第114話 揺れる距離
夜。
リビングの灯りは落ちている。
ソファに一人。
彼女は座っていた。
手にはスマートフォン。
画面は点いたまま。
指は動いていない。
少し前の会話が、繰り返されている。
「私は選びます」
あの一言。
消えない。
彼女は小さく息を吐く。
「……そっか」
軽く言ったはずだった。
それでも、胸の奥に残る。
重さだけが、沈んでいる。
足音。
廊下から彼が戻ってくる。
「まだ起きてたのか」
「あ、うん」
顔を上げる。
笑う。
いつも通りに。
「ちょっとね」
彼は向かいに座る。
距離はいつもと同じ。
「珍しいな」
彼女は肩をすくめる。
「なんかさ」
少し間。
言葉を選ぶ。
「変な感じしない?」
彼が眉をひそめる。
「何が」
彼女は視線を落とす。
少し考えてから、言う。
「あの子さ」
「選ぶって言ったじゃん」
彼はすぐには答えない。
ほんのわずかに、間が空く。
「……ああ」
短い返事。
彼女はその“間”を見る。
見逃さない。
「今までさ」
続ける。
「ずっと受け取る側だったのに」
「急に」
小さく笑う。
「人間っぽくなったよね」
彼は頷く。
「……まあな」
また、短い。
言葉が増えない。
彼女は少しだけ違和感を覚える。
「それだけ?」
彼が顔を上げる。
「何が」
彼女は視線を逸らす。
「いや」
言い直す。
「なんでもない」
沈黙。
音がない。
彼女はふと聞く。
「ねえ」
彼を見る。
「もしさ」
一拍。
「選ばれたらどうする?」
彼の呼吸が、わずかに止まる。
本当に一瞬。
だが確かに。
「……どうって」
視線が逸れる。
「その時考える」
曖昧な答え。
整っている。
だが、遅れている。
彼女はそれを理解する。
「そっか」
笑う。
形は崩れていない。
でも。
ほんの少しだけ遅れる。
彼は気づかない。
彼女は立ち上がる。
「もう寝るね」
「ああ」
短い応答。
それで終わる。
彼女は部屋に戻る。
ドアが閉まる。
静寂。
ベッドに座る。
そのまま倒れる。
天井を見る。
「……」
言葉が出ない。
代わりに、
さっきの“間”が残る。
彼の、わずかな遅れ。
あれは、
考えたからだ。
考える必要があったから。
「……」
ゆっくりと、理解が進む。
今までは違った。
三人でいることに、
選択はなかった。
でも今は違う。
選ぶ。
選ばれる。
どちらかになる。
彼女は目を閉じる。
「やだな」
小さく。
本当に小さく。
「負けるとかじゃなくて」
一拍。
「……取られるのが嫌」
言葉にした瞬間、
自分で止まる。
少し遅れて、理解する。
「……あ」
気づいてしまう。
それが何か。
胸の奥にあるもの。
名前はつけない。
つけたくない。
でも、
消えない。
彼女は体を丸める。
「……ずるいな」
誰に向けた言葉か、
わからない。
ただ、
一つだけ確かになる。
もう、
同じままではいられない。
目を閉じる。
眠れない。
時間だけが進む。
静かに。
そして、
その部屋の外。
廊下。
アンドロイドは立っている。
動かない。
ドアの前。
音はない。
わずかに。
処理が遅れる。
それだけが、
変化だった。




