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第09話 余熱

救出から三日が経った。


帰った後の屋敷も慌ただしく、しばらく人の往来が多かった。この家にはこんなに人が居たのかと思うくらいには。


それも過ぎ去り、今は妙に静かだ。警備は増え、人の出入りも制限されている。真織は自分を拉致した犯人の存在を知らないままだ。緒凛は何か掴んでいるようだったが、真織は聞かされていない。あの後、緒凛が呼んでくれていた医者に手首の傷を手当てしてもらい、軽い脱水症状がみられたが他に問題はなく無事だった。そこから泥のように眠っているうちに色々と事が解決し始めたらしい。


元に戻っただけのはずなのに、真織にとっては、逆に落ち着かない空気だ。


「……何も起きないのが、一番怖いかも」


小さく呟くと、背後から声がする。


「それは同意だな」


振り返ると、緒凛が立っていた。


仕事着ではない。ラフなグレーのロングTシャツ。色の濃いジーンズパンツを履いていて、いつもはオールバックしている髪も降ろしている。真織と会う時は大抵、仕事前か仕事後の事が多いので、なかなか私服は見慣れない。


それだけで、距離が近く感じてしまう。


「……お仕事は?」

「今日は全部断った」

「……え」


驚く真織に、緒凛は当然のように言う。


「君を一人にしない方が、効率がいい」

「それ、効率の使い方おかしくないですか」

「気のせいだ」


効率って、何? と、思い返して、真織は笑ってしまう。久々に声を出して笑った事で、自分がまだ少しだけ緊張を残していた事に気がついた。


「家の中でに限るが、今日は付き合う」

「……遊んでくれるの?」

「……相手をするだけだ」


遊ぶ、という発想がなかったのだろう。珍しく緒凛が言葉に詰まった。真織も自身が使った言葉を間違えてしまったのかと、子供っぽさを恥じたが、いやいや子供だったと思い返す。

ここに来た当初、大切にされろと緒凛はよく言ってくれていたが、そういうことを催促してもいいのだろうか。


真織がソファの上に膝を抱えて座っている場所に、緒凛は歩み寄って隣に腰かる。けれど体は真織の方をしっかり向いて、話を聞く体勢になってくれている。真織もふと緒凛を見ると、仕事前の険しい表情を浮かべておらず、けれど気が抜けきった表情でもない。

こういう時の緒凛はじっと待ってくれる。急かすわけでも、不機嫌になるわけでもなく、真織がどのような答えを出すかを、ただ静かに隣にいて。

真織の視線が無意識に緒凛の頭に向いている事に気が付いた。


「……気になるなら、触っていい」


自分の思考が読まれたのかと、真織は瞬時にビックリした表情を浮かべる。それが何だか可笑しくて、ふっと笑うと彼女は無言のまま小さく首を傾げ、それから恐る恐る手を伸ばす。

真織の指が緒凛の髪に触れる。最初は遠慮がちに、少しずつ大胆になって緒凛の頭を何度か撫でる。


「仕事の時は触るな」


唐突な緒凛の言葉に真織の手が止まる。正面で目を真ん丸にしている姿に、すぐに後ろめたさを感じる。


「今は、いい」


そういったものの、これ以上はどうしたものかと髪を触っていた真織の手が空中でさまよった。申し訳なさから、緒凛はその手を握りゆっくりと掌を自分の親指の腹で撫でる。ピクッと真織が手を引こうとしたが逃がさない。手首にはまだ痛々しく包帯が巻かれている。

緒凛が包帯を見て後悔の念を視線に乗せたのを真織は正確にくみ取った。同時に、欲が一気に溢れ出す。


「……甘えていい?」


唐突な真織の申し出に緒凛は驚いた表情を見せた。それからすぐに穏やかに顔を崩して、ちょっと照れ臭そうに申し出た真織の顔を覗き込んで。


「当たり前だ。甘えろ。いくらでも甘やかしてやる」


緒凛の返答に真織の表情が明るくなる。自分の手を掴んでいた緒凛の手を優しく解くと、その手を大切そうに両手で握りしめる。ただそれだけの行為に、ふへへっと嬉しそうに笑う真織に、緒凛は反対の手を気づかれないようにギュっと拳作る。


緒凛の手を名残惜しそうに片手だけ離しながら、ソファの上をずりずりと這うようして体を近づけると、向かい合った緒凛の肩に真織は額を寄せて目を閉じた。

抱き締めるでもなく、ただ寄り添われるままに緒凛は真織に気づかれぬよう、少しだけ上を見上げて息を吐く。

掴んだままの手はいつの間にか指が絡み合って、掌同士がしっかりと合わさっている。


そのまま、ゆっくりと視線を戻す。肩に感じる重みと温かさに、無意識に手が動き掛けて、緒凛はそれを止めた。


真織は目を閉じたまま、何も言わない。


緒凛はしばらく迷ってから、空いている方の手で真織の背中に触れた。抱き寄せるほどではなく、背骨に沿って、そこに居ることを確かめる程度に。


「……無理はするな」


小さく告げると、真織は額を押し付けたまま、コクリと頷く。


「もう少し、このままでも、いい?」


囁くような声に。緒凛は一瞬だけ目を閉じる。


「ああ」


そう答えると、今度は迷わず真織の背中に回した手に力を込めた。それだけで真織の肩の力が抜けるのがわかる。


「……あの、ね」

「ん」

「あの時の事、まだ整理できてなくて……」


ポツリと零した真織の言葉に、緒凛の表情がわずかに引き締まる。


「無理にしなくていい」

「でも」


真織は額を寄せたまま目を開け、きゅっと唇を結ぶ。


「……怖かった。よくわかんないまま巻き込まれて」


そこで言葉が止まる。

緒凛は、黙って待った。


「でも……なんでかな。来てくれるって。待ってた」


言ってしまってから、顔が熱くなる。緒凛の反応が怖くて、今度はぎゅっと目を閉じて。少しだけ間を置いて、緒凛の声が耳元で告げた。


「俺は、行くつもりだった」


はっきりと。


「俺が、行きたかった」


真織は、息を呑む。それは“所有者”の言葉じゃない。


「……じゃあ」


と、勇気を振り絞る。顔をあげて、間近で真正面から見る緒凛の顔は相変わらず整っていて、でも出会った頃よりも表情が読み取れる。あまり感情が動かない人ではるけれど、心がないわけじゃない。優しい人。


「もし、私が黒澤にとって厄介な存在になったら」


緒凛の眉が動く。


「それでも、来てくれた?」


少し、沈黙。真織は目を逸らしかけた、その瞬間。


繋いでいた手を乱暴に解かれて、緒凛の手が真織の頬を撫でた。


「来る」


一言だった。


「立場がどうなろうと」


真織は、胸が苦しくなる。


「……それ、ずるっ」

「知ってる」


緒凛は苦笑する。


「真織が、俺を信じる理由になる」

「……」

「だから言ってる」


真織の頬に触れた手が撫でるように後頭部に回り、ゆっくりと引き寄せる。


触れるか、触れないか。


その距離で止まった。


「――逃げるなら、今だ」


真織は、逃げなかった。代わりに、一歩踏み出す。


額と額が、軽く触れる。


「……緒凛」

「ん」

「私……ホントごちゃごちゃで。大人の都合で振り回されて、でも大人は知らなくていいって言う」

「……ああ」

「それでも私、選びたい」


それは決意。胸に秘めたる感情が、今回の出来事で核心へと変わる。


「自分の意思で」


胸が、どくんと鳴る。


「……あなたのそばにいるのは、私が選んだこと」


緒凛の呼吸が、ほんの一瞬乱れた。


「……それは」


言葉を探す。


それはきっとひな鳥のようなものだ。


自分の巣から唐突に投げ出され、拾った相手を親愛として刷り込まれるような。真織にとって、これしか選択肢を許されなかった状況だったはず。だから、それは自分の意思じゃない。こんな年齢差のある、感情より合理主義で融通の利かない男など、選ぶべきではない。


ただ、そんな言葉は続かない。自分のために、緒凛は言葉を濁す。


真織の両頬に手を置く。


撫でる、というより――確かめるように。


「俺は拒まない」


その言葉で、十分だった。


恋だと、まだ言えない。


でも。


もう、契約だけの関係じゃない。


この人の隣に立つ未来を、初めて、現実として想像していた。

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