第九十一話
机に備えつけられた大きな椅子に腰かける。イオリの手記に少し魔力を流して、暗号魔術の状態を探った。こういう作業は魔道具を修理する職人がするような仕事なので心得がないが、やるしかない。
手記にかけられているのは、かなり古い魔法だ。内容も古いが、魔法自体が古くなっていて、魔法を構成している術式が千切れそうになっている。本全体を包むように魔法がかけられているのかと思いきや、なんと一ページずつかけられていた。
なんて面倒くさいんだ。
暗号魔術は、それが破壊されると魔法で隠されていた文書の内容も破壊されるように作られているものが主流だ。おそらくイオリがかけたこの魔法も、そういった種類と考えて差し支えなかろう。
手記を解読するには、古くなった魔法の千切れそうになっている部分を修復して、それから魔法を解かないといけない。
その作業を一ページずつしていくのだ。私のやる気はいきなり底辺まで下がった。
それでも私たち三人を解放してもらえるのかもしれないのだから、一ページ目の暗号魔術に魔力を流して、修復部分の詳細を把握していく。
秒で飽きた。
底辺を漂っていたやる気は完全に枯渇している。
たぶん私は、夢喰屋以外の仕事にまったくといっていいほど適性がない。
更に言えば、パズルも趣味としては不向きだ。私が完成させたことのあるパズルは、子供用のとても小さなものしかない。
こんな作業よりも料理番がよかったなあと一瞬考えた、それも違うかとすぐに取り消す。私はのんびり料理をするのが好きなだけで、決まった時間に間に合うように大人数の料理を毎日三食作り続けるのには耐えられない気がする。
ならば他の仕事はどうかと考えようとしたが、そもそも城暮らしの経験がないので、現役の城にどんな仕事があるのか分からなかった。
こんなことで記憶の遺産をあさるのも面倒で、床についていない両足をぶらぶらさせる。ついでに机上のメモ紙を浮遊魔術でぷかぷか浮かべて遊んでみるが、それもすぐに飽きてしまった。
それでもクーアたちを助ける為には必要だからと自分に言い聞かせ、むりやり意識を仕事に向ける。
なけなしの集中力は、五分と持たなかった。
手記と向き合い、大きすぎるため息をつき、また手記に向かい……と繰り返す間に、一応時間はじわじわ過ぎていく。
しかし無理にやろうとすればするほど気力は削がれ、作業に身が入らなくなるもので、ついに耐えられなくなった私は書斎を抜け出した。
こういうときは散歩にかぎる。ついでに厨房に寄って、茶でも淹れてもらおう。
部屋を一歩出ると、建物の中とは思えない清涼な空気が私を包んだ。書斎のある廊下は、昨晩見た大樹が生えている巨大な吹き抜けに面している。そのせいだ。この巨大な吹き抜けがあるから、廊下にいても屋内にいるのだという感覚は薄い。
大変自然派の城のシンボルである大木を眺めながら、のんびり歩く。その廊下にも、細い通路が設けられて水が流れていた。わざわざ水を汲み上げてまで流しているのだから魚でも飼っているのかと思ったが、掃除の行き届いた水路には魚がいるどころか苔すら生えておらず、生命の気配は皆無だった。奇妙な城だ。
シャツ一枚では少々肌寒い廊下を歩きながら、思う。これは雨や雪の日がこの魔術空間に存在するのなら、かなり冷えそうだ。城の住み心地は、お世辞にもよいとは言い難い。
階下に降りて水路沿いにのんびり歩いていくと、小さな庭に出た。咲き誇るキンモクセイの香りが鼻をくすぐる。この魔術空間は昼夜を分けるだけではなく、現実の季節も反映しているのか? いや、たまたま秋が好きでそう作っただけかもしれない。それにしても凝っている。
庭の向こうには、鬱蒼とした森が見えた。ご丁寧にも紅葉している木まである。
森が魔術空間の端であったらいいなと思いつつ、庭の中央にある池をゆっくり一周して、また城内へ。
通りかかった部屋のドアが開いていたので、ちらりと中を覗くと、応接間っぽい室内を使用人仲間の人間がせっせと掃除していた。
城の中央を貫く大樹の周りを巡るように廊下を進み、更にぶらぶらする。時折小径に入るようにして廊下を曲がったりしながら歩いていて思ったのだが、この城は私が『城』という言葉から想像したものよりも小さいかもしれない。
もちろん城には違いないし高さもある。中央には大樹が生えていたりなんかもするのでそれなりの大きさはあるのだが、『王様が住んでいる』という雰囲気が薄いのだ。面積のほとんどをあの木に持っていかれているような気がする。
城主のイオリが魔術師だからという先入観からきているわけではない。
奇妙な構造とサイズ感は、まるでなにか魔法の仕掛けとして用意されたかのようだ。
何度目かの角を曲がり、いよいよ厨房へ。
厨房が近くなってくると、なにやらガチャガチャとやかましい金属音が聞こえてきた。なにをしているのかと厨房をそっと覗けば、料理番のコボルトとクーアがそれは大きな鍋を協力して洗っている。なにを煮るのかは分からないが、子供ひとりくらいならばすっぽり入ってしまいそうだ。
でもまあ、この城の食事ならそれくらいの鍋は必要になるか。
体が子供なのだから私たちが食べる分はそんなに必要ないが、ラッテがやたら食べるのだ。朝食で私は主食としてロールパンを二つ食べるのだが、ラッテときたらブレッドを二斤は食べていた。もちろん副菜もあるが、ラッテはその量も山盛りだ。あの食べる量を考えれば、クーアたちがとても大きな鍋を用意していても不思議ではなかった。
それにしてもクーアのやつ、ちゃんと働いているんだな。
強制労働に駆り出されているという気配はない。ごく普通に仕事に励んでいるように見える。
そんな私の視線に気づいたのか、クーアが顔を上げた。もちろんクーアも子供にされたようで、元々小柄なのに更に背丈が縮んでいる。余らせたフード付きマントの裾は、床につかないように折り上げられ、洗濯ばさみで留められていた。
「ちょっとエル! なにサボってんのよ!」
私の視線に気づいたクーアの鋭い声が飛んできた。久しぶりに会った恋人にかける言葉がそれとは。感動的な再会を期待していたわけではないが、少しだけがっがりする。
「人がなにをしているのかを確認する前に、サボりだと決めつけるな。適度な疑いの心は自衛の為に必要だが、過度になれば諍いを生むぞ」
「……なにしてたわけ?」
「散歩だ。ついでに茶を一杯もらえないか」
「サボりじゃん……」
クーアが目深に被ったフードの下から、尖らせた口元が見えた。
「効率のいい仕事の為には休憩も必要だよ」
「たしかにそうだな」
私に同意したのは、コボルトの料理番だった。名前は……はて、なんだったか。一度に十五人も紹介されたので、欠片も覚えていない。とても新しい記憶の遺産として頭の中にはあるはずだが、整理が追いついていなかった。
「俺たちも少し休憩にしようか」
「ギヴンさんがそう言うなら」
そうだギヴンだ。クーアのおかげで思い出した。
クーアは私には突っかかってきたくせに、コボルトの少年ギヴンにはずいぶんと素直に従った。




