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第14話 岐路

路地裏での出来事は、真織の胸にまだじんわりと温かく残っていた。


額に触れた感触、絡み合った呼吸、鼓動が混ざり合ったあの瞬間――思い出すだけで、自然と顔が熱くなる。

緒凛の笑みや、ほんのわずかに見せた拗ねた仕草も、頭から離れなかった。


それでも、日常は容赦なく戻ってくる。翌日、屋敷に流れる空気はいつも通りの静けさに包まれ、甘い余韻は遠くに追いやられたかのようだった。


真織は、胸の中に残る気持ちをそっと整えながら、日課をこなす。だが、その日の午前、控えめなノックが廊下に響くと、静寂を破る知らせが届いた。


「当主がお呼びです」



 ◇◆◇



こんなすぐ、再び黒澤家本家に足を踏み入れるとは思っていなかった。

それも今度はたった一人で、だ。


同行者は本家に仕える使用人だ。淡い色の着物に腰に控えめな帯を結び、白い足袋に草履を履いた人で、緒凛の家にいる使用人とはまた趣の違う所作や気品を感じさせる。

この場の空気に溶け込むことを、最初から許されている人の所作。


案内されたのは前回の部屋の横にあった庭園だ。真織が静かに近づく。一歩進むごとになる砂利の音だけがやけに響く。温かい日差しの中で、真人が静かに池の鯉を眺めていた。

その半歩後ろにはなぜか成美が静かに立ち、後ろで腕を組み目を閉じている。


直人は幾多の決断を下してきた手で陶の器を持ち、その中から餌を指先でつまんでパラりと池へ撒くと、美しい錦がぱちゃりと水面を弾ませた。


すっと成美の瞼が持ち上がる。


青――異国の色の瞳がまっすぐに真織を射抜く。


以前会った時はサングラス越しだったから気が付かなかった。

成美が真織を見つめ、苦笑気味に微笑みながら肩をすくめる。


――逃げるなら、今だよ。


そう語っているようで。


――でも、君は逃げない。


と知っている目でもあった。


「最近、妙な噂が増えている」


唐突に始まった真人の言葉に、真織の視線が真人に集中した。


「誰が何を企んでいるか、という話ではない」

「問題は、“次”を誰が担うかだ」


静かな声。だが、その一言で空気が重くなる。


「黒澤には、空いている席がある」


器の中からもう一度、餌をとって池に零す。


それはまるで、蜘蛛の糸のように――。


「次期当主の席だ」


その言葉を耳にして、胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。


予感は、あった。


呼び出された理由も。


それでも――実際に言葉にされると、世界の重さが違う。


「君を、その席に迎える可能性を考えている」


“打診”だった。


命令でも、決定でもない。


けれど、逃げ道のない言い方。


喉の奥が凍えたように詰まる。息が浅い。呼吸が重い。


「……私に、何ができると?」


声がわずかに掠れた。その問いに、真人は答えなかった。


代わりに、成美が口を挟む。


「できるかどうか、じゃないんだよ」


軽い口調。けれど、目は笑っていない。


「“座る理由があるかどうか”」


成美は一歩前に出て、真織を見る。


「君は、ここに呼ばれた」

「それだけで、理由は十分だ」


真人が、ゆっくりと頷く。


「君はまだ、何も知らなくていい」


その言葉に、真織は顔を上げた。


「知らなくていい……?」

「ああ。今は、知る必要はない」


それは優しさではない。判断を鈍らせないための、意図的な遮断。


「ただ一つ、覚えておけ」


真人の声が低く沈む。


「この席は、奪うものではない」


また餌が落ちる。


ぽちゃり。


「だが、座った瞬間から――守られることもなくなる」


心臓が強く打った。


真織の脳裏に、緒凛の顔が浮かぶ。


路地裏。

額の熱。

抱き締められた腕。


――この話は、言わない。


なぜか、そうしなければならない気がした。


「……すぐには、答えられません」


正直な言葉だった。真人は、初めて真織を見た。


「それでいい」


成美が、真織の方を見て言う。


「時間はある――でも」


彼は、わざとらしく溜めてから続けた。


「誰かが、君の代わりに座る時間は――ない」


この場を離れるとき、真織は振り返らなかった。

振り返ってしまえば、もう戻れなくなる気がしたから。


蜘蛛の糸に縋る者は、誰なのか。



 ◇◆◇



その場に残った空気が重く張り詰める中、成美の大きなため息が引き裂いた。


「あの子、十七歳だよ」


誰もが畏怖する中、この男だけが対等に真人に話しかけてくる。

真人は答えず、ただ指先から餌を落とす。


ぽちゃり。


水面が揺れる。鯉の尾びれが鮮やかに舞う。


「遊びは、ほどほどにしておけ」


淡々とした真人の言葉に、成美の眉がピクリと動く。


「なんのこと?」


真人は視線を向けぬまま。


「試すのはいい」

「……今それ?」

「壊すな」

「無視かよ」

「越えれば、排す」


庭が、しんと静まる。

成美は肩をすくめ、小さく舌を出す。


「そのときはそのとき」


ははっと乾いた笑いを成美が漏らすと、真人は目を細める。


「やっぱバレてんのね」

「黒澤の庭で起きたことだ」

「この年になって、お説教は勘弁だよ」


成美はわざとらしくため息をつき、頭の後ろで手を組んだ。

庭が、ふと息を吹き返す。


「だぁってさぁ。どー考えたって、背負わせすぎでしょ」


鼻息を荒くする成美に、真人は一瞥してすぐに池の鯉に視線を落とした。


「アレは簡単には壊れん」


頑なに意見を変えない真人に、成美の表情がスッと抜け落ちた。


「でも十七歳だ」


風が、砂利を鳴らした。


「十七で座った者もいる」

「……自分と一緒にすんなよ」


愚痴るように履き捨てる。


餌が尽きた器を、使用人が音もなく受け取る。


「黒澤はあるべき姿に戻す」

「そ、頑張って」


他人事のように成美が投げ出すと、真人はまっすぐに成美を見る。

視線が交差するとき、一羽の小鳥が二人の頭上を飛んだ。


「最後まで見届けよ」

「……えー、めんどくさ」


ぶぅっと先に視線を逸らした成美に、真人は静かに目を閉じて。

真人は自然と腕を組み、ゆるやかに空を仰いだ。


風が庭を渡る。


遠い記憶の中で。幼い笑い声がする。


さわり、さわりと揺れる木漏れ日に。


静かに目を細めて。


「アレは存外、草むしりがうまかった」


ぽつり。


慈しむでもなく、誇るでもなく。


ただ事実のように。


成美は鼻で笑って。


「さっき、言ってやればよかったのに」


池の水面が、ゆらりと歪む。

その波紋は、まだ誰も知らない。

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