表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ノヴェル・オルガヌム 〜無限の世界線から、たった一つの痛みを選ぶ方法〜  作者: 島流しパプリカ
第一部 未採用世界の恋人

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/3

第二話 第一幕舎

 列車が止まると、ドアの上の表示がもう一度だけ明滅した。


 中枢外環七番線・第一幕舎前


 その文字列には、駅名というより演目名のような嫌な確信があった。


 ドアが開く。

 冷たい空気が流れ込んでくる。海辺の朝のようでもあり、使われていない資料館の空調のようでもある、乾いているのに湿度を思い出させる温度だった。


 ホームへ降り立った瞬間、俺はまず天井を見上げた。


 天井はなかった。


 正確には、あったはずの場所に、夜明け前の空を模した何かが広がっていた。薄青い雲。遠すぎる鉄骨。そこを横切る照明桟橋のような黒い線。どこまでが構造物で、どこからが空なのか判別できない。

 ホームの向こうには、半円形の巨大な建造物がいくつも連なっていた。劇場の客席にも、工場の格納庫にも見える。どの建物にも番号ではなく、第一幕舎、第二幕舎、第五転回廊、終景庫のような名前がついている。


「……駅じゃないな、ここ」


「うん」


 有栖零は列車を振り返りもせずに歩き出した。

「昔は駅の機能もあったんだと思う。でも本体はべつ」


「本体?」


「リハーサル場」


 彼女はそれだけ言って、ホームの端にある古い改札のようなゲートをくぐる。

 俺も続く。


 ゲートに触れた瞬間、ガラスのない案内板へ文字が浮かんだ。


 一名 暫定固定個体

 一名 高密度残響個体

 参列資格 未確認


 表示はすぐ消えた。


「見たな?」


「見た」


「“参列資格”って何だ」


「ここでは住民票みたいなもの」


「ふざけてる」


「ふざけてない。ここ、だいたい全部そういう比喩で作られてるから」


 ゲートの先は、広いコンコースだった。


 だが普通の駅とはまるで違う。

 床は磨かれた石なのに、ところどころ舞台袖の黒い床板が混じっている。壁面には古い電照ポスターの枠が並ぶが、中身は広告ではなく、途中で差し替えられた世界の断片だ。

 「降雪都市試案・南ブロック交通障害」

 「第九婚礼区画・共同姓制度サンプル」

 「沿岸撤退後社会モデル・暫定住民感情推移」

 そうした見出しの下に、街並みや人の顔や統計図が貼られている。どれも何かの途中で終わっている。


 コンコースには人影があった。


 ただし、どの人間も輪郭が微妙に安定していない。

 紙袋を持って歩く女。

 ベンチに座って古新聞を読む老人。

 子どもの手を引く男。

 その全員が、数秒に一度、服装や年齢や身長の細部だけを別の案へ差し替えられたみたいに揺れる。


「こいつらは」


「住んでる人たち」


「残響個体か」


「一括りにはできない。未採用の住民、途中で切られた役柄、再構成待ちの観測者、たまたま戻れなくなった実働員。いろいろ」


「いろいろで済ませるなよ」


「冬真」


 有栖零は歩きながら、少しだけ振り向いた。


「ここでは、厳密さに執着すると負ける。

 名前をつけきれないものが多すぎるから」


 その言い方は、経験から来ていた。

 それが腹立たしかった。

 こいつは俺よりここを知っている。

 俺が知らない人生を、そのぶんだけ持っている。


 コンコースを抜けると、第一幕舎へ続く長い通路に出た。天井から古い緞帳みたいな布が何枚も垂れ、風もないのに微かに揺れている。左右には店舗のようなものが並び、奇妙な品物が売られていた。


 古いチケットの半券。

 日付の消えた招待状。

 「採用見送り」とだけ印字された封筒。

 誰かの一日を六分間だけ再生する小型投影機。

 結婚式の乾杯だけを延々とループさせる音声板。

 少女が、透明な瓶の中に入った「未送信メッセージ」を十本セットで並べている。


「ここは市場か?」


「外環ならね。

 中へ行くほど、もっと官僚的になる」


「嫌な文明だな」


「好きじゃない?」


「嫌いだ」


「よかった」


 彼女は前を向いたまま言う。

「嫌いって言えるうちは、まだ読まれてない」


 その意味を問おうとした瞬間、通路全体の照明が一段暗くなった。


 天井の見えないところで、低いベルが鳴る。

 市場のざわめきが一瞬で痩せる。

 人影たちが顔を上げる。輪郭の揺れていた住民たちが、同時にこちらを見る。


『外環通達。外環通達』


 女の声が、どこからともなく響いた。

 抑揚がない。感情を削った公的音声だ。


『暫定固定個体一名、高密度残響個体一名の無許可進入を確認。

 現実安定法第八条・第十一条に基づき、観測封鎖を開始します。

 一般参列者は視線を下げ、個人的判断を控えてください』


 市場の人々が、ほとんど条件反射のように視線を伏せた。

 それが逆に不気味だった。

 逃げもしない。騒ぎもしない。ただ、自分の判断を切るように従う。


「来るよ」


 有栖零が歩調を速める。


「どこへ」


「第一幕舎の裏。ヴォルン・アーカイヴの搬入口がある」


「表から入れないのか」


「表は観客用だったから」


「今は?」


「処刑場みたいなもの」


 通路の先で、黒い人影が三つ現れた。

 いや、三つではない。左右の高所回廊にも気配がある。包囲だ。


 先頭に立っているのは女だった。

 細身。長いコート。ホームで見た影と同じ輪郭。

 彼女は歩きながらフードを外す。短い黒髪と、冷えた目があらわれる。年齢は三十前後。美人かどうかより先に、相手の判断を代行することに慣れた顔だった。


「榊冬真」


 女は言った。

「現実固定院・監査執行官、真舟澪。

 進入規程違反、潜行路破壊、管理対象個体との無許可接触。

 その場で武装を解除して、両手を見える位置に」


「また真舟か」


 口をついて出た。

 自分でも意味がわからない。

 だが彼女の眉が、ほんの少しだけ動いた。


「私を知っている口ぶりだな」


「知らない。

 でもその姓には、もう少しうんざりしている気がする」


「それはあなたの問題ではない。あなたの“別件”の問題だ」


 有栖零が、小さく舌打ちした。

 その仕草に、真舟澪の視線がずれる。


「零号残響」


 彼女は有栖零をそう呼んだ。


「この段階で外環へ戻ってくるとは予想より早い。

 集合速度が上がっているのか、それとも――」


「黙れ」


 有栖零の声が、初めて明確な敵意を帯びた。

「私を番号で呼ぶな」


 真舟は表情を変えない。

「番号を嫌うのは、だいたい自我の過剰な個体だ。

 あなたは個人ではなく、未採用世界線の損失が集束した高密度残響だ。管理上の呼称は必要になる」


「管理」


 有栖零が笑った。

 きれいではない笑い方だった。


「あなたたちは、世界を全部そうやって呼ぶ」


 その会話のあいだに、俺は左手で拳銃を抜いていた。

 右手は同期釘の残数を確認する。あと一本。最悪だ。


「榊冬真」


 真舟が俺を見る。

「あなたはまだ、拘束対象でしかない。いまなら被害は最小で済む」


「被害?」


「あなた自身の存在資格のことだ」


 またその言い方だ。

 存在資格。

 この社会はいつから、人間にそんな許認可を与える側になったのか。

 いや、最初からそうだったのかもしれない。俺が知らなかっただけで。


「そっちへ行くと、あなたは固定を失う」


 真舟は続ける。

「あなたはもう複数の世界で重複している。これ以上、零号残響と同調すれば、“榊冬真”として現実に登録されている一意性は壊れる。

 そうなれば、回収局にも固定院にも戻れない」


「戻れなくて困るほど、局が好きに見えるか」


「好き嫌いの話ではない」


「そういうのが一番嫌いなんだよ」


 真舟は一秒だけ黙った。

 それから、ほんの少しだけ首を傾ける。


「……その台詞も、記録どおりか」


 記録。

 俺はその単語に反応してしまった。

 真舟は見逃さない。


「やはり一部は起動しているな」


「何を知ってる」


「あなたが誰なのかを」


「じゃあ教えろ」


「その女から離れたら」


「話にならない」


「そうだな」


 真舟の右手が、ゆっくり上がる。


「では、手続きを進める」


 同時に、左右の回廊から黒い筒状の装置がせり出した。

 銃じゃない。

 もっと大きくて、もっと嫌なものだ。


「伏せろ!」


 俺が叫ぶより早く、有栖零がこちらの腕を引いた。

 次の瞬間、通路全体に薄い幕が落ちた。


 文字通りの幕だった。

 透明な膜ではなく、舞台で使うような巨大な布が、上から何枚も何枚も降ってくる。だがそれは物質ではない。布の形を借りた脚本固定幕だ。触れた空間の因果を「予定された進行」へ押し込む装置。


 最前列の露店が、急に“壊れるべき小道具”として扱われ、勝手に崩れた。

 走り出した住民の一人が、“転倒役”として固定され、足をもつらせて倒れる。

 別の女は、“悲鳴をあげる通行人”として口を開く。

 世界そのものが舞台指示を受けはじめた。


「最悪だな」


「真舟は現場でこれを使うタイプなんだ」


「前にも会ったことあるみたいな言い方やめろ!」


「だってあるんだもん!」


 有栖零は叫び返し、露店を蹴飛ばして横倒しの障壁を作る。

 俺はその陰から真舟へ発砲した。

 二発。

 だが彼女の前へ黒い幕が一枚割り込んで、弾の因果だけを“外れる”側へ捻じ曲げた。位相弾が壁へ逸れる。


 真舟は少しも動じない。


「榊。あなたは理解していない。

 その女は生存ではない。

 損失の集積だ。

 愛着を向ける対象として設計されてすらいない」


「設計?」


 その単語に、有栖零の顔が一瞬だけ曇った。


「冬真、走るよ!」


 彼女は通路の左側、古びた「第一幕舎・搬入関係者以外立入禁止」の札が掛かった扉へ向かう。

 扉の横には、電子認証も旧式の鍵穴もなかった。代わりに、小さな丸い窓が一つだけ埋め込まれている。


「開くのか、これ」


「あなたがいれば」


「便利な呪文みたいに言うな」


 俺が扉へ手を伸ばした瞬間、窓の内側で光が灯った。

 認証音。

 聞いたことのない古い合成音声が、ひどく丁寧に告げる。


『閲覧系列、識別。

 系統名:トーマ

 搬入権限、一時復旧』


 背骨が冷えた。


 俺が扉を開く。

 有栖零を先に押し込み、自分も滑り込む。

 直後、脚本固定幕が扉の向こうで炸裂し、金属板全体が「破るべき扉」として悲鳴を上げた。

 だが今度の扉は簡単には壊れない。内側から施錠レバーを下ろすと、外の音が一段だけ遠くなる。


「系統名、トーマ?」


 有栖零が息を切らしながら俺を見る。


「私が言ったでしょ。あなたは最初から、ここに入るようにできてる」


「“できてる”って何だよ」


「冬真」


 彼女は珍しく真顔だった。


「ここから先で、たぶんあなたは自分の怒り方を変えなきゃいけない。

 個人として怒るだけじゃ足りない」


「説教か」


「警告」


 搬入通路は暗かった。

 表の市場とは違い、ここには人の気配がない。天井の低いコンクリート通路が真っ直ぐ奥へ伸び、左右に大きな倉庫の扉が並んでいる。

 扉には番号ではなく、雨の場面用・病室用・婚礼用・暴動用・告別用のような札が掛かっている。


 俺は一つを開けてみた。


 中には、本当に“病室”が丸ごと入っていた。


 白いベッド。

 窓の向こうの曇天。

 心電図の音。

 消毒液の匂い。

 ただし、床の端で切れている。

 病室という場面だけを箱へ収めたみたいに、不自然な断面のまま眠っていた。


「……何だ、これ」


「試作セット」


「物理模型じゃないよな」


「もっと悪い。

 本採用前の現実パーツ」


 有栖零は歩きながら言う。


「《ノヴェル・オルガヌム》は、最初から物語を娯楽として作るためのシステムじゃなかった。

 都市、制度、関係、人生の断片。そういうものを場面単位で試作して、つなぎ合わせて、どの現実がもっとも“読めるか”を判定するためのシステムだった」


「読める?」


「人間が、自分の生として耐えられる形かどうか」


 その定義は、美しいようでいてぞっとした。

 世界は、理解されるために作られているのではない。耐えられるよう編集されている。

 もしそれが本当なら、現実そのものが後編集だ。


 通路の先に、ようやく大きな扉が見えた。上に小さく、


 VORN ARCHIVE / 第一幕舎 搬入資料庫


 とある。


 俺が近づくと、扉表面に古い文字列が走った。


『閲覧系列トーマ。

 再訪まで、二千九百四十一日。

 遅延の理由を入力してください』


 入力欄が浮かび上がる。


「再訪?」


 俺は有栖零を見る。

 彼女はかすかに唇を噛んだ。


「ここに、来たことがあるのか、俺は」


「ある世界では」


「その答え、便利すぎるな」


「便利じゃない。

 だって、それであなたは毎回救われない」


 外で重い衝撃音。

 真舟たちが追いついたのだろう。

 悠長にしていられない。


「理由なんて知らない」


「言ってみて」


「は?」


「何でもいいから」


 馬鹿げている。

 だが時間がない。俺は扉へ向かって吐き捨てるように言った。


「……忘れてた」


 数秒の沈黙。


 それから、扉が開いた。


『受理します』


 内部は、予想に反して広くなかった。

 円形の資料室。天井まで届く書架。だが本は少ない。代わりに、透明なケースや古い端末、記録結晶、手書きのノート、音声板が整然と並ぶ。

 中心には、ひとつの椅子だけが置かれていた。


 椅子。

 それが、この部屋でいちばん嫌だった。

 閲覧というより、審問のための席に見えたからだ。


「時間がない」


 有栖零が言う。

「座って」


「命令するな」


「命令じゃない。ここはそういう部屋なの」


 また外で扉への打撃。

 金属が悲鳴を上げる。

 俺は毒づきながら椅子に座った。


 瞬間、床に細い光の円が浮かんだ。

 書架のあいだから無数の薄い画面がせり出し、俺を取り囲む。

 中央正面に、一人の男の映像が現れた。


 老人だった。

 細い顔。沈んだ頬。目だけが異様に澄んでいる。

 古いスーツを着て、どこかの研究施設のような部屋に座っている。背景には模型のような劇場都市。


「ようこそ」


 男は言った。

 ひどく静かな声だった。


「もし君がここに座っているなら、少なくとも一つはうまくいかなかったのだろう。

 あるいは、ようやくうまくいきかけているのかもしれない。

 どちらでも、たいした違いはない」


 俺は喉の奥が乾くのを感じた。

 こんな男、知らない。

 なのに、知らないままでいたくない種類の顔だった。


「……エリアス・ヴォルン」


 有栖零が小さく呟く。


 男――ヴォルンは、まっすぐこちらを見る。


「君の現行名が榊冬真であることは把握している。

 だが、この部屋は君をその名では識別しない。

 閲覧系列トーマ。

 第七読手。

 それが、ここでの君だ」


 背後で、有栖零が息を呑む音がした。

 俺は椅子の肘掛けを掴む。


「何だよ、それは」


 もちろん映像は返答しない。録画なのだろう。

 だがタイミングだけは、こちらの動揺を予測していたみたいに正確だった。


「《ノヴェル・オルガヌム》は、世界を生成する計画ではなかった。

 世界は、放っておいても分岐する。増殖する。

 我々が必要としたのは、分岐そのものではない。

 どの現実を、“人間が生として引き受けうる一本”として読むかを決める機構だった」


 画面のひとつに、膨大な樹状分岐図が浮かぶ。無数の世界線。

 別の画面に、その前で椅子へ座る子どもが映る。

 こちらへ背を向けている。

 髪型。肩の線。痩せた首筋。

 俺に似ている。


「確率でも効用でも、現実は閉じない」


 ヴォルンは続ける。


「閉じるのはいつも、痛みの代表によってだ。

 人間は、すべての可能性を背負って生きることはできない。

 だから一つを“自分の人生だった”と引き受ける。

 その能力を、我々は読解ではなく、選定と呼んだ。

 そして、そのために用意されたのが読手系列だ」


 画面の子どもが振り向く。

 俺だった。


 いや、俺にそっくりな別の子ども。

 頬の左側に小さな傷。こちらをまっすぐ見つめる目つき。

 胸の奥で何かが沈む。


「待て……」


 映像の中で、子どもの隣へもう一人、誰かが座る。

 少女だった。

 同じ年頃。長い髪。横顔だけでわかる。


 有栖零。


「第一読手に対する初回選定対象は、《零号残響》だった」


 ヴォルンがそう言った瞬間、室内の空気が変わった。


「彼女は個人ではない。

 未採用世界線において高頻度で発生し、かつ高密度の感情集束点となる人格パターンを収束・整形した、最初期の代表損失体である。

 簡単に言えば、

 選ばれなかった痛みを、一人の人間のかたちへまとめたものだ」


 俺は立ち上がろうとして、動けなかった。

 椅子が俺を軽く固定している。まるで、この瞬間に席を立つ反応も過去に予測されていたかのように。


「君たちは、何度も向き合わされた」


 ヴォルンの声は静かだ。


「世界を採るか。

 零号残響を採るか。

 選択のたびに、君たちのあいだには異なる歴史が発生した。

 恋愛、離反、共闘、殺害、保留。

 だが重要なのは結果ではない。

 君がどの痛みを“代表”として選ぶか、それだけが観測の核心だった」


 外側の扉がついに裂ける音がした。

 真舟たちがもうすぐここへ入ってくる。


 だが俺はその音さえ遠くに聞いていた。

 頭の中で、いくつもの断片が立ち上がる。

 海辺。

 病室。

 雨の高架下。

 結婚式。

 撃鉄を引く指。

 泣いている有栖零。

 笑っている有栖零。

 死んでいる有栖零。

 どれも俺の記憶ではない。

 けれど俺の後悔だけは、全部に共通している。


「……有栖」


 ようやくその名を呼ぶと、彼女は少しだけ目を伏せた。


「知ってたのか」


「全部じゃない」


 彼女は言う。

「でも、私が“誰か一人”じゃないことは知ってた」


「俺は」


 言葉が続かない。

 何を聞けばいいのかわからない。

 好きだったのか。殺したのか。守ったのか。選ばなかったのか。全部なのか。


 ヴォルンの映像は、まだ終わらない。


「もし零号残響が再浮上し、第七読手がここへ戻ったなら、計画は最終段階へ入る。

 そのとき問われるのは同じだ。

 ただし、今度は一個人の選定ではない。

 現実そのものが、代表痛の組み換えを迫られる」


 画面に、中央劇場の巨大模型が映る。

 その下で、何本もの世界線が束ねられ、一本の幹へ圧縮されていく。


「要するに」とヴォルンは言った。

「君が零号残響を選ぶなら、現行現実は一本ではいられない」


 そこで初めて、映像の中の老人が少しだけ笑った。

 寂しい笑い方だった。


「ようやく、本当の物語が始まる」


 映像が消える。


 同時に、資料室の扉が内側へ吹き飛んだ。


 黒い幕の切れ端と粉塵の向こうに、真舟澪が立っていた。

 銃は抜いていない。代わりに、細長い金属棒のような装置を右手に持っている。現実固定杭。あれを打たれれば、この部屋全体の位相が一時的に一本へ固定される。逃げ場はない。


「聞いてしまったか」


 彼女は静かに言う。


「なら、もう選択肢は少ない」


 有栖零が一歩前へ出る。

 俺は椅子の拘束から無理やり身体を引き剥がした。


 真舟の目は、俺ではなく有栖零を見ていた。


「零号残響。

 あなたの存在は、恋愛の問題でも、個人の救済の問題でもない。

 あなたが本採用に近づくほど、現実は複数の痛みを同時に背負う。

 世界はそれに耐えられない」


「耐えられないのは、あなたたちの制度でしょ」


 有栖零が返す。


「制度が世界だ」


「違う。

 制度は、誰かに“これだけを人生と思え”って言い続けてるだけ」


 真舟の視線が初めて揺れた。

 ほんのわずかだが、そこに感情が入る。


「だからこそ、一本にしなければならない」


「どうして?」


「人間が壊れるからだ」


「もう壊れてるよ」


 有栖零の声は低かった。

「あなたも。冬真も。私も。

 なのに、まだ“一本なら大丈夫”って信じるの?」


 真舟は答えない。

 代わりに、金属棒の先端を床へ向ける。


 その瞬間、俺は理解した。


 この女は敵だ。

 だが単純な悪ではない。

 彼女もまた、たぶん自分の選ばなかった痛みをどこかへ埋めて、制度の側へ立っている。だからこんな顔をする。


「榊冬真」


 真舟が言う。


「最後に一つだけ。

 あなたは今から、その女を選ぶこともできる。

 ただしその場合、もう“榊冬真”のままではいられない」


 有栖零が、ゆっくり俺を見る。


 選べ。

 また、その言葉だ。

 無限の世界線から、たった一つの痛みを選べ。

 この文明そのものが、俺の喉元へ刃物のようにそれを突きつけてくる。


 だが今度、俺の中で立ち上がった感情は、迷いより先に怒りだった。


「知るかよ」


 俺は言った。


「そうやって何でも“一本にしないと人間は壊れる”って決めてきたのが、お前らだろ」


 自分の声が、少しだけ知らない熱を帯びていた。

 たぶん、これは俺一人の怒りじゃない。

 別の世界で、別の俺たちが何度も飲み込んできたものの残り火だ。


 真舟が床へ杭を打ち込もうとする。


 その瞬間、資料室の奥の書架が一斉に開いた。


 中から何百枚もの紙片が舞い上がる。

 台本。

 未送信の手紙。

 却下された報告書。

 書きかけの小説。

 誰かの弔辞。

 誰かの離婚届。

 誰かが最後まで言えなかった台詞。


 それらが渦を巻いて、部屋全体の位相を乱した。


「冬真!」


 有栖零が叫ぶ。


「裏手に転回坑道がある、そこへ!」


 俺は考えるより先に動いた。

 真舟の杭が床へ刺さる。

 現実固定の光が走る。

 だが紙片の嵐が、その“固定されるべき一本”を読み違えさせる。


 部屋が、裂けた。


 書架の向こうに本来ないはずの通路が現れる。

 暗い。

 狭い。

 だが確かに“次の場面”へ続く通路だ。


 俺は有栖零の手を掴み、その裂け目へ飛び込んだ。


 背後で真舟の声が飛ぶ。


「榊!

 その先は第二幕ではない!」


 次の瞬間、床が消えた。


 俺たちは、まっすぐ暗闇へ落ちていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ