第116話 手の届かない花ほど美しく見える
五月中旬。
大野健太は、昼休みにスマートフォンを眺めていた。
画面に表示されているのは、マッチングアプリの女性会員一覧だった。
二十代の女性。
整った顔立ち。
旅行先で撮影したような写真。
おしゃれなカフェ、高級ホテル、海外の風景。
健太は指を止めた。
「……いいな」
そこに写っていたのは、二十六歳の女性だった。
プロフィールには、都内の企業に勤める会社員と書かれている。休日は旅行や美容、ゴルフを楽しみ、将来はお互いを高め合える相手と出会いたいという。
年収欄は非公開。
それでも写真から伝わる華やかな生活に、健太は目を奪われた。
自分とは住む世界が違う。
そんなことを考えるより先に、彼の頭には別の考えが浮かんでいた。
「こういう子と結婚できたら、人生変わるやろな」
結婚すれば、休日には一緒に旅行へ行き、きれいな家に住み、休日にはゴルフを楽しむ。
そんな光景が、勝手に頭の中で出来上がっていく。
もちろん、相手の女性は健太の存在すら知らない。
それでも健太は、彼女と結婚した後の生活まで想像していた。
「いいね、送っとこ」
画面を操作する。
数分後、健太は満足そうにスマートフォンをポケットへしまった。
工場に戻れば、いつもと変わらない仕事が待っている。
安価な帽子の部品を確認し、決められた作業を繰り返す。
華やかな女性との未来を想像した直後に、現実の作業台へ戻る。
その落差を、健太はあまり気にしていなかった。
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仕事が終わった夜、健太は木村から連絡を受けた。
「今度の日曜日、ゴルフショップの試打会に行かへんか?」
「どこの店?」
「ちょっと大きい店。新しいクラブも試せるらしいで」
健太はすぐに乗り気になった。
最近はゴルフに金を使いすぎないように気をつけていたが、試打会なら無料で楽しめる。
それに、ゴルフを続けていれば女性と知り合う機会もあるかもしれない。
健太の頭の中では、ゴルフはすでに単なる趣味ではなくなっていた。
「女性と出会える場所」
そんな期待が、少しずつ混ざり始めている。
日曜日。
健太はいつもより時間をかけて身支度をした。
新しく買ったポロシャツに、以前から持っているパンツ。髪型も整え、鏡の前で何度も姿を確認する。
「まあ、悪くないやろ」
自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
木村と合流し、店に入る。
店内には高級クラブが並び、試打スペースでは何人もの客がスイングを繰り返していた。
その中に、一人の若い女性がいた。
白いゴルフウェアに身を包み、店員と話しながらクラブを選んでいる。
年齢は二十代半ばくらいだろうか。
長い髪をまとめ、姿勢もよく、落ち着いた雰囲気があった。
健太は思わず視線を向けた。
「若いな……」
木村が気づいて笑う。
「クラブ見てるんやろ。あんまりじろじろ見るなよ」
「見てへんわ」
「いや、見てたやろ」
健太はごまかすように試打コーナーへ向かった。
しばらくして、先ほどの女性が近くのクラブを手に取った。
店員との会話が聞こえてくる。
「このモデルは少し重さがありますけど、普段お使いのものと比べてどうですか?」
「今のクラブより振りやすいですね。ただ、購入するかはもう少し考えます」
女性は冷静にクラブの特徴を確認していた。
健太は、その様子を見ながら考えた。
ゴルフができる。
若い。
きれい。
しかも、クラブ選びにも詳しそうだ。
理想の女性像に近い。
「なあ、木村」
「何?」
「あの人、ゴルフ上手そうやな」
「知らんけど、慣れてそうやな」
「声かけてみようかな」
木村は一瞬、健太を見た。
「何を話すん?」
「ゴルフのことやん」
「ゴルフの話がしたいんやったらええんちゃう。ただ、いきなり連絡先とか聞くなよ」
「分かってるって」
健太は女性がクラブを戻したタイミングで、少し距離を取って声をかけた。
「あの、すみません。ゴルフ長いんですか?」
女性は振り返った。
「はい。学生の頃から少しやっています」
「へえ、若いのにすごいですね。僕なんか最近始めたばっかりで」
「そうなんですね。最初はクラブ選びも難しいですよね」
「そうなんですよ。やっぱり高いクラブのほうがいいんですかね?」
女性は少し考えてから答えた。
「値段より、自分に合うものを選んだほうがいいと思います。高いものを買っても、使いこなせなかったら意味がないので」
「なるほど。ちなみに、普段はどこのコースに行かれるんですか?」
「いろいろですね。仕事関係の付き合いもありますし」
「仕事関係?」
「はい。私は小さい会社を経営しているので」
健太の目が少し大きくなった。
「えっ、会社経営ですか?」
「小さい会社ですよ」
女性は控えめに笑った。
健太の頭の中で、彼女の価値がさらに上がっていく。
若くて美人で、会社経営者。
自分とは違う世界にいる女性だ。
しかし、健太はそこで立ち止まらなかった。
「すごいですね。僕、そういう女性って憧れるんですよ」
「ありがとうございます」
女性は礼儀正しく答えた。
「普段、忙しいんじゃないですか?」
「そうですね。仕事の状況によります」
「休みの日も仕事とか?」
「ありますよ。自分で決められる部分もありますけど、責任はありますから」
会話は穏やかに続いていた。
女性は嫌な顔をしているわけではない。
ただ、健太に特別な関心を示しているわけでもなかった。
「じゃあ、失礼します。試打の予約があるので」
「はい。ありがとうございました」
女性は軽く会釈して、店員のいる場所へ戻っていった。
健太は、その背中を見送った。
「ええ人やったな」
木村が横から言う。
「普通に話しただけやろ」
「いや、でも会社経営してるって。すごいやん」
「そうやな」
「連絡先聞いたらよかったかな」
木村はため息をついた。
「まだ何も知らんやろ。相手はゴルフしに来てるんやで」
「分かってるって」
健太はそう答えたが、すでに頭の中では次の展開を考えていた。
彼女のような女性と付き合うには、もっと良いクラブを持つべきかもしれない。
服装も変えたほうがいい。
食事に誘うなら、安い居酒屋では格好がつかない。
そんなことを考えながら、健太は店内の高級クラブを眺めた。
値札には、十万円を超える数字が並んでいる。
「これくらいのクラブ持ってたら、格好ええかな」
「お前、まだ買うんか?」
木村が呆れた顔をした。
「いや、考えてるだけや」
「ゴルフが上手くなりたいんやったら、まず練習やろ」
健太は返事をしなかった。
彼の中では、ゴルフの上達と女性からの評価が、いつの間にか同じものになっていた。
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帰宅後、健太はマッチングアプリを開いた。
昼間にいいねを送った二十六歳の女性から、返事は届いていない。
それでも、別の女性を探し始める。
二十四歳。
二十七歳。
二十二歳。
写真を見て、プロフィールを読み、理想の結婚生活を想像する。
自分の年齢は三十七歳。
年収は約三百万円。
帽子工場で働き、休日は草野球とゴルフ。
恋愛経験はない。
それらの条件を冷静に並べれば、相手に求めるものとの釣り合いを考える必要があるかもしれない。
だが、健太は考えなかった。
「妥協して結婚しても意味ないやろ」
そうつぶやき、次の女性のプロフィールを開いた。
彼にとって、恋愛は自分の生活を少しずつ誰かと築くことではなく、今の自分を一気に変えてくれる相手を見つけることになっていた。
高嶺の花は、遠くから見れば美しい。
手が届かないからこそ、想像の中では欠点も見えない。
そして健太は、手が届かない理由を自分の側に探すことなく、もっと高い場所に咲く花を探し始めていた。
スマートフォンの画面には、次々と若い女性の写真が表示される。
健太は、その一枚一枚に未来を重ねた。
現実の自分を変える努力よりも、理想の女性に選ばれる夢のほうが、ずっと簡単だった。




