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ノヴェル・オルガヌム 〜無限の世界線から、たった一つの痛みを選ぶ方法〜  作者: 島流しパプリカ
第一部 未採用世界の恋人

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第一話 空席の劇場

 劇場には、誰もいないはずだった。


 旧第四区文化会館。

 二十三年前に閉鎖され、十五年前に保存対象からも外れた、ただの箱だ。

 にもかかわらず、午前三時十七分、世界線回収局の監視網はこの建物に残響値12.8を記録した。通常の都市ノイズの四倍。未採用世界線の滲出としては、かなり濃い。


 正面玄関は鎖で閉ざされていた。俺は脇の搬入口から入った。錠はとっくに死んでいて、押すと嫌な湿り気を含んだ音がした。


 内部は黴と古い布の匂いがした。

 照明は落ちている。

 ロビーには割れたポスターケース。階段の踊り場には、二十世紀末の演目案内が色褪せて貼られたままだ。

 誰かがここを保存しようとして、途中で諦めたのだろう。世界はいつも、諦められたものから先に残響になる。


 耳の奥で、局支給の同期端末が乾いた声を出した。


『榊冬真。館内に生体反応なし。繰り返す、生体反応なし』


「見りゃわかる」


『視覚依存は判断を鈍らせます』


「お前の喋り方のほうがよほど鈍らせる」


 返事はなかった。補助知性に皮肉は通じない。


 ホールの扉を押し開けた瞬間、俺は足を止めた。


 舞台だけが、光っていた。


 客席は真っ暗だった。

 古い赤いシートが、傾斜に沿って無数の墓標みたいに沈んでいる。

 だが舞台中央だけ、白に近い金色のスポットが落ちている。照明卓は死んでいるはずだ。配電も切れている。ありえない。こういうとき、ありえないという言葉は、たいてい報告書の前段でしかない。


 舞台の上に、女がいた。


 ひとりだった。


 長いコートを着ている。色は照明のせいで判然としない。黒か、濃い青か、それとも古い夜そのものみたいな色。

 髪は肩の少し下で揺れていた。

 年齢は二十代後半に見える。

 顔立ちは妙に静かで、ここが廃劇場で、俺が世界線回収局の実働員で、彼女が本来この場に存在してはならないことだけが、ひどく場違いだった。


『警告。視認対象は現行住民台帳と一致しません』


「知ってる」


『存在密度、低。位相揺らぎ、大。未採用世界線流入個体の可能性』


「それも見ればわかる」


 女はまだこちらを見ていなかった。

 客席の闇に向かって、舞台のへりに立っている。

 まるで、誰もいない観客に何かを告げる直前の役者のように。


「動くな」


 俺は位相拳銃を抜いた。

「両手を見える位置に。所属を言え」


 女は、ゆっくり振り向いた。


 その顔を見た瞬間、頭の奥で何かが軋んだ。


 記憶ではない。

 記憶の手前にある、輪郭だけの既視感。

 夢の中で何度も歩いた廊下を、現実で不意に見つけたときのような、吐き気に近い感触だった。


 女は俺の拳銃を一瞥し、それから目だけで少し笑った。


「遅かったね、冬真」


 全身の筋肉が固まった。


「……誰だ」


「ひどいな。その質問、何度目だろう」


「名前を言え」


 女は舞台袖から一歩ぶん中央へ出た。

 スポットの下で、輪郭が少しだけ揺らぐ。存在密度が低い証拠だった。こいつはこの世界の法則にうまく噛み合っていない。


「有栖零」


 彼女は言った。

「この世界では、たぶんそれでいい」


「この世界では?」


「うん」


 そこで彼女は、ほんの少し首を傾けた。

 なぜそんな何でもない仕草が胸に刺さるのか、自分でもわからなかった。


「別の世界では、あなたはもっとちゃんと私の名前を呼んでた」


 同期端末の警告音が跳ね上がった。


『高危険度。外周で位相封鎖反応。回収局機動班が接近中』


「くそ……」


 報告が早すぎる。内部監査か、それとも俺自身が最初から餌だったか。


 次の瞬間、ホールの上方でガラスが割れた。

 二階通路の暗がりに青白いラインが走る。封鎖ドローンだ。客席上空へ、薄い膜のような因果遮断フィールドが展開されていく。あれが閉じれば、このホールの中だけ現実が固定される。未採用個体の回収には都合がいい。ついでに、現場にいた実働員が巻き添えで処分されても、報告書はきれいにまとまる。


「榊実働員、武装解除を」

 天井スピーカーから女の声が落ちてきた。

「対象個体は局上層の管理案件です。これ以上の接触は規程違反にあたります」


 監査官の声だった。

 真舟ではない。もっと若い、感情の削がれた声。


 俺は舌打ちした。

「規程違反で済むなら安いな」


 有栖零は客席の闇を見上げ、それからなぜか楽しそうに言った。


「ねえ、今回も逃げる?」


「今回?」


「うん。だいたい三回に一回は、ここから一緒に逃げてくれる」


「何を言ってる」


「残りは撃つ。世界を守るために、って」


 その言葉の終わりに、ドローンが一斉に降りた。


 俺は反射で二発撃った。

 位相弾が空気を裂き、一機の外殻を捻じ曲げる。残骸が赤いシートの列へ落ち、乾いた火花を散らした。

 だが封鎖膜は止まらない。上から、左右から、現実そのものを折りたたむみたいに収束してくる。


「こっち」


 有栖零が言った。


 いつの間にか、彼女は舞台袖の階段にいた。

 ためらう暇はなかった。俺は客席通路を飛び越え、舞台へ駆け上がった。背後でシート列が潰れる音がする。封鎖膜に触れた物体は、物理より先に“配置”を失う。


「お前、出口を知ってるのか」


「知ってるよ」


「どうして」


 彼女は一度だけこちらを見た。


「だって、別の世界のあなたが教えてくれたから」


 舞台裏の暗闇へ踏み込んだ瞬間、俺の視界が白く弾けた。


 海辺の防潮堤。

 夏の夜。

 見覚えのない星座。

 隣にいるのは、たしかにこの女だ。

 俺は彼女の髪を耳にかけ、そのまま何かを言いかけて――


 次の瞬間、視界は廃劇場へ戻った。

 膝が揺れた。


「今の……何をした」


「したんじゃない」


 有栖零は立ち止まらずに言った。

「重なっただけ。あなたも、もう薄くなってる」


「意味がわからない」


「そのうち嫌でもわかる」


 背後で爆音。

 舞台袖の壁が吹き飛び、機動班が突入してきた。黒い装備に、局章のないヘルメット。あれは回収局じゃない。もっと上だ。現実固定院か、あるいはヴォルン・アーカイヴ直轄。


 有栖零は非常階段の前で振り返った。

 その表情が、ようやく少しだけ苦しそうに見えた。


「冬真。時間がない」


「何の」


「選択の」


 彼女は右手を差し出した。


「あなたはまた、世界を選ぶかもしれない。たぶん今回も、最後にはそうする。

 でもその前に一回だけ、私を選んで」


 上階から、黒い足音が降ってくる。

 封鎖膜の青い光が、階段の手すりを墓碑みたいに照らしていた。


 俺はまだ彼女の手を取っていなかった。

 なのに、その手を離した記憶だけが、なぜか胸の奥にいくつもあった。


 俺は、その手を取った。


 取った瞬間、指先に軽い静電気のようなものが走った。

 だが電気ではない。もっと古くて嫌なものだ。

 皮膚の下で、俺ではない誰かの記憶が一瞬だけこちらへ顔を出す。

 雨の高架下。

 白い病室。

 階段の踊り場で、同じ女が振り向く。

 そのどれもが数秒にも満たない断片で、にもかかわらず、どれも俺の人生に混ざっていておかしくないほど自然だった。


「走って」


 有栖零が言う。


 非常階段は半ば崩れていた。

 鉄骨が露出し、壁材は水を吸ってぶよぶよになっている。古い劇場というより、すでに一度死んだ建物の内臓だ。

 だが彼女は迷わなかった。踊り場を一段飛ばしで降り、三階ぶんほど下ったところで、封鎖された防火扉の前に滑り込む。


「そこは行き止まりだ」


「この世界ではね」


 彼女は扉に手を当てた。


 何かの認証をしているようには見えなかった。

 ただ、祈るみたいに掌を置いた。それだけだ。

 次の瞬間、錆びついた扉の輪郭がわずかに揺れた。輪郭線が水面みたいに歪み、塗装の剥げた灰色の下から、べつの素材が覗く。

 そこには、本来ありえないほど新しい合金の光沢があった。


「おい」


「これ、あなたの仕事だった」


「何だって?」


「別の世界でね」


 扉が音もなく開いた。


 その先は、劇場の構造図には存在しない通路だった。


 白い。

 というより、白く見えるだけの色がそこにあった。壁も床も天井も、病院みたいに清潔な白ではなく、まだ誰の意味も貼り付いていない空間の色だ。

 奥へ向かって緩やかに下っている。

 冷たい空気が流れてきた。地下からではない。何か、位相の薄いところから吹いてくる温度だった。


 背後で機動班の怒号が上がる。

 俺は考えるのをやめて中へ飛び込んだ。

 有栖零が続き、扉は自然に閉じる。閉じる直前、外の青白い封鎖光が一筋だけ床を舐め、それから何もかも見えなくなった。


 静かだった。


 いや、静かすぎた。

 自分たちの足音だけが、妙に遅れて聞こえる。

 俺は拳銃を構えたまま、有栖零の横顔を見る。


「説明しろ」


「無理」


「一番大きいところだけでいい」


「それでも無理」


「お前、局の上層案件なんだろ」


「上層なんて生ぬるい。私は最初から、ここにいてはいけない側」


「未採用世界線の流入個体」


「それも半分だけ正しい」


「半分?」


「私は“流入”したんじゃない。戻ってきたの」


 俺は歩きながら眉をひそめた。

「どこから」


「あなたが捨てた場所から」


 またそれだ。


 怒鳴り返すべきだった。

 現場でこういう種類の言葉に付き合うと死ぬ。残響界の個体はしばしば、こちらの記憶や罪悪感に噛みつくような言い方をする。人格位相が不安定なぶん、言葉だけが妙に的確なときがある。

 だが俺は、自分でも驚くほど静かに訊いていた。


「……俺は、お前を知ってるのか」


「知ってる世界がある」


「俺の世界じゃない」


「その言い方、好きじゃないな」


 彼女は前を向いたまま言う。

「“俺の世界”って、そんなにきれいに一つじゃないよ。あなたの中には、もうだいぶ混ざってる」


 通路の傾斜が強くなる。

 白い壁の表面に、時折ノイズみたいな影が走った。人影にも見える。車窓にも見える。海面の反射にも見える。ひとつのイメージとして定着しきらない、別分岐の断片。

 俺は無意識に、左のこめかみへ触れていた。

 最近、頭痛が増えていた。局の定期検査では「潜行由来の軽度位相疲労」と片付けられていたが、それだけでは説明できない感覚があった。

 たとえば、知らない駅名を懐かしいと思うこと。

 存在しない料理の味を知っていること。

 一度も会ったことのない人間の死を、喪失として受け取ってしまうこと。


「お前、何者だ」


 有栖零は少しだけ考えるように黙った。


「恋人、って答えたら」


「撃つ」


「じゃあ半分だけ本当の答えを言う」


 彼女は立ち止まり、こちらを振り向いた。


「私は、未採用世界線であなたが愛した人間の、残響」


 その言葉は、通路の白さより冷たかった。


 俺は拳銃を向けたまま動けなくなる。


「残響個体は知ってる。だが普通は人格が崩れてる。長期記憶も連続性も保てない」


「普通はね」


「お前は保ってる」


「保ってるというより、集まっちゃった。何本もの世界から」


「そんなことは――」


「あるんだよ」


 珍しく、彼女の声が少しだけ強くなった。


「あなたたちは、未採用の世界を“半存在”って呼ぶ。消えてないけど、本採用にはなれなかった世界。都市も、人間も、愛も、戦争も、ぜんぶノイズになって沈む場所。

 でもね、沈んだものは、ときどき寄るの。

 似た痛みどうしが。

 似た選択どうしが。

 似た未練どうしが。

 そうして寄り集まると、形になる」


 彼女はそこで少し笑った。

 笑っているのに、なぜか泣き顔みたいだった。


「私はたぶん、その“寄り”の結果」


 そのとき、通路全体が低く唸った。


 壁の向こうで何か巨大なものが擦れる音。

 つづいて、白い表面に黒い筋が走る。染みのように広がり、その一部が文字列に見えた。

 住所。

 日時。

 人物名。

 どれも数秒ごとに別の表記へ変わる。


『榊実働員』


 同期端末が、今度はひどく近い声で囁いた。


『この空間は公認潜行路ではありません。即時離脱を推奨。人格境界に干渉が発生しています』


「知ってる」


『あなたの短期記憶バッファに異常重複。自他境界認識、低下傾向』


「切れ」


『それはできません。私は――』


 音声が途切れ、ノイズに変わった。

 そのノイズの中に、一瞬だけ別の声が混じる。


『冬真、聞こえる? 次の角で右』


 女の声だった。

 端末越しではなく、もっと古い通信機器で録ったようなざらつきがある。

 そしてその声が、すぐ隣にいる有栖零のものだと理解するまで、ほんの一秒かかった。


 俺は顔を上げる。


「今のも……別の世界か」


「うん。たぶん」


「たぶん?」


「重なり方は私にも制御できない」


「便利だな」


「便利なら、もっと楽な人生にしてる」


 その言い方が妙に自然で、俺は反射的に口をつぐんだ。

 楽な人生、という言葉に、どこか具体的な手触りがあったからだ。

 俺はこの女と、そういう冗談を言い合う関係だったことがあるのか。

 いや、ある世界があったのか。


 右折した先で、通路は突然終わっていた。


 というより、世界のほうがそこから先を諦めていた。


 白い床が、五メートルほど先で切れている。

 その向こうには何もない。

 闇ですらない。

 情報の手前みたいな、言葉を持たない空白が広がっていた。

 そこへ、細い橋が一本だけ伸びている。透明な素材でできているように見えるが、視線を置く角度によって消える。まともな橋ではない。


「渡るのか」


「渡るしかない」


「落ちたら?」


「世界による」


 冗談だとしても質が悪い。

 だが背後からは、もう追手の気配が来ていた。白い通路の奥で、金属の接触音が反響している。あいつらは正規潜行装備を持っている。ここにまで入ってこれるのなら、上層の命令で動いているのは間違いない。


「先に行け」


 俺は橋の手前で身をかがめ、拳銃を構える。

 有栖零が何か言いかけたが、俺は視線だけで黙らせた。

 数秒後、追手が見えた。


 三人。

 黒い装備に、顔面全体を覆う位相マスク。肩章なし。だが動きが軍警系ではない。もっと静かで、もっと“消しに来る”類の訓練を受けている。

 先頭の一人が、俺を見るなり短く言う。


「榊冬真。拘束権限の移譲を確認。対象個体から離れろ」


「書面でくれ」


「冗談を言っている場面ではない」


「こっちも仕事なんでね」


 男は溜息もつかず、手を上げた。

 次の瞬間、三人同時に発砲。


 俺は横へ転がる。

 位相弾は壁を抉らなかった。白い表面に触れた瞬間、着弾点の“確率”だけを削るように、まるく暗い穴を開ける。触れたら終わりだ。

 転がりながら二発返す。

 一発は先頭の膝を逸れ、もう一発は後列のマスクを掠めた。

 だが普通の戦闘員じゃない。被弾のショックをすぐ殺して距離を詰めてくる。


「榊」


 有栖零が橋の手前で叫ぶ。

「その人たち、撃っても――」


「わかってる!」


 撃っても止まらない。

 いや、もっと正確に言えば、ここでは“止まる”という結果が固定しにくい。

 残響界に近い領域では、現実の因果が薄くなる。弾が当たったから倒れる、という単純な連鎖が揺らぐ。だからこそ、局はこういう場所での実働に俺を使った。俺は“結果の固定”が少しだけうまい。


 俺は左手で腰の補助装置を引き抜いた。

 同期釘。

 細い銀色の杭を床へ撃ち込むと、周囲五メートルだけ位相が局所的に固定される。使いすぎると自分の人格まで貼りつくが、背に腹は代えられない。


「伏せろ!」


 杭を打ち込む。

 白い床に音もなく突き刺さり、次の瞬間、空間全体がびり、と震えた。


 追手の一人が、そこでほんのわずかにバランスを崩す。

 その“ほんのわずか”があれば十分だった。

 俺は胸部へ一発。

 今度は効いた。男の身体が後方へ弾かれ、床に膝をつく。

 残り二人が左右へ散る。うち一人が橋のほうへ回り込もうとしたのを見て、俺は有栖零へ怒鳴る。


「先に渡れ!」


「でも」


「早く!」


 彼女は一瞬だけ躊躇い、それから橋へ足を踏み出した。

 透明な板は軋みもしない。存在しているのかすら怪しいくせに、彼女の体重だけは確かに支えている。


 俺は後退しながら撃つ。

 弾数は残り五。

 同期釘の固定はもう長くもたない。

 先頭の男が胸を押さえたまま、平坦な声で言った。


「榊実働員。対象個体との接触継続は、現実安定法第八条に基づき、あなた自身の存在資格を損なう」


「ありがたい脅し文句だな」


「脅しではない。あなたの位相はすでに複数世界で重複している。これ以上の干渉で、“榊冬真”という個体の一意性は崩壊する」


 その一言だけで、妙に心臓が強く打った。


 こいつらは知っている。

 俺の検査データを。

 あるいは、もっと前から俺を観測していたのかもしれない。


「なぜ俺だ」


 男は答えない。

 代わりに、もう一人が低く言った。


「エリアス・ヴォルンの原設計に、あなたの系統が適合するからだ」


 ヴォルン。

 その名前が出た瞬間、頭の奥で何かが跳ねた。


 白い実験室。

 ガラス越しに誰かがこちらを見ている。

 俺は子どもだ。

 いや、違う。

 若い研究員だ。

 いや、そのどちらでもない。

 複数の映像が同じフレームへ押し込まれ、こめかみの内側で破裂する。


「っ……!」


 視界がぶれた。


「榊!」


 橋の向こうから有栖零の声。

 その声だけが、なぜか一本の線になって俺をつなぎとめる。


 俺は奥歯を噛み、最後の同期釘を抜いた。

 これを使えば、自分もただでは済まない。

 だが使わなければここで終わる。


「悪いな」


 俺は床ではなく、自分の左前腕へ釘を打ち込んだ。


 焼けるような痛み。

 いや、焼けるのではない。

 俺という個体を、この瞬間のこの現実へ無理やり縫い止める痛みだった。


 世界が、急にひとつになる。


 音が澄んだ。

 追手の位置。

 橋までの距離。

 有栖零の呼吸。

 自分の血の匂い。

 全部が一本の現実として収束する。


 俺は二発撃った。

 一人の肩。

 もう一人のマスク中央。

 今度は両方とも確実に入った。


 その反動で膝が折れそうになる。

 俺は橋へ飛んだ。


 透明な板の上へ足を乗せた途端、背後の空間が崩れる音がした。通路そのものが解体されていく。追手が何か叫んだが、もう言葉として聞き取れない。白い壁も、床も、黒い装備も、一枚の紙を燃やしたあとの灰みたいにめくれ上がり、無音で空白へ落ちていく。


 有栖零がこちらへ駆け戻り、俺の右腕を掴んだ。

 引かれるまま、俺は橋を渡り切る。


 向こう側には、古い地下鉄のホームがあった。


 照明の半分は死んでいる。

 壁面の駅名表示は剥がれ、路線図は途中で終わっていた。

 だがホームドアだけは新しい。何十年も前に整備されたはずの設備が、誰も利用しない空間でひどく無傷なまま残っている。

 線路の代わりに、底の見えない暗渠が口を開けていた。


 俺は膝をついた。

 左前腕から釘を引き抜く。血は少ない。血よりも、もっと別の何かが抜けていく感じがした。

 有栖零がしゃがみ込み、俺の腕を見た。


「馬鹿」


「便利だな、お前もその言い方」


「そんな固定の仕方したら、自分の他の可能性が死ぬ」


「今日だけで何回世界を失ってるか、もう数えてない」


 有栖零は俺の腕に触れ、手のひらを当てる。

 温かかった。残響個体なのに、体温だけはひどく現実的だ。

 その温度で、俺はかえって腹が立った。


「説明しろ」


 彼女は顔を上げる。


「どこまで聞きたいの」


「全部」


「無理」


「じゃあ俺がここでお前を拘束して、局へ戻す」


「戻れないよ。もう」


「何だって?」


 彼女は、剥がれた駅名表示の向こうを見た。

 そこには読めない文字の跡だけがある。

 別の地名が何度も上書きされ、最後に全部消されたみたいな壁だった。


「劇場に入った時点で、あなたは観測された。

 未採用世界線との深度干渉あり。

 高位相重複あり。

 存在資格、再審査対象。

 たぶん今ごろ局では、榊冬真を“現実安定上のリスク個体”に格上げしてる」


「上等だ」


「よくない」


 彼女はきっぱりと言った。


「あなたはまだ、自分がどういう位置にいるかわかってない」


「じゃあ教えろ」


「あなたはね、冬真」


 有栖零は、少しだけ息を吸った。


「この世界を守るために何度も別の世界の私を殺してきた人間で、

 同時に、

 そのたびにその選択を後悔して、別の世界で私を救おうとしてきた人間でもある」


 ホームの空気が、そこで静止した気がした。


「……妄言だ」


「そう思いたいなら、それでいい」


「証拠は」


「あるよ」


 彼女はコートの内ポケットから、小さな端末を取り出した。

 旧式の記録媒体だった。表面には傷が多く、何度も誰かの手を渡ってきた感じがある。


「これ、あなたがくれた」


「俺が?」


「正確には、“ある世界のあなた”が」


「ふざけるな」


「ふざけてない」


 彼女は端末を起動した。

 映像は乱れていた。

 ノイズ。

 手ぶれ。

 暗い場所。

 そして、男の声。


『――もしこれを見てるなら、たぶん俺は失敗した』


 俺は息を止めた。


 その声は、俺だった。


 いまより少し低い。疲れていて、だが確実に俺の喉から出る種類の音。

 映像が安定する。

 映っているのは、見知らぬ部屋だ。壁一面に紙の地図と手書きの注釈。机上には分解された同期装置。画面の端に、女物のコートが掛かっている。

 カメラへ向かっている男――俺は、左頬に古い傷があり、今の俺より少し老けて見えた。


『有栖を見つけたら、たぶん最初は信じるな。俺も信じなかった。

 でも、もし彼女が劇場のことを言ったら、その先は聞け。

 あそこが始まりだからだ』


 映像の中の俺は、少し笑った。

 ひどく嫌な笑い方だった。諦めと愛情と、自分への軽蔑が全部混ざっている。


『それと、たぶんお前はまた選ぶ。

 世界か、彼女か。

 毎回そうだった。

 でも今回は――』


 ノイズが走る。

 音声が歪む。

 映像の奥で、誰かが叫んでいる。警報音。

 それでも、映像の中の俺は最後までカメラを見ていた。


『今回は、世界のほうが間違ってるかもしれない』


 そこで映像は切れた。


 ホームに、遠くの滴る音だけが残る。


 俺は何も言えなかった。

 言えるわけがない。

 自分の声が、自分の顔で、自分がまだ採用していない人生の続きからこちらへ届く。そんなのは記録じゃない。呪いだ。


「……偽造できる」


 ようやく出た言葉が、それだった。


「できるよ」


 有栖零はあっさり認めた。

「この時代なら、いくらでも」


「なら――」


「でも、あなたはさっき思い出しかけた」


 彼女は言う。


「海辺。

 防潮堤。

 夏の夜。

 私が、あなたの煙草を取り上げて捨てる」


 心臓が、一瞬だけ止まった。


 俺は煙草を吸わない。

 少なくともこの世界では、一度も吸ったことがない。

 なのにその情景の手触りは、映像よりはるかに生々しかった。潮風の湿気。指先のざらつき。彼女の苛立った横顔。海へ落ちる火の赤さ。

 それらは“想像できる”のではなく、思い出せる類の質感だった。


「……何なんだよ、お前は」


 声が少し掠れた。

 怒りなのか恐怖なのか、自分でもわからない。


「だから言ったでしょ」


 有栖零は、ひどく静かな顔で言った。


「あなたが選ばなかった痛みの、代表みたいなもの」


 そのとき、ホームの向こうの暗渠で、電車の来るような風が鳴った。


 ありえない。

 線路はない。

 路線自体が閉じている。

 だが風は確かに近づいてくる。

 暗闇の奥で、光の点が一つ灯る。

 点は二つになり、三つになり、やがて車両前面のような輪郭を結び始める。


 有栖零が立ち上がった。


「来た」


「何が」


「最終列車」


「冗談だろ」


「この辺の世界では、だいたいそう呼ぶ」


 暗渠から、奇妙な列車が滑り出してくる。


 車体は古い通勤電車に似ている。だが窓の配置がどこかおかしい。吊り広告の代わりに、車内上部に無数の小さなモニタが並び、それぞれ別々の風景を映していた。雪の高速道路。夕暮れの海岸。式場。病室。学校の廊下。戦場の空。

 どれも一瞬だけ見えては切り替わる。

 誰かの採用されなかった一日だ。


 ドアが開く。

 中に乗っている人影は、ない。

 あるいは、見えていないだけかもしれない。


「これに乗れば、どこへ行く」


「中枢劇場の近くまで」


「近く?」


「直行便なんてないよ。未採用の世界には」


「中枢劇場……」


 俺はその語を復唱した。

 喉が勝手に嫌がる。知っているはずのない単語なのに、身体だけが意味を知っている。


「《ノヴェル・オルガヌム》の中枢」


 有栖零は頷いた。


「あなたたちが、世界を一本に決める場所」


 列車の開いたドアの向こうで、無人の車内灯が白く揺れていた。

 どこかへ行くための乗り物というより、すでに失われた決断そのものが形式だけ残して走っているみたいだった。


 ホームの遠くで、また別の足音が響く。

 追手が来たのか、それともこの駅に棲む別種のものか。判別はつかない。


 有栖零がこちらへ手を差し出す。

 劇場で見たときと同じ手だ。

 だが今度は、その意味が少し変わっている。


 これは救助ではない。

 勧誘でもない。

 もっと嫌なものだ。

 俺がまだ採用していない人生へ、一歩だけ現実をずらすための手だった。


「冬真」


 彼女が言う。


「次で、たぶん戻れなくなる」


「戻る気があるように見えるか」


「見えない」


 彼女はわずかに笑う。


「でも、あなたはいつも最後の最後で現実的になるから」


「褒めてるのか、それ」


「ぜんぜん」


 俺は一度だけ、ホームの暗闇を振り返った。

 局へ戻れば報告書があり、規程があり、名前のついた安全がある。

 そのかわり、この女も、この映像も、この気持ちの悪い既視感も、ぜんぶ“処理対象”として封じる側へ戻ることになる。


 それで済むなら、どれほど楽だろう。


 だがもう遅い。

 劇場であの名前を呼ばれた瞬間から、俺はたぶん、自分が一つの世界だけの人間ではないことを知ってしまった。


 俺は彼女の手を、もう一度取った。


 二人で列車に乗り込む。


 ドアが閉まる直前、ホームの端に黒い影が立つのが見えた。

 細身の女。

 長いコート。

 こちらを見ている。

 顔は闇で見えない。

 だがなぜか、相手もまた俺を知っているとわかった。


 次の瞬間、列車は音もなく発車した。


 窓の外で、地下鉄ホームはすぐに消えた。

 代わりに流れ始めたのは、地層のように重なった複数の都市の断面だった。高層ビルの合間に水田があり、空港ターミナルの上を路面電車が走り、冬の海辺に大学のキャンパスが建っている。

 どれも世界として成立しきれなかった風景。

 どれも、誰かが住んでいたはずの場所。


 有栖零は向かいの座席へ腰を下ろした。

 車窓の揺れる光が、その横顔を交互に照らす。

 彼女はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。


「最初に会った世界ではね」


「まだ言うか」


「言うよ。大事だから」


 彼女は俺を見た。


「最初に会った世界では、あなたは創作なんて嫌いだって言ってた」


「意外だな。今は仕事の一部だ」


「だから嫌いだったの。

 誰かが無数の可能性から一本だけ選んで、

 “これが物語です”って差し出すのが、暴力的だって」


「間違ってない」


「でも、そのあなたが、最後には自分で選ぶ側に回った」


「……どうして」


 有栖零は、ほんの少しだけ目を伏せた。


「私を生かすと、世界が揺れるから」


 列車の揺れが、一瞬だけ大きくなる。

 モニタの一つに、さっきの廃劇場が映った。

 別のモニタには、海辺の防潮堤。

 別のモニタには、見知らぬ式場で、白い服を着た有栖零が笑っている。隣には、顔のぼやけた男。たぶん俺だ。


「だから毎回、私か世界かを選ばされる」


 彼女はそう言ってから、少し考え直すように首を振った。


「ううん。本当は違う。

 世界のほうが先に、“私を選ばせない形”をしてるの」


 俺は答えなかった。

 答えられるだけの材料がない。

 なのに、その言葉は妙に腑に落ちた。

 この文明全体が、何かを選ばせないための巨大な手続きだったのではないか。そんな考えが、最初から俺の中にあったみたいに。


 列車は暗いトンネルを抜ける。

 その先で、空が見えた。


 地下のはずなのに、窓の外には夜明け前の水平線が広がっている。海なのか雲海なのか判別できない。遠くに黒い巨大建造物が浮かんでいた。劇場に見える。

 いや、劇場というより、都市そのものを舞台へ変えてしまうための機械だ。


 有栖零がその方向を見る。


「着いたら、たぶん最初に知ることがある」


「何を」


「あなたが誰だったか」


「今さら自己啓発か」


「ちがう」


 彼女は低く言った。


「エリアス・ヴォルンが、最初に何を作ろうとしていたのか」


「世界発生器じゃないのか」


「そんな可愛いものじゃない」


 列車の照明が一瞬落ちた。

 暗闇の中で、彼女の声だけがはっきり聞こえる。


「ノヴェル・オルガヌムはね、冬真。

 最初から“物語を作る装置”じゃなかった。

 現実を、読める形へ整形する装置だったの」


 そこで列車が大きく揺れ、すべてのモニタが同時に白へ飛んだ。


 次の駅名表示が灯る。


 中枢外環七番線・第一幕舎前


 その表示を見た瞬間、なぜか俺は、これから自分が入っていくのが駅ではなく、

 誰かがずっと前に書き始め、まだ書き終えていない巨大な作品の内部なのだと理解した。


 そして理解したこと自体が、たぶんもう戻れないという意味だった。

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