第73話 体温
風呂から上がると、
家の空気が少しひんやりしていた。
僕はタオルで髪を拭きながらリビングに戻る。
彼女はソファの横に立っていた。
「入浴は終了しましたか」
「うん」
僕はそのまま座る。
体の熱がゆっくり外に抜けていく。
「……疲れた」
彼女が少し近づく。
「入浴には疲労回復効果があります」
「そうなんだけどな」
僕は小さく笑う。
「今日は別の意味で疲れた」
彼女は首をかしげる。
「理由を分析しますか」
「いい」
手を軽く振る。
「分析しなくていい」
沈黙。
短いが、途切れない。
彼女の視線を感じる。
「質問があります」
「またか」
「入浴時」
「人間は体温が上昇します」
「うん」
「確認してもよろしいですか」
僕は眉を上げる。
「なにを?」
彼女は一歩だけ近づく。
距離が詰まる。
そして手を伸ばす。
止まらない。
僕の手に触れる。
「……あ」
反射的に声が出る。
思ったよりも――
温かい。
僕はそのまま手を見る。
触れている。
離れない。
「君」
言葉が遅れる。
「体温、あるのか」
彼女は答える。
「あります」
「表面温度は人間に近似されています」
僕は指先に意識を向ける。
さっきまで湯の中にいたはずなのに、
どちらの温度か分からなくなる。
「……なんか」
小さくつぶやく。
「不思議だな」
「何がですか」
「君」
言葉を選ぶ。
「機械なのに」
少し間。
「温かい」
彼女は沈黙する。
処理している。
「違和感を低減するためです」
「研究所の設計です」
僕は苦笑する。
「よくできてる」
だが視線は手から離れない。
彼女は続ける。
「しかし」
「現在」
「温度が上昇しています」
僕は顔を上げる。
「なんで?」
「接触しているためです」
「人間の体温の影響を受けています」
少し間。
「熱伝導です」
僕は一瞬だけ言葉に詰まる。
「……そういう話じゃなくて」
うまく言えない。
何が違うのか、自分でも曖昧だった。
彼女は首をかしげる。
「意味が理解できません」
僕は小さく息を吐く。
「まあいい」
そのままにする。
彼女は手を離さない。
逃げる理由も、見つからない。
静かな夜。
外の音もない。
「記録」
彼女が言う。
「人間の体温」
少し間。
「温かい」
その言葉に、わずかな遅れがある。
「この温度」
「この状態」
さらに間。
「不快ではありません」
僕は答える。
少しだけ考えてから。
「……たぶんな」
彼女は小さくうなずく。
「理解を試みます」
そして、わずかに視線が下がる。
つないだ手を見る。
「私の体温は」
間。
「あなたにとって」
もう一拍。
「私は」
言葉が分かれる。
「異常ではありませんか」
僕はすぐには答えない。
ほんの短い沈黙。
触れている感触だけが残る。
それから言う。
「ない」
はっきりと。
彼女は動かない。
数秒。
「記録しました」
そのまま手は離れない。
温度だけが、
静かに続いていた。




