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第07話 試練

違和感は、ほんの些細なところから始まった。


朝食の席に、緒凛がいなかった。昨日は、一緒に食事をするといっていたのに。いないことは珍しくない。けれど――約束を破った事は一度もない。

持たされているスマホにも、連絡はない。貧乏生活をしていた頃は、かなり古い機種をずっと使っていた。本当はいらないとさえ思ったけれど、バイトをする上でSNSでのやり取りが必須だったため、渋々持っていたが今はそれと違う。

通信スピードだってものすごく速いし、画面も割れていない。でも使い慣れていないから、緒凛から連絡来る以外は持って歩くだけ。広い邸宅だからね。持ち歩けと言われている。


「……今日は?」


主語を濁しながら使用人に伝えると、明確に何に対する問いか分かったらしく、けれど曖昧な返事が返ってくる。


「急な会議が入ったと……」


急な会議。最近、それが増えている気がした。真織は箸を置き、胸の奥に小さな不安を覚える。仕事なら仕方ないと思う。忙しいのは今に始まったことではないから。


本来ならもったいないって思うのだが。

胸につっかえるものがあって、食事が喉を通らなくなったから。


「……ごめんなさい。ご馳走様でした」


少しの間を置いて、使用人が何も言わず静かに片付け始めたのを見て、真織は小さくため息を零した。



 ◇◆◇



同時刻。黒澤財閥本社では、空気が張り詰めていた。


重厚な会議室。磨き上げられた長机。しかしそこに漂うのは、洗練ではなく焦燥。部下たちがバタバタと会議室を出入りする。騒がしいのは今は咎められる状況ではない。


集まったのは上層部、ほんの数名。本当に(・・・)黒澤財閥を動かしている人間だけがここに集う。椅子を温めているだけを仕事としている連中は邪魔だ。中身が空っぽな者を座らせているという椅子の方が、まだ大変な仕事をしている。そういう連中は一大事であっても呼ばれることはない。現時点ではこの場の中心に緒凛が存在する。


「物流部門の数字が、明らかにおかしい」

「システム障害の報告は?」

「ない。……意図的だ」


緒凛は資料を机に叩きつける。乾いた音が、空気を裂く。が、この苛立ちに怯える者はいない。皆が皆、苛立ちの方に立っているからだ。


「内部か?」

「可能性は高い」


経営を揺るがすほどではない。

だが、放置すれば確実に傷になる。


小さな傷は、やがて腐っていく。


――—これは警告だ。


誰かが、黒澤に“触っている”。巧妙に、狡猾に、でもなぜか“見えるように”。


「……真織は?」


ふと口をついて出た名前に、部下が首を傾げる。その名前に反応できるのは、首を傾げた部下だけだ。あとは真織の事など誰も知らない。けれど、緒凛がこの場面でプライベートに関わる名前を出すのは非常に珍しい。


「本邸にいるはずですが」


嫌な予感が、背筋を走った。



 ◇◆◇



目を覚ました時、真織は見知らぬ部屋にいた。


一拍遅れて、覚醒したばかりの頭をフル回転させる。違う。自分の意思で寝ていない(・・・・・)。意識があるのは、いつものように敷地内を探索していた時だ。

あたりをキョロキョロと見渡しても、小さな明かりが一つ天井から。あとは薄暗い。埃っぽさはないが、無機質な空間で窓はない。コンクリートの壁。椅子に縛られている。手を後ろに回されて。


「……っ」


息が詰まる。


――拉致。


その事実を理解した瞬間、心臓が早鐘を打った。怖い。怖い。怖い。何故。


ふと、人の気配がして顔をあげる。

乾いた喉を潤すように、ゴクリと唾をのむ。


「誰……」


声が震えた。怯えなど見せぬように気丈にしたかったけれど、真織はたった十七歳の子供だ。


「落ち着いてください」


低い男の声。顔は見えない。だが、声だけでなんとなく分かる。

こういう状況に慣れている。


「あなたを傷つけるつもりはありません」

「……じゃあ、なんで」

「話をしたいだけです」


男の声は陰に潜んだまま正体を見せない。卑怯だ、とは思わない。賢い、とは思う。

声色が穏やかで、言葉でも危害を加えるつもりはなさそうだが、油断は出来ない。拉致という、非人道的な人間の事を一瞬でも大丈夫だと思ってはいけない。楽観視は文字通り命取りだ。

本当は泣き叫びたい。助けてと暴れたい。


「あなたが、どこまで“知っている”のか」


真織は、喉を鳴らした。


「……何も、知りません」

「でしょうね」


男は頷く。


「だからこそ、ここにいる」


意味が、分からない。男は淡々と続ける。


「黒澤は今、試されています」


――真織を、餌に。

その認識が、真織の中で形になる。


「……緒凛は」

「さあ」


男は肩をすくめたようだが、やはり見えない。でも、雰囲気は伝わってくる。明かりは真織の足元を照らすだけで。


「彼が、どれだけ本気か。それを、こちらも知りたい」


その言葉に、胸が締めつけられる。

住む世界が違うと、こんなにも大きなことを起こさなければいけないのか。生命を脅かすほどの事をしてでも。


――試されているのは、真織ではない。


緒凛だ。




 ◇◆◇




嫌な予感は的中する。緒凛は本邸に戻り即座に真織の所在を問いただす。


「真織がいない?」


使用人の言葉に、血の気が引く。先に秘書からの連絡を受けて、俄かに騒がしくなっていた使用人たちが足を止めて、雇い主の指示を待つ。


先程から何度もスマホに連絡したが繋がらない。使用人たちが秘書からの指示で探し回るが未だ見つかっていないという事は、ここにはもういない可能性が高い。

セキュリティはしっかりしているが万全ではない。どう考えても内部犯だ。


――やられた。


「……木嶋」


即座に名前が浮かぶ。

焦りと怒りが入り混じり、無感情に過ごしていた緒凛の背中に珍しく湯気が立つ。冷静沈着な緒凛がここまで感情をむき出しにするのは珍しく、慣れている使用人たちも固唾をのんで見守る。


同時に、会社からの連絡を秘書が受け取り、緒凛に詰めた。


「緒凛様、物流部門の件、さらに動きが」

「後だ!」


怒鳴り声に秘書がビクリッと反応するも、すぐさま電話の向こうの相手に指示を出し始める。有能だ。緒凛が言わずとも動けるのは強みだ。だがここぞという時の判断は緒凛がするしかないことも当人たちはわかっている。


会社か。


真織か。


――選択肢は、最初から一つしかない。


「全部止めろ。損失が出ても構わない」

「ですが――」


周囲がざわつく。が、言葉が続かない。緒凛の気迫に押され、誰も要望を口に出来ないでいる。


「彼女を探す」


周囲を動かすのはいつだって緒凛だ。


「防犯カメラの記録を全部洗え。敷地外もだ」

「しかし、それには時間が――」

「今すぐだ」


有無を言わせぬ冷たい声だ。警備担当者がバタバタと駆けずり回り、生活全般を担う使用人たちは自分の仕事に戻るよう指示される。途中、何か不審な点があれば報告せよとの通達付きで。


それでも周囲はこの騒動に視線をチラチラと緒凛に向けた。


財閥の若き中核。合理主義者。感情で動くことを最も嫌う男。


その緒凛が、完全に感情で動いている。


それは、企業家や経営陣――黒澤家の人間としてではない。


「――真織を餌にしたこと、後悔させてやる」


一人の男としての決断だった。



 ◇◆◇



暗い部屋で真織は目を閉じる。汗ばみ、縛られた手首の痛みは、もうほとんど感覚がない。喧騒も雑音も何一つない、無音というだけで人は狂えると思う。真織はその瀬戸際に必死にしがみついている。それが例え恐怖という感情であっても。


怖い。逃げたい。それでも。


「……私、選ばされるの、嫌だな」


その言葉は震えていた。


けれど、その奥に小さな火が宿る。

誰かの思惑で揺さぶられる存在でいることに、初めて、はっきりとした拒否感が芽生えていた。

誰かの駒になるために緒凛の傍にいたわけはない。足枷になるような、そんなこと。


何をしたというのだろう。


ただ、普通よりちょっと貧乏だけれど、なんだかんだと父親と一緒に暮らしていただけの、どこにでもいる高校生だったのに。人より頑張っている自分を褒めることがダメだったのだろうか。プライドを持つことがそれほどまでに愚かなのか。


まだ、何者にもなりたくない。


――でも、もうこのままでは終わりたくない。


無知でいる事を望んでいるなら上等だ。望み通り無知であろう。けれど、無知は正しさじゃない。間違いを“起こす”。

背後で縛られていた手をギュっと握りしめた。爪が掌に食い込む感覚だけははっきりとあった。


人が出入りした気配がない。先ほどまで真織に語り掛けていた人物が、まだそこにいるかわからないが。それでも影に向け、声を押し殺して吼える。


「私を餌にするなら、噛みつかれる覚悟、しておきなさい」


その言葉と同時に、皮膚が裂ける感覚が走る。抵抗に自分の座る椅子がカタカタと鳴る。

それでも真織は止めなかった。縄が食い込み、血が滲みだしても。


無知は本能の邪魔にならない。


暗闇の中で真織は笑った。


それは誰にも届かない、真織だけの笑みだった。

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