そんな中ごっちんだけが泣いていて……。しばらくして店長がやってきて。それでごっちんの早退を決めたんです」
……五味が泣いていた。
ふと、五味が『フェアリーズ・ガーデン』の研修日に落ち込んで中庭で泣いていたことを思い出す。あの時は、五味は立ち直った。自らの力で変わろうと決意した。だが今回は……
腹の中が煮えくりかえってくる。当然、五味のメイド服を切り裂いた張本人に対してだ。
五味が変わろうとしていたのに、頑張っていたのに、これからどんどん伸びていこうとしていたのに、その全てを踏みにじりやがったんだ。たった一瞬で!
園城は拳を握り、宙に振り上げる。前の席の小山が驚いたようにその光景に目を瞠る。やり場のない怒りを、落としどころのないその拳を意志の力で無理矢理机の上に戻すと、園城は「く」と呻いた。ぎりっと歯を食いしばった。
一体どこのどいつだ!
園城の脳裏にいろいろな容疑者が浮かんでは消える。その中の一つに『フェアリーズ・ガーデン』初日にトラブルを起こした男の姿もあった。
……まさか?
確かに『フェアリーズ・ガーデン』に対しての恨みを抱いていそうであるし、非常識な行動も取りそうだ。だが、なんの証拠もない。全ては園城の憶測だ。
ともかく!
園城は机の上に置いた拳が真っ白になるくらい強く握りしめた。
どこの誰だろうと、絶対、見つけ出してぶっ飛ばしてやる!
何回か大きな深呼吸をして、気を落ち着ける。そしておもむろにポケットから携帯電話を取り出す。そしてディスプレイを覗き込むが、メール及び電話の着信の履歴は相変わらずない。
落ち込んでいる五味。あいつに今、俺は何をしてやれるのだろう。どんな慰めの言葉を送ったところで、きっと五味には届かない気がする。何かないだろうか。俺が、今、五味にしてやれることは。
園城はぐっと携帯電話を握りしめる。そして、おもむろに携帯電話の操作を始めた。
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二十日目金曜日。
立ちたくなかった。ベッドから出たくなかった。
学校? コンテスト? 正直そんなものどうでも良いと思った。目を開けてみる。天井が目に入る。腕を上げてみる。手を開く。握る。
ベッドから出てみる。部屋の中央に立つ。
なんだ、と思った。
昨日はあんなに、悲しくて死にたいと思ったのに。
昨日はあんなに世界の全てに対して怒りを感じたのに。
昨日はあんなに恐くて一歩も動けなかったのに。
今日になってしまえば、自分はしっかり生きているし、立つことも出来る。もちろん、心の中に昨日の恐怖、怒り、悲しさは残っている。だが、昨日に比べればそれも小さくなっている。
これが人間というものなのか。こうして思ったこと感じたことを次第に忘れていってしまう仕組みになっているのが人間なのか。それも腹立たしい話だ。自分はそんなすぐ忘れてしまうようなものに対して、あんなにショックを受けたわけじゃない。五味はずたずたに切り裂かれた自分のメイド服を目の当たりにしたときの気持ちを思い出す。
圧倒的な悪意。自分の存在を完全否定するような行為。生まれてきて今までそんな大きな悪意を向けられたことはなかった。誰だか分からないが、自分に対してそんな感情を抱いていると考えただけで謂われのない恐怖を覚える。失望感を覚える。そして怒りを覚える。
……気持ちが悪くなってきた。
五味はトイレに行き、少し吐いた。自分の出した吐瀉物を水で流し、清らかな水面に映った自分の顔を見る。
思い返すのは止めよう。
あの時の衝撃を掘り返すことの方が、忘れてしまうことより、滑稽だと思える。
部屋に戻り、そしてベッドに腰掛けると部屋の中のいろいろな物が目に入った。学校のカバン、学校の制服、競馬雑誌、釣り竿、机、イス、携帯電話――
机の上で着信を示すライトがちかちかと点滅している。昨日から相当いろいろな人から連絡を貰ったようだ。昨日はそれらを見ることも出来なかった。だが一晩経って見ると、それらを見ようとする心の余裕がわずかではあるが生じている。不思議なものだ。
電話着信とメール着信、両方とも何件も来ている。園城、アキ、ヒメ、チーハからだった。
みんな、自分に気を遣ってくれたような文章が見て取れる。だいぶ文面を書くのに悩んだのだろうなと容易に想像出来た。それだけに有り難いし、嬉しい。普段は仕事で忙しい父親も、昨日はわざわざ仕事場まで来て自分を自宅まで送ってくれた。久々に感じた父のぬくもりは嬉しかった。だが、まだ外に出ようと思うまでには心が回復していない。まして『フェアリーズ・ガーデン』で働くなんて無理な話だ。昨日は店長が特例で早退扱いにしてくれたが、今日休んだらさすがに欠勤扱いはまぬがれないだろう。『フェアリーズ・ガーデン』では遅刻、早退はマイナス十ポイント、欠勤はマイナス五十ポイント扱いだ。今日、休んだら、自分はまた最下位に逆戻りは必至だろう。だが、もとより、トップ争いに加わっているわけでもないし、ペナルティを喰らったところでどうということもない。
それより、このままコンテストを辞退してしまおうか、とも思っていた。今までは『ゴルディアス』メンバーのために、と頑張ってきた。だが、さすがにこの状況ではコンテストを辞退してもみんなも納得してくれるだろう。それにここまで多少なりとも結果は出した。一番皮肉屋のチーハでも文句は言わないはずだ。
……ダメ人間だな、私は。
五味は小さく首を振る。思考が後ろ向きに流れている。考えてみれば、サエも麗子サマも同様の恐怖を、悲しみを、怒りを感じていたのだろう。だが、彼女らは気丈にもメイドの仕事をやり続けているではないか。
もし『メイドカフェごっちん』なら、私はどんな対応をすれば良い? これが私のお店で、私しかメイドがいなくて、そのメイドが精神的なショックを受けて満足に働けないのなら?
楽しみにしてくれているお客のことを考えたらお店を開けて、仕事をするべきなのだろう。だが、今日このまま仕事に行ってもベストな接客が出来る自信がない。それなら、一端、臨時休業して、次の日からベストな自分を見せる。それが『メイドカフェごっちん』の判断ではないか。そう考えるとわずかながらに心の重しが取れたような気がした。それなら、今日は思い切り休むのだ。出来る限り、今日でこの鬱な気分を流しきってしまうようにしよう。
今日は昨日より心のダメージが小さくなっている。明日はもっと小さくなっているだろう。
そう考えて五味は携帯電話を持ち替えた。メールをくれた人たちに返信をしようという心の余裕が出てきた。しかし、ほんの一ヶ月前までは何かあっても心配して連絡をくれる人間なんか一人もいなかった。それが今では四人もいる。人間とは変われば変わるものだな、と妙な感慨に耽る。携帯電話を持ち替え、心を落ち着けて、さあ、メールを打とうと心に決めたその時、持っていた携帯電話が、急に震え始めた。この振動はメール着信だ。
誰からだろう、と思い確認してみるとそれは園城。園城のメールには簡素にほんの一行だけの文章が書かれていた。
『明日、会いたいのだが』と。
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十八日目の成績 得票数 トップいおり『四一二』、二位麗子、三位クララ、四位アキ、五位サエ。(参考:八位ごっちん『一八九』*早退の為マイナス一○ポイント)
十九日目の成績 得票数 トップいおり『四四一』、二位麗子、三位クララ、四位アキ、五位サエ。(参考:九位ごっちん『一六八』*欠勤の為マイナス五○ポイント)
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二十日目金曜日。
五味は私服姿で家を出た。太陽の陽射しが眩しい。空々しいほどの健康的で偽善的なその光に多少うんざりして五味は俯いた。
今は十三時。今日はもとより学校に行く気はなかったので初めから私服姿だ。心はだいぶ回復してきたが『フェアリーズ・ガーデン』に出勤することにはわずかに迷っている。昨日一日で気分を払拭させて、と考えていたが、そんな風にきっぱり割り切れないのが人間だ。ともかく今日の目的は、園城に会うこと。その後のことはそれからだ。
正直、園城からメールを貰ったときは、戸惑った。
今まで他の人間からのメールは全て、五味の状況を心配している内容であっても、「会おう」と呼びかけてきたものはなかったからだ。それにメイドカフェ関係者と会う、という状況にも躊躇していた。どうせ掛けられる言葉はお決まりの慰めの言葉だろう。そんな言葉を掛けられても自分の心は回復しないし、その言葉に対応するのは心が疲弊して行くだけだ。
だが、それでも園城に会おう、という心の向きになったのは自分でもどういう心境だったのかは良く理解出来ない。少なくとも園城と会う、ということは不快ではないと自分の心のどこかが判断したのだ。今まで気の合わないヤツだ、という認識のクラスメイトだったが、約一ヶ月近いメイドカフェ生活を経て、その認識は刻々と変化して行った。思ったよりも気が回り、面倒見が良い。そしてこんな可愛くもない女に対して懇切丁寧にアドバイスを送ってくれる。ほとんど無償のボランティアと言っても良い。考えてみればここ一ヶ月は毎日言葉を交わしているし、同じ時間を過ごすことも増えて来た。正直言って、一緒に居て不快な人間ではない。いや、むしろほっとする相手だ。
そんなこともあったのだろう。五味の心の中の多数決で、園城に会う、という議題に対して、わずか一票差で、会うことに可決された格好だった。
心が決まった五味は園城に対して『分かった』とだけメールを送った。その直後に返信されてきたのは『じゃあ、明日十四時に『ゴルディアス』で』というメッセージ。
五味は困惑した。
『ゴルディアス』?
一体なぜ?
訊きたいことは山ほどあった。園城だけならともかく『ゴルディアス』メンバーとも顔を合わせるというのは若干の抵抗があった。
だが五味が園城に送ったメールはただの一言。
『分かった』のみだ。
詳細を訊きたかったが、それすらも煩わしいと思った。何度もメールのやりとりをするくらいなら、明日行けば、その瞬間に全てが分かる。
電車に乗り、約三十分揺られると秋榛原だ。今では見慣れたその街も一日休むと何か違った街に見えた。これは自分の心情が変わったからだろうか。通い慣れた道を通り、見知ったビルの階段を上ると、そこは『ゴルディアス』の扉の前。
が、そこから足が前に出なかった。
入ればきっと皆は自分に気を遣うだろう。慰めの言葉なんかも掛けられるかも知れない。それにいちいち応対するのが、煩わしく感じる。心配してくれることは嬉しい。だけど、それを言葉にされることは何か違うような気がする。
……やっぱり、帰ろう。
そう考えて踵を返そうとしたその時、唐突に店の扉が開いた。そこに現れたのは険悪な表情で仁王立ちのチーハ。彼女は腕組みをして五味を睨み付ける。
「いつまでそこに突っ立ってんのよ! 待ちくたびれてんのよ、こっちは! どうでもいいからさっさと入ってきなさいよっ!」
そう言ってチーハは強引に五味の腕を掴んで『ゴルディアス』店内に引っ張り込む。
「ちょ、ちょっと待」
「うるさい! 口答えすんなっ!」
そうチーハに引きずられて戸惑い気味の五味だったが、逆にその口の悪さに心地よさを感じていた。必要以上に心配されるより、ほっとしたのだ。チーハの悪態にわずかに心が軽くなる。 店内に入ると何名かのお客がいた。
当然だった。今日は営業日なのだから。
チーハは五味の腕を掴んだままずんずんと奥へ向かう。そこはキッチンの奥にある休憩スペース。そこには待ち構えていたように立っていた園城と、不適な笑みを浮かべて椅子に座っているロングヘアの女性がいた。デニムのワイシャツにGパンを身に纏ったその女性はふてぶてしく足を組んでいる。
う、ん?
目を眇めた。見知らぬ女性だと思っていたが、どこかで見た覚えがある。つい最近、誰かと一緒の時に――
「まっちくたびれたぜー、ごっちん! この時給の高いシマ様を待たせるとはいい度胸だ! 園城、分かってんだろーなー、追加料金頂くぜい!」
「ひえええ」と園城は震え上がった。そしてしぶしぶ頷く。
「よっしゃ! そうと決まれば早速仕事だ! さ、ごっちん。ちゃっちゃっとここに来い!」
シマと名乗ったその女性はそう言ってテーブルの上に化粧用具をずらりと並べ始める。その時点に至ってようやく気がついた。
「あ、アネゴの友達の」
「気がつくのが遅ぇんだよ! さ、そんなのはどうでもいいから。こっち来いっつーの! 」
無理矢理シマの隣の席に座らされた五味は、その怒濤の展開に頭が付いて行かなかった。このイスに座らされた自分は何をされるのだろう。いやそれは目の前の化粧道具を見れば分かる。
「いや、私は、化粧なんて……」
「うるせえ! てめえの意見なんか訊いちゃいねえんだよ! おとなしく座ってやがれ!」
もはや覚悟を決めるしかないようだ。ようやく大人しくなった五味を見て満足したのか、シマは五味の前髪を上げてヘアピンで止め、そしてじっくりとその顔を観察する。
「ふん、やっぱり若いから、肌がいい。派手な化粧は必要ねえな」
独り言のようにそう呟くシマはそこからスピードアップする。五味は自分の髪の毛がいろいろといじられて、顔の上になにやらぱたぱたと載せられたり、書かれたりで実験動物にでもなった気持ちだった。
「ごっちんは前髪が鬱陶しいなあ!」
そう言ってバサリバサリと前髪を切って行くシマ。
「うわああっ!」
「叫ぶな! 髪の毛なんてまた生える!」
「あんたは本当にメイクアーティストかっ!」
「知らん!」
「ひどい!」
もう何がどうなっているのかすら分からない。涙目で抗議の意味を込めた視線でシマを睨み付けようとすると、急にシマは五味の顔を覗き込んできた。
「……ごっちんのチャームポイントはおめめとおでこだな」
「え?」
五味は驚いて思わず、小さく声を上げた。そしてシマはそんな五味のおでこをぺちりと叩く。
「ほい、できあがりだっ! どうだ、園城! シマ様、会心の作品だ!」
園城は呆気に取られた顔でこちらを見ている。それはチーハもサーヤもヒメも皆一様だ。みんな魂が抜けたように、口をぽかんと開けて、五味の顔を見つめている。五味は何か恥ずかしくなって、あわてて両腕で自分の顔をガードした。
「こら! シマ様の作品をなぜ隠す!」
「と、ともかくまずは見たいっ! 自分の顔がどうなったか見たいっ! 話はそれからだ!」
五味は顔を真っ赤にしてそう叫んだ。シマは腕を組んでうんざりした表情で口を開く。
「あー、私の腕が信じられねえってか? ったくしょうがねえな。ほら鏡だよ!」
「ちょっと待って!」
その時何かを思い浮かんだようにチーハが動いた。
「鏡を見るのは、せっかくだからちょっと待って。これを着てからにして」
チーハの手にはボリュームたっぷりの洋服が抱えられていた。それがなんであるか、すでにメイドカフェ生活が一ヶ月以上続いている五味には一瞬で分かる。メイド服。それもひらひらふわふわしたタイプの。
「ごっちん、代わりのメイド服、みんなで用意したんだ。さ、これを着てから鏡を見てよ」
自分の目の前に突きだされたそれを見て、五味はぶんぶんと首を横に振る。
「ちょ、ちょっと待って。わ、私にはそんなひらひらしたのは似合わない。もっとシックなものの方が」
「ごっちんは、自分のことが思ったより分かってないなあ」
チーハは一歩前に出た。そしてそのメイド服を強引に五味に押しつける。
「秋榛原の誇る『キング・オブ・ご主人様』が選んだ、乾坤一擲のメイド服だよ。ま、だまされたと思って一度くらい袖を通してみなよ」
「園城が?」
五味はそのメイド服を胸に掻き抱いたまま、視線を園城に向ける。目と目が合う。園城は恥ずかしくなったのか、あわてて視線を逸らした。
「ま、一度着てみろ。似合わなかったら、また選び直すからよ」
吐き捨てるようにそれだけ言うと自分はそそくさとどこかに消えてしまった。メイド服を抱いたまま、五味は呆然と立ち尽くす。そしてシマを見て、チーハを見て、サーヤを見てヒメを見た。みんな満足そうに頷くだけだ。
「ともかく着てみなよー」
脳天気にそう笑いかけるヒメに五味は、頷くことしか出来なかった。
更衣室に入る。前にも述べた通り『ゴルディアス』の更衣室は物置スペースを改造しただけの場所なので、異様に狭い。狭いながらも姿見は置いてあったのだが、今入れ違いに「お楽しみは後でねー」とヒメが休憩室へ持って行ってしまった。
『ゴルディアス』に入店してからの怒濤の展開に、自らの傷心を振り返る間もなかった。今、一人の空間になってようやくそのことを思い出した自分が居た。そしてふっと思う。
やっぱり一人でいるよりは、良いことなのかな。
一人で居ると何度も何度も嫌な瞬間を思い出してしまう。繰り返してしまう。それも際限なく。だが、いろいろな人と関わると、その人々に対応することにいっぱいでそれどころではない。
今日、家を出てきたことは間違った判断ではなかったかも知れない。
そう思った五味は、ぱさり、と今まで来ていた服を脱ぎ捨てた。そして先ほど渡されたメイド服に袖を通す。
五味は、小さくため息を吐いた。このひらひらふわふわしているメイド服はロングタイプのものではあるが、チーハやクララの着ているタイプのものに近い。それはあまりにフェミニンで、とても自分の柄ではないような気がする。ともあれ、皆が待っているので着ていかないわけにはいかない。それに園城が選んでくれたという。
『メイドカフェ・マスター』、『キング・オブ・ご主人様』の異名を誇る園城が見立てたメイド服なら間違いがないだろう。新しいメイド服に着替えてみると、サイズはぴったり。さすが園城の見立てだけはあって、着ているだけで何かに守られている気がする。やっぱりメイド服は戦闘服だ。それだけではない、鎧でもあるような気もする。とりあえず、これを身につけていれば、心が折れることはない気がする。五味は心の中の温度が少し上がったことに気がつきながら、更衣室の扉を開けた。
「お待たせ……って、みんなどうした?」
休憩室に入ってきた五味を見て、その場にいたヒメ、サーヤはまるでメデューサに睨まれたかのように、固まった。
「どうなった? どうなった?」
とフロアから興味津々の顔で飛び込んできたチーハと園城も、網に絡め取られた魚のように、その場で凍り付く。唯一したり顔で椅子にふんぞり返っているシマだけが例外だ。
……やっぱり、おかしいんだ、な。
自嘲気味に小さくため息を吐き、五味は俯いた。こんな反応をされるのは慣れている。『フェアリーズ・ガーデン』で無理して笑顔を作った時もそうだったではないか。悲鳴を上げられなかっただけでも幸いだ。恐る恐る、自分を姿見の前に移動させる。そこに映るはずなのは自分の姿。みんなを凍り付かせるその姿とは一体どれほどまでに凶悪な物なのだろうか。五味はごくりと喉を鳴らし、そして気を落ち着かせて鏡を覗き込んだ。
そのとたん、不思議な感覚に襲われた。自分の身体がまるで無重力空間にでも浮かんだかのように、平衡感覚が狂う。
誰……だ?
思わず、自分の背後を振り返る。が、後ろには誰もいない。もう一度、鏡の中を覗き込む。そこには自分ではない誰かがいた。綺麗な瞳をくりくりと輝かせ、こちらを不思議そうに覗き込んでいる。髪の毛は全体的に軽い感じでふわっとしており、開いたおでこが可愛らしい。ふりふりとしたメイド服は彼女にとても似合っている。後ろに垂れ下がったエプロンの紐やフリルがまるで妖精の羽のようで、きっと彼女が歩くときはふわりと飛ぶように移動するのだろう。
彼女を見ているだけで、胸がきゅんとする。可愛らしくて抱きしめてあげたくなる。
ああ、これが『萌え』なんだろうな、と少しずつ『萌え』を理解しつつある自分に気付き、ほくそ笑んだ。だが――
……ちょっと、まて。鏡というのは何だ。真正面に存在するものを忠実に映し出すものではないのか? ということは?
五味は髪の毛を掻き上げてみた。すると鏡の中のメイドも髪の毛を掻き上げる。首を傾げてみる。すると鏡の中のメイドも首を傾げた。ふんわりひろがっているスカートの裾を少し持ち上げてみた。すると鏡の中のメイドもスカートの裾を持ち上げて――
「うわあああああああああああああああああああ!」
五味は叫び声を上げた。その様子に今まで固まっていた回りの人間たちもようやく解凍され、はっと我に返る。
「ど、どうした五味!」
あわてて園城が駆け寄るが、その動作が少しぎこちない。その耳が真っ赤だ。
「か、鏡の、わ、私が、こ、こんなわけ、お、おかしいだろ!」
五味は鏡を指差して意味不明なことをわめいた。その指先は心なしかぷるぷると震えている。
「ふん。この私がメイクしたんだ、可愛くなって当然だろ? それに私に言わせればな」
シマはつかつかと五味に近寄っていく。そしてその顔に自分の顔をぐっと近づけて、五味の瞳を覗き込んだ。
「全ての女の子は存在するだけで『萌え』なんだよ。私はその手助けをするだけだ」
そう言ってシマは豪快に口元を歪めて、ニカっと笑った。そして五味は自分の心の奥底に巣くっていた陰鬱な黒々とした物が、いつの間にか消え失せていることに気が付いた。
今まで化粧をしたことがなかったので、実感がない言葉だったが――
――化粧で気分が変わるって、こういうことなのか。
五味は鏡の中の自分と目を合わせ、にっこりと笑った。
「あ、五味」
鏡の中で園城が近づいてきた。園城は視線を五味から逸らしながら、居心地悪そうにその身体を小刻みに揺すっている。
「なんだ、園城」
五味がそう言って振り返ると園城はますます挙動不審に顔を逸らし、五味と目を合わせようとはしない。
「どうした園城。言いたいことがあるなら早く言え」
五味がそう言って不思議そうにその顔を覗き込むと、園城は見えない何かに押されたかのように一歩後ずさりして距離を取ると、その口を開いた。
「あ、あのな。……こんなことを企画したけど、これは別にお前に無理して『フェアリーズ・ガーデン』に出て貰おうということじゃねえからな」
「え?」
「……その、ただ単にお前に、気分転換して貰いたくて、やっただけのことだから、変に気負わないで、欲しいんだ」
「……」
「俺も含めて『ゴルディアス』のメンバーはお前は充分良くやったって思っている。だからここで『フェアリーズ・ガーデン』から離脱しても誰もなんとも思わない。……というか、いや、むしろ出るべきじゃないと思う」
五味は目を丸くして、園城を見つめた。
出るべきじゃない――。園城からそんな言葉が出るとは思わなかった。
「今『フェアリーズ・ガーデン』は誰かに狙われている。そして誰にどういう目的で狙われているのかが分からない。それがはっきりしない以上、『フェアリーズ・ガーデン』に出る必要はない、と思うんだ。お前がまた今回のような悪意に晒される危険性がある以上」
今度はしっかりと五味の目を見つめて園城は言った。その目の色は何の衒いもなくこう語っていた。
五味のことが心配だ、と――。
五味は園城の後ろで佇んでいる『ゴルディアス』メンバーを見渡す。チーハ、サーヤ、ヒメ……。彼女らの瞳の色は、皆五味の身を案じている色をしている。
五味は小さく息を吐いた。
そうか。もう頑張らなくても良いんだ。
わずかに肩の荷が降りた気分だった。だが、それと同時に脳裏に浮かんできたことがある。
アキ、サエ、麗子サマ、コロン、アネゴ、いおり、クララ、メイ。
自分が休んでいる時も働いているメイドたちがいる。そして彼女たちと過ごした約二週間の日々。大変なこともあったが、それ以上に楽しいこともたくさんあった。その時間をここで終わらしたくない。そして――
五味はしっかりと園城を見返した。
ことあることに自分にアドバイスをくれて、心配してくれた、このメイドカフェ・マスターに最後まで自分の姿を見せたい。
――そう思ったのだ。五味はおもむろにその口を開いた。
「『メイドカフェごっちん』では一昨日トラブルが発生しましたが」
「は?」
唐突に繰り出されたその脈絡もない言葉に園城は目を白黒させる。だが五味はそんな園城を面白そうに見つめながら言葉を続ける。
「昨日臨時休業を戴き、本日から再開予定でございます」
つい数秒前までは心の中で迷っていた。ここで辞めるか辞めないか。だが、今、自分の言葉ではっきり口にするとすっきり覚悟が決まった。
私は『フェアリーズ・ガーデン』に復帰する。そして何があっても最後までメイドを勤めあげると。
心臓の鼓動が早まる。それは復帰することの不安だけではない。残り三日間自分がどこまで出来るかの期待の方が大きかった。
五味はぎゅっと自らの身体を包むメイド服を握る。
そしてそんな自分をこのメイド服が護ってくれる。そうに違いない。
「ご、五味。もうそこまで頑張らなくても」
「いや、頑張るわけじゃない」
「え?」
「私が出たいんだ。『フェアリーズ・ガーデン』に」
全てを飲み込んだ決意の表情を纏って、五味はすっと立ち上がった。背筋をぴんと伸ばして上品に佇むのは、トップクラスの秋榛原のメイド。何も分からずに妙な笑顔でお客を驚かせていたメイドはそこにはいない。
「そろそろ『フェアリーズ・ガーデン』の出勤時間だ。着替えている時間もないからこのまま行かせて貰う」
「……メイド服のまま街中を歩くのか」
「そうだ。メイドカフェ・マスターが選んでくれたメイド服のお披露目だ。問題ないだろう?」
「お、おい! 五味!」
あわてて押しとどめようとする園城の手をすり抜けて、五味は『ゴルディアス』の出口へと向かった。普段偉そうにしている園城をあわてさせるのは、少し小気味が良かった。五味はそのメイド服を翻して、秋榛原の街へと足を踏み出した。
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「今日もごっちんは、お休みかねぇ」
コロンがメイド服に着替えながらそう呟いた。隣で同じく着替えていたアキは五味のロッカーを一瞥した後、沈鬱な表情で口を開く。
「……あんなことがあった後じゃ、仕方がないと、思います」
昨日、アキの元に五味からメールの返信は来た。気遣ってくれた礼と、精神状態は少しずつ回復しているという内容のメールで『フェアリーズ・ガーデン』にいつ復帰するかということは書かれていなかった。
自分だったら……絶対一週間は立ち直れない。
アキはそう思って、小さくため息を吐く。
「それにしても犯人は誰なのでしょうか?」
そう言い出したのはメイだ。メイは人差し指を頬に突き立てで小首を傾げる。
「ここ更衣室はコンテスト出場者しかカードキーを持っていません。それにロッカーにも個別の鍵があります。そうそう犯行に及ぶ機会があったとは思えません」
「ごっちんはロッカーに鍵をかけ忘れていたそうです。だからこの更衣室に入ることが出来る人間なら、誰にでも可能性が」
着替え終わったいおりはそう言ってロッカーに鍵を閉めた。いつも元気ないおりにしては少しテンションが低めだった。
「ということはいおりさんはメイドの誰かが犯人だとお思いで?」
サエがそのきつそうな視線をいおりに向ける。いおりは両手を広げて小刻みに振った。
「いえ、そういうわけでは……」
その時、アネゴのばつん!と自分の拳で自分の手のひらを打つ音が響いてくる。
「しかしよ! どこのどいつだろうと、見つけたら絶対ぇシメてやんのによ!」
そんな中、冷ややかな表情で着替えを終え、静かに更衣室を出て行こうとするのが麗子サマだった。
「よう、麗子サマ。あんたはどう思う? 犯人は誰だと思う?」
背中に投げかけられたその声に麗子サマは優雅に振り返る。
「別に。誰であろうと構いませんわ。それを調べるのは警察の仕事です。私は残り三日間をしっかり勤め上げるだけですわ」
「……ちょっと冷たくねえか、それ」
「確かに、ごっちんは可愛そうだと思いますし、自分が同じ立場になったらと思うと恐ろしくてたまりません。でも犯人は誰か? と想像したところで、ごっちんの心が癒されるわけでもありませんし、犯人が捕まるとは思えません」
麗子サマのその理路整然とした説明にアネゴは「うぐ」と言葉に詰まる。
「でも、なんでごっちんを狙ったんだろうね。こういうの普通トップが狙われない? ごっちんは確かに票を伸ばしていたけど、トップグループではないよね」
そう言ったのはクララだ。クララのその言葉にアネゴは意地悪そうな笑みをその口元に浮かべる。
「それはあれだろ。ごっちんと聡の仲が良いのを妬んだ人間の犯行じゃねえのか? まあ、その場合嫉妬による犯行ってことになるな」
「な!」
ばふんという音が聞こえてきそうなほど、クララの頭は一瞬で沸騰した。透き通るような白い肌は、端から見て分かるくらいに真っ赤になる。
「わ、私がそんなことするわけないじゃないですかっ! 失礼なっ!」
「ん? 誰もお前が犯人だなんて言ってねえじゃん。あ? もしかしてお前……」
「んあ!」
クララの顔が更に真っ赤になる。これ以上はさすがに血管が切れてしまうんじゃないか、と皆が心配し始めた、その時、カチャリと更衣室の扉が開かれた。扉の真正面にいた麗子サマはそれに気づき、身体を脇に寄せる。
誰でしょうか?
麗子サマは小首を傾げた。見慣れない顔、見慣れないメイド服。この更衣室に入ることが出来るのは、コンテストの関わっているスタッフとメイドしかいない。初めは「スタッフでしょうか?」とも考えたが、そもそもスタッフがメイド服を着てくるわけもない。なら、「新人でしょうか?」とも考えた。離脱した五味の代わりに補填要因が呼ばれたのかも知れない。麗子サマはそう思い、まじまじとそのメイドの顔を覗き込んで「あ」と思わず声を上げた。
「どうしたよ、麗子サマ――」
そう振り返ったアネゴは最後の「マ」の言葉のまま、口を半開きに開けて固まった。そして次第にそこにいたメイドたちはそれが誰であるか気づき始める。
「え?」「あ!」「ああ!」「うん?」
「ひゃあっ!」
アキは両手で口元を押さえて悲鳴のような声を上げた。そしてその瞳からぽろぽろと涙をこぼし始める。
「ご、ごっちんんんんっ!」
「あ、おはよう。……ええと、心配かけてしまって申し訳ない……」
五味はそう言ってぺこりと頭を下げた。どおっと、室内が湧く。半分悲鳴。半分歓声。狭い更衣室が瞬間的に混乱状態に陥る。
「え、ええと」
五味はその様子に戸惑った表情を見せた。
「ごごごごご、ごっちーん! なにが、どうなってこうなったのー♪」とぴょんぴょん飛び跳ねて驚くいおり。
泣きながら抱きついてくるアキ。
「ヤバい。可愛いよぉ」と悶えまくるコロン。
「……」と呆然と立ち尽くすサエ。
「ここまでとは、見抜けませんでした」と独りごちるメイ。
そして麗子サマは悠然とした笑みをその口元に蓄えてほっとしたように大きく頷いた。
「お帰りなさい、ごっちん」
「た、ただいま、帰りました」
戸惑った表情でそう言うと、五味の目の前にずいと現れたのはクララだった。クララは真剣な表情で五味を睨み付けている。
「な、なんだ?」
「ごっちんがその気なら私も本気で行くからね!」
そう言って更衣室から飛び出していく。
「なにがだ?」と問いかける間もなく、クララは更衣室から外に出て行ってしまった。そんな五味の肩をぽんと叩く人間がいた。振り返るとそれはアネゴ。アネゴはその特徴的な豪快な微笑みをその顔に浮かべると口を開いた。
「な? だから言っただろ? アタシのダチの腕は確かだって」
五味はその言葉に心の底から頷いた。
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二十日目の成績 得票数 トップいおり『四七二』、二位麗子、三位クララ、四位アキ、五位サエ。(参考:九位ごっちん『二一九』)




