黒い本の手紙
「マーニャさんには、私が九歳で城に来たときからずっとお世話になっているのです。もう頭が上がりません」
目線を逸らしたままコハクが言う。
周囲の期待に押し潰されずにすんだのは、きっとマーニャのような人がいたからだろう。サラもコハクのために何かできることがあればいいと思った。
サラは鞄から黒い本を取り出して机の上に置くと、鍵を錠前に差し込む。
かち、と小さな音がして錠前が外れた。
表紙を開こうとしたサラの手を、コハクが止める。
「こんなに大切なものを、私が見てしまっても良いのですか」
その手は少し冷たかった。
サラはコハクの手の上に自分の手を重ねる。
「コハクさまはわたしの大切な方ですから」
それは恋人と呼べる関係とは違うのかもしれない。でも、大切な人であることには変わりがない。
コハクは目を細めて頷くと、サラの隣に座り直した。
サラは改めて表紙をめくる。そこには癖のある細かい文字がびっしりと並んでいた。遺された書物と同じ、ノキアの文字だ。
かわいいサラへ。
これを読んでいるということは、私の残した書をすべて解読できたということですね。よくがんばりましたね。
この本には、私がある方から依頼された魔法について、できるかぎり記してあります。その依頼とは、ある男の子にかけられた呪われた魔法を解いてほしいというものです。
私は研究を始めましたが、思うように結果を出すことができませんでした。依頼主が亡くなった後も研究を続けましたが、完成させることなく私もこの世を去ることになりました。
あなたにお願いがあります。私が遺したこの研究を完成させ、魔法を解いてください。あなたは私よりも魔法の知識が豊富ですから、必ず成功するでしょう。
どんな魔法かは、この続きを読めばわかります。
最後に、教会での暮らしはどうですか。言った通りの素敵な出会いがあったでしょう。どうか幸せになってください。
ノキア・ノーム
「…呪われた魔法」
次の頁からは魔法についての記述が続いていた。これはここで読むべきではないだろう。
しかし、誰にかけられた魔法かわからなければ解除など不可能だ。その手がかりがこの本に書いてあればいいが。
「わたしにできるのでしょうか」
「貴女が引き受けたものではないのですから、無理をする必要はありませんよ」
コハクが言った。サラを気遣ったものだと思うが、後ろ向きな発言が、どうにも彼らしくない気がする。
「貴女は前司祭に会ったことはないのですよね」
「直接はないですね」
「直接ではないというのは、間接的にはあるということですか」
サラはあの夜の出来事を思い出す。
「間接的というか、意識というか」
どう説明すればよいのだろう。
「信じていただけるかわかりませんが…」
コハクは頷いた。
まだ冬の気配が残る北国の春の夜。魔法学校の寮の一室で、サラは熱心に薬草の勉強をしていた。気が付くと夜はかなり更けていて、明日に備えて寝台に向かおうとしたときだった。
部屋の真ん中に、赤い光が浮かんでいた。
驚いたが、悪いものではなさそうだ。
赤い光はゆっくりと姿を変え、人の形になった。
「はじめまして、私はノキア。聖王国アレクディアの聖教会で司祭をしています」
赤みを帯びた人形のようなものは言う。
聖教会の司祭とは聖王国における最高位の神官ではないか。それがなぜここに…。
「突然だけど、あなたを聖教会の次の司祭に指名します」
「え?」
「嘘だと思うでしょ。でも本当よ」
あまりにも現実味のない話で、嘘だとは思うのは当然だ。誰かのいたずらかもしれない。
「私はもうすぐこの世を去ります。聖王国の司祭は、ある時期が来ると次の司祭が誰かわかるのです。本当はもっと早くあなたをこちらに呼んで、丁寧に引き継ぎをするはずでしたが、思っていたよりも早く病気が進行してしまいました」
「お断りすることはできませんか」
一応聞いてみる。
「あなたにとっても悪い話ではないわ。あなたは聖王国で司祭になって、苦労することもあるけれど素敵な出会いもあって、きっと幸せになれるわ。好きな魔法の研究もいくらでもできるしね」
サラはどう返事をして良いか考えた。
ずっと勉強ばかりしていて、魔法学校の主席にまでなったものの、本当に自分の人生はこれで良いのかという漠然とした不安が常につきまとっていた。孤児院に恩返しをするという目標はあるが、もっと広い世界を見たいという憧れも捨てきれない。
何かが変わる気がした。
「…わかりました。お受けします」
自分でも不思議なくらいあっさりと了承してしまった。後で考えると、これは運命だったのかもしれない。
「私の持っている知識をできるかぎり伝えるわ。ここで伝えきれないことは別の手段を用意してあるから大丈夫よ」
サラは机から紙と筆記具を取り出した。
「まずは教会に着いたら最初にやる司祭の石の儀式から…」
「それからお亡くなりになるまでの一週間、ノキアさまは毎晩いらっしゃって、わたしに必要な知識を授けてくださいました。わたしは聖王国からのお迎えが来る前に身の回りを整理して、使者の皆さまをお待ちしていたのです」
コハクは時折頷きながら、真剣に話を聞いてくれた。サラは一息ついて、紅茶の器に口をつけた。
「私は、貴女がこの国に来てくださって嬉しいです」
「今でも何かの間違いではないかと思ってしまいます」
「貴女より相応しい人などいませんよ」
コハクはサラの髪を撫でて微笑む。これがノキアの言う「素敵な出会い」なのだろう。この出会いが仕組まれたものなのか、ノキアは予見しただけなのか、サラにはわからなかった。




