ホームズの華⑤
恒河沙学園は全校生徒600人からなる高校である。少子化が騒がれる昨今に、600人もの学生がいるとなると、本当に少子化しいるのか疑いたくなるものの、テレビのニュースでは、年寄りによる車の暴走事故が流れているし、町内に流れる迷子のお知らせは今や子供のものではなく、お年寄りのものになっていた。
学校という場所に限って言えば、確かに子供は多くいる。しかし、日本という場所に限って言えば、子供の数は確実に減っていた。
「少子化の社会において、子とは間違いなく宝だ。例え目が見えずとも、宝の輝きは変わらない。いや、変わっちゃあならない。そうは思わないかな?一条千大君」
「はあ」
唐突な問に千大は曖昧に頷いた。
教室に入った途端、目が見えずとも圧迫を感じるほど、近付かれたのだから、真っ当に言葉を返せるはずなどなかった。
パーソナルスペースどうなってるんだ?
犬のホームズですら、距離感を弁えているのに。
てか、誰だよお前。
声の感じから男という事は分かるもののそれ以外は分からない。なぜならクラスの自己紹介は今日行われるからだ。
クラスメイトの事を千大は数人だけ知っているものの、声と名前が一致するのは一だけだった。
「はあ、じゃないよ。はあじゃ。僕達は宝なのだよ。だからこそ常々こう思う。僕達は大切に扱われて然るべきだけど、大切にされる為に輝く義務もあるのだとね」
「はあ」
なぜ僕は教室に入った途端、知らない男から宝についての演説を受けているのだろう?
なんだか距離が近いし、教室中から集まる視線も痛い。
盲目で犬を連れているというだけでも、目立つというのに、登校初日(厳密には二日目だけど)で、腫れ物確定にでもする気だろうか?
とても嫌が過ぎる。
「はあじゃないよ。みなも思うだろ?僕達は輝くべきだって。ウィーアー・スターライト。僕達はみな、何かの誰かのアイドルになるべきなんだよ!なぁ、そうだらう?」
「…」
男子生徒の問い掛けに返ってきたのは沈黙だった。
新たに学園生活が始まり、誰と仲良くなるべきか?できれば変な奴は避けたいなとみなが考え、様子見に徹している中、僕はみなが避けたい変なヤツでございますと、猛烈なアピールしているのだから、沈黙はまさに正しい回答だった。
沈黙は金、雄弁は銀と昔の偉い人も言っている。
新学期最初に狙うべきは当然金脈で、地雷ではなかった。
「一条君もそう思うだらう?」
「近い」
見えてないけど、目の前に顔がある事は、掛かる息から分かった。気持ち悪い。目が見えない事を理由に、匂いが分かる位、女子に近付く事が千大はままあるのだが、男に近付かれて千大は初めて、自分の行動を少しばかり反省した。
「なるほど。僕が806で一条君が1001であるように、思想は近いけど決して同じではないという事だね。うんうん。分かるよ。完璧に理解した」
「勝手に分からないでくれ」
周囲からの視線が痛い。
大体、806はどこからきた数字なんだ?
「おっと失礼。僕の名前は六車八百八百と書いてやひとと読む。珍しい名前だらう?」
「はあ」
確かに珍しい名前だと千大は思う。
しかしそれよりも珍しいのは、お前の性格だとも千大は思った。
こんなヤツと仲良くしたら絶対に浮く。果てしなく浮く。浮きすぎてみんなから認知されない存在になってしまう。雲の上の存在(悪い意味)になってしまう。
目の見えない千大はただでさえ扱い辛いというのに、こんな変人に仲間認定されたとなれば、誰もが関わらないという選択を取るのは自然の摂理だった。
「つれない溜め息だね。しかし分かるよ。分かっているとも。昨日今日出会ったばかりの人に分かってるなんて言われたら腹立つものね。うんうん。ちゃんと分かってるよ。僕は他人の気持ちを汲み取る事も出来るんだ」
「汲み取ったその桶、クソデカい穴が空いてるぞ」
桶として機能していない位には。
「僕の他人を慮る心は、バケツのように深くて大きいから大丈夫」
「なるほど」
そのバケツにも深くて大きい穴が空いているだろうに、何が大丈夫なのだろうか。
千大にはまったくもって分からなかったものの、これ以上相手にしないよう、曖昧に頷いておく事にした。
こんな所で漫才を始めてしまっては、それこそ取り返しが付かなくなってしまう。
「あっ、ワンちゃんがいる」
「ホントだぁ」
「やっばり可愛いねー☆」
「ホームズ。ちょちょちょちょ」
浮かないよう、千大が細心の注意を払い身構えていると、千大よりも後に登校してきた生徒がホームズに近付いてきた。
ホームズの名を呼んだ事からも分かる通り、近付いてきた内の二人は、昨日千大とホームズを取り囲んだ人物だった。
「毛並みふわふわ」
「これは、いいトリートメントを使ってる」
「ホームズは盲導犬なんだから、あんまし構い過ぎちゃ駄目だぞ☆」
「えっ、盲導犬なの?」
「チワワなのに?」
「うん」
質問を投げ掛けられた気がした千大は、頷いた。
昨日は余計な事を口走って避けられてしまった為、今日は何も言わない。
千大は学習能力の高い男だった。
「そっ。だから普通のチワワと違って、嫌な事も我慢するよう訓練されてる。だからあんまり構うと、ストレスでウチの担任みたいに禿げ散らかしちゃう。ただでさえホームズにとって私達は知らない不審者なんだから」
「ほえ〜」
「日向詳しいね」
「昨日学んだのだぜ☆」
日向はピースサインをした。
日向の声も千大は知っていた。
ごめんなさいと千大に謝った人物だ。昨日はバニラの香りで今日がオレンジの香りなのは、日によって香水を使い分けているからかもしれない。
千大は犬のように鼻と耳が良かった。
「流石は日向ちゃんだぜ☆」
「これから同じクラスになるんだから、知っとかないと。そういえば昨日はごめんね。なんか嫌な感じで去っていっちゃって。反省してます」
「それは、全然大丈夫」
一にも自己紹介の仕方が悪かったと言われたし、千大自身もそう思っていた。
寧ろ、知らない内はきちんと距離を取り、知った上でしっかりと近付いてきてくれた事には、感謝の念すらあった。
「なんであれ改めてよろしく☆困った事があったら遠慮なく頼ってね。ホームズもよろしくね。私はあなたとあなたの主人の味方だから」
日向はそう言ってホームズの頭を撫でた。
「日向ちゃんも触ってるじゃん」
「触らないとは言ってないのだぜ☆」
ホームズを容赦なく撫でる日向の様子を伺いながら、犬は柑橘系の匂いが苦手だという事をどう伝えるべきだろうかと、千大は考えていた。
「匂いで人を判別している事は伝えちゃ駄目よ。特に女子にはタブーだから」これは千代からの助言であり、姉の那由も「純粋にキモいもの」と千代の助言に深く同意した。
タブーに触れずに、伝える…。
そんな事可能なのか?
千大は灰色の脳細胞をフル回転させて考えたものの、妙案は何一つとして浮かんでは来なかった。
すまないホームズ。暫く我慢してくれ。
千大は心の中でホームズに謝罪した。
匂いで人物を嗅ぎ分けている男なんていうのは、字面だけで気持ち悪い。
例え、率先して嗅いでいなかったとしても、匂いで識別しているのは逃れようのない事実であり、自ら暴露する事ではない。
沈黙とはやはり金なのである。