1.シスター・エリシア
「ねえさま、泣いているのか」
「アシェル……」
「泣かないでくれ。俺が守る」
しなやかな筋肉質の男性が身をかがめ、泣いているエリシアの頭を撫でる。
褐色の手はしなやかだが筋肉質で、エリシアの人生には縁遠いものだった。それでも、彼女を『ねえさま』と呼ぶ長身の男性はわざわざ膝を折って、琥珀色の視線をエリシアと合わせて、彼女の髪を撫でた。
「大丈夫だ。俺がいる。必ず俺が守る」
――そんな夢を、エリシアは毎夜見ていた。
◆◆◆
エリシア・ヴァルステッド……、いや、『シスター・エリシア』は、あの日からずっと同じ夢を見ている。見知らぬ男性が、自分を『ねえさま』と呼び、泣いている自分の頭を、慰めるように撫でる夢だ。
『ねえさま』と彼女を呼ぶ存在に、心当たりがないわけではない。ないわけではないが、問題はその『ねえさま』と呼ぶ存在は、人間ではないことだった。幼い頃から飼っていた狼に触れるとき、エリシアは自身を『ねえさま』と呼称していたのだ。
「アシェル……」
(どれだけ自分はあの頃に戻りたいんだろう。夢の男性とアシェルを呼ぶなんて、なんてことなの)
エリシアが、ベッドから身を起こす。顔には、いつものように涙の跡がついていた。
あの日――、自身の故郷であるヴァルス国がアーデルハイド帝国に侵略された日から、眠りと共に流れた涙を拭うことは、日常となってしまった。
「……着換えよう」
自身を鼓舞するかのように、エリシアは次に取るべき行動を呟いた。早く起きねば、修道院長にまた嫌味を与えられ、食事を減らされてしまう。手早く淡い金髪をまとめ、シスターがまとう慎み深い修道服に着換える。
手首から足首まで露出がない真っ黒な修道服を纏い、白金に近い金髪をも頭巾で隠したいつもの姿が、自室の姿見に映った。
エリシアは、そんな自分をじっと見つめる。
「大丈夫、今日も私は生きなきゃ」
彼女は、鏡に映る自分へ言い聞かせた。
エリシアが礼拝堂へ来たとき、まだ誰もいなかった。毎日のことだが、無人であることに胸をなでおろす。
彼女の第一の仕事が、毎朝の祈りの前に礼拝堂を清めることだからだ。もしここに一人でも他のシスターが来ていたとしたら、嫌味や悪態を言われ、食事のパンが黴たものを出されることさえ覚悟しなけばならない。
エリシアは掃除用具を取り出し、黙って清掃を始めた。
エリシアは、ヴァルス国の公爵令嬢である。本来なら、このような作業をすることはない。趣味や道楽で掃除をすることはあるだろうが、掃除を仕事として言いつけられることはないのだ。だが、彼女はやらねばならない。
「……井戸に行かなきゃ」
バケツに水を汲むために、井戸へと向かうエリシア。
(まだ早朝だから、井戸には誰もいないよね。いないといいな)
毎日、バケツを水で満たすために廊下を歩く彼女は祈る。
その廊下の途中で――。
「あら、シスター・エリシア。水を汲みに行くのですか」
「院長様……。おはようございます」
修道院長――。彼女を縛る鎖の一部に出会ってしまった。
「シスター・エリシア。清掃を早く済ませてください。あなたほど掃除が遅いシスターはいませんね」
「はい……。申し訳ございません」
腰を折り、謝罪するエリシア。
エリシアの掃除が本当に遅いわけではない。院長は、ただこの少女を痛めつけたいだけだ。
「あなたには、ここアーデルハイド帝国の文化と教養を身につける毎日のレッスンが待っているのです。わたしたち教える側も、あなたの国のように、のんびりと悠長に待っていられるわけではありません」
「……っ! 故郷のことは、今は関係ありません……!」
故郷の国を馬鹿にされたと感じたエリシアは、思わず言い返してしまう。
エリシアの抵抗に、皺だらけの顔をした院長は口の端を歪ませ、これ幸いといわんばかりにせせ笑った。
「あら、あなたが去年まで生活していたお国なのでしょう? ならばその国に汚染されているはずでしょう? それとも、わたしたちが間違っているとでも? あなたが反抗的だと、ラインハルト皇子殿下はよほど失望されるでしょうね」
「……」
エリシアは、何も言わない。
院長は、自らの腰に手を当て、大げさなため息をついた。
「ラインハルト皇子殿下のあなたに対する失望は、そのままあなたの一族への失望に繋がるでしょうね? ――自分が聡いとお思いなら、この意味はわかるでしょう?」
皺だらけだが背中の歪曲はない院長が、エリシアの灰青色の瞳を真っ直ぐ見つめた。
エリシアの瞳は心中の怒りを表出するかどうか一瞬逡巡したが、すぐに冷静さを取り戻した。
「――申し訳ございません。出過ぎた真似をいたしました」
エリシアは深く腰を折り、謝罪をする。
院長はそんな様子のエリシアに満足したようで、ふん、と太い鼻から息を吹き出した。
「――せいぜい励みなさい。あなたは、あなたの一族の命綱なのですよ」
そう言い捨て、院長は自室へと戻っていった。
院長が廊下を曲がって見えなくなるまで、エリシアは自分の感情をコントロールしようと努力した。
努力したが――。
「う、ふぅ」
エリシアの目から、涙が溢れだす。だが、ここで涙にふけることはできない。まだ礼拝堂の掃除が終わっていないのだ。
「うう、う……!」
涙を流しながら、エリシアは早足で井戸へと向かった。
そんな彼女の様子を、ずっと窺っている者がいることに気付く余裕など、あるはずがなかった。
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