間章 暗闇に鬼を繋ぐ 後編
※災害の描写があります。閲覧にはご注意ください。
大隈は全身から、嫌な汗がにじみ出すのを感じた。
巫女装束の少女は、目鼻を縫い合わされた異貌の男に怯える様子もなく、その隣に立ちーー
「土地神? 妖怪じゃなくて、神なの?」
ごく自然に話しかけた。
「……嬢ちゃん。そちらの御方は」
慎重にそう尋ねるのが、大隈にはやっとだった。
「彼は道人。私の夫よ」
「夫……ですって? なんの冗談ですか、それは」
玲が姿を消してから、何があったのか。
目の前の男は一体「何」なのか、大隈は少女に問い詰めたかった。
しかし混乱を遥かに上回る恐怖で、思考回路が凍て付いてゆく。
目の前の「何か」に関わるなと、獣の本能が告げていた。
あの龍宮童子と同等か、それ以上に危険な存在だと――
「失礼ね、大隈。冗談じゃないけど。この人と結婚してから、今年でちょうど四年目になるの」
「その御方は、明らかに〝人〟じゃないでしょう」
苦し紛れに反論した大隈に、少女は唇の両端を吊り上げ嗤う。
「そうでもないわ。ねえ、道人?」
「そうだね」
男は縫い合わされた目をすがめ、玲に微笑みかける。
すると押し黙っていた土地神が、ぽつりと口を開いた。
「あなたは、まさか厄神様……」
「厄神か。懐かしいな、そう呼ばれていた時もあった」
厄災の神は、昔を懐かしむように目を伏せた。
とん、と社の段差を降り、厄神は大隈たちに向かって歩き出す。
「ところで、お前たちにひとつ聞きたいことがあるんだ」
そう顔を上げた瞬間、縫合された瞼の下で、両の瞳が炎のような鮮やかな橙色に染まり、闇の中で爛々と光る。
「僕の社の中に不快な気配が残ってる。それもごく、最近のものだ。不快な……忌々しい臭いだ。何度八つ裂きにしてその肉塊をあいつが守ろうとしている人間に喰わせてやっても、まだ足りないくらいにはね」
声ががらりと低く濁った。
どろりと甘い響きから一転、低く地を這うような、底知れぬ憎悪を露わにした声に、大隈の背筋が凍り付く。
厄神は社を離れ、ゆったりとした足取りで鳥居へと歩み寄ってくる。
「昔、僕の餌場を荒らした男の気配だ。図々しく婚礼の場を土足で踏み荒らし、僕を封じ込めた挙げ句、花嫁を横から攫っていった。あの忌々しい龍宮童子……」
針のような殺気に、大隈は全身から冷や汗が吹き出すのを感じた。
「おや、顔色が変わったね?」
気圧されたように、蘇芳が小さく身じろぐ。
「あの男が今どこにいるか知っているようだ。正直に答えれば命だけは助けてあげるよ。悪くない取引だろう?」
二択を迫られ、大隈は迷った。
目の前の「厄神」から逃げ切れる自信があるかと問われれば、そんな物は皆無に等しい。
だが自分の命惜しさに、真生の命を助けた男を売るのも抵抗がある。
「存じ上げておりません」
硬い声で口火を切ったのは、蘇芳だった。
「……面白いね。お前は、よほど命が惜しくないと見える」
けたたましい哄笑が、闇を裂くように響き渡る。厄神の影が周囲を黒く塗りつぶすように膨らんでゆく。影とも闇とも区別のつかない何かに覆われた瞬間、まるで時間を早送りしたように木々が枯れ果て、花実は変色して腐り落ちた。
蘇芳は意を決したように、鉾の穂先を覆う布をほどく。
「申しわけありませんが恩人を売るつもりも、私が守護する地の者たちを害するおつもりの方に諂うつもりもありません」
「……よく回る口だ。顎から下を落としても、その虚勢が続くか確かめてみようか」
厄神が腕を振り上げた。
爪先からじわじわと、男の白い手が黒く変色してゆく。
やめろ、と大隈は声をあげそうになった。
そいつは土地神や自分ごときに、何とか出来る相手ではない――
「あなた様が厄災を司る神であるように、私も土地を守護する神です。あまり舐めないでいただきたい」
慇懃だがはっきりと啖呵を切った土地神に、厄神は顔を歪めて昏く嗤う。
「残念。交渉決裂だね」
宣告と同時に、厄神の影が無数に枝分かれしてゆく。
それは地面から浮き上がると、人間の腕の形へと変化し二人に迫る。
厄神の背後で、少女はそれを止める様子も無く、大隈と蘇芳を冷たい目で傍観していた。
玲に気を取られ、反応が遅れた大隈が仰け反る横で、蘇芳はいち早く動く。
鉾を下段に構え、鳥居の柱の間に一本線を引くように薙ぐ。
闇の色をした無数の腕は鳥居を目前に、まるで見えない壁に阻まれるように止まった。
「これは……結界!?」
「よし、逃げよう大隈!」
土地神は大隈の腕を掴み、厄神に素早く背を向けた。
為すがままに引きずられ、大隈は我に返る。とっさに土地神の腕を逆に掴み返して足を払い、その体を空中へ放り投げった。
「わっ⁉」
色鮮やかな和服に包まれた体が、軽々と宙を舞った。大隈は全身を震わせ獣の姿に戻ると、角度とタイミングを見計らい、蘇芳めがけて跳び上がる。
ぼすん、と鈍い音を立て、土地神の体は巨大な茶褐色の獣にまたがる形となった。
「の、乗せてくれるのかい? いいの?」
「黙って掴まってくだせェ、一気に駆け下りますよ!」
蘇芳があわてて体勢を整え、太い首元に腕を回してしがみつく。
茶褐色の獣は背後を振り返らず、土地神を背に乗せたまま、荒れた山道を一気に駆け下りた。
大隈は六道坂村から少し離れた、ひと気のない裏道に着地した。土地神は息も絶え絶えに礼を言って背から降りる。
「……アンタ、いつの間に結界なんか張ってたんですか」
人間に化け直す気力もなく、獣のまま人語を話す。
蘇芳は大隈の腹に手をつき、ぜいぜいとくぐもった荒い呼吸交じりに返事をした。
「君が来る、ちょっと前に……社の周りに、ぐるっと」
「最初からそのつもりで来たんですね、旦那」
「まあね。でも私の結界では、長くもたないだろう。この山は厄神様の領域なのだから」
そう六道坂村の方面を見上げる蘇芳の声には、不安の色が滲んでいる。
「そんなことより、さっきの少女は君の知っている子なのかい?」
相手の話を打ち切るように、大隈は大きく体を震わせ人間に変化した。
「あの厄神から助けてもらった事は礼を言います。でも今の事は、坊ちゃんや頭領には黙っててくだせェ」
「先ほどの〝れい〟という少女は、君が知っている子なんだね。真生や伊玖に似ているように見えたけど、まさか」
「ああその通りだよ、あの娘は頭領の孫……坊ちゃんの姉なんですよ。だから黙っててくれって言ってるんだ!」
とっさに声を荒げたことを後悔したが、大隈は発言を撤回しなかった。
男の剣幕に押されたように、蘇芳が押し黙る。
「……あの子らの母親は救いようのない屑でしてね。目先の金欲しさに四年前、まともな呪術師なら絶対やらない仕事を請け、よりによって娘に手伝わせたんです」
「四年前って、まさか」
「そのまさかですよ。当事者の子孫達が恐れ、投げ出した供犠の代行――厄神に花嫁を捧げる儀式を、代わりに行うもんだった」
猿面の下から、小さく息を呑む音が鳴る。
「結果はもう、お分かりですよね。現場は厄神が降り立ち、土地は壊滅したんでさァ。山は抉れ、川は決壊し、多くの近隣住民が死んだ。あの子の消息も、それ以降ぷっつり途絶えちまった。供犠は半分成功し、半分失敗したんでしょう。大きな厄災は起きたが、七殺は途中で止まったそうですから」
「それじゃあ彼女は……花嫁の身代わりに」
面の下で、声がかすかに震えていた。顔を隠しているのに、いちいちわかりやすい反応をする神だと、八つ当たりだと分かっていても大隈は苛立ちが抑えられない。
「……坊ちゃんはこの案件を受け継いだんです。母親の尻拭いをするために」
それは伊玖が下した、真生の身柄を引き取るための苦渋の決断だった。
祖母として孫を案じていても、破門した娘の不祥事を無かったことには出来ない。周囲に示しがつかないからだ。真生は十二歳という幼さで家族を失い、親の罪を肩代わりさせられる形で今に至る。
「正直、母親もろとも死んでた方がマシでした。よりによって、あんな化け物と組むなんて……これがどういうことか分かりますか、土地神の旦那」
「……」
「厄神だけじゃない。嬢ちゃんも粛清の対象になるということです」
喋り疲れて、大隈はなげやりに空を見上げた。
廃れた山村に外灯などなく、皮肉なまでに雲がはけた空は満点の星がはっきりと見える。
「アタシらは厄神から手ぇ引きます。ただ世話になった分、手引きや根回しはアタシが引き受けますし、情報も提供します。だから、七殺を停めたいならアンタらで……あの龍宮童子に厄神を斃させてくだせえ」
ここらが引き時だと、大隈は瞑目する。
逃げることは恥ではない。それが彼の信条だ。
むしろ時と場合によっては、生存戦略の最適解だと思っている。真生の姉のことを抜いて考えても、あの厄神は自分たちが敵う相手ではない。
だったら自分たちより遥かに強大な力を持つ者が斃せばいい。
しかし蘇芳から返ってきたのは、思いもよらない返答だった。
「無理なんだ」
「なんですって?」
「たとえ童子様でも、あの神はおそらく斃せないんだ。だからこそ昼間、童子様は戦いの決着を着けることなく社から撤退することをお選びになった。何故なら、あの神は……」
そこまで言いかけ、蘇芳は唐突に黙り込む。
「旦那?」
ピシ、と硬い物にヒビが入るような音がかすかに鳴る。
次の瞬間、猿の面に無数の亀裂が稲妻のように走った。
軋むような嫌な音を立て、亀裂が縦横無尽に伸びる……面が真っ二つに割れ、地面に転がり落ちる。
その下から現れた白い顔に、大隈は一瞬、呼吸も忘れて目を奪われる。
死人のように白い肌。
細く通った鼻筋に小さな唇、わずかに目尻の垂れた大きな目は煙るような睫毛に囲まれ、両の瞳は血のように赤い色をしている。
職人の粋を極めた西洋人形のような、白皙の美貌。
しかし真白い顔や首元には、猿の面と同じく、無数の黒い亀裂が走っていた。
「なんで……」
ピシピシと不吉な音を立てひび割れててゆく両手を見下ろし、蘇芳は呆然と呟く。
「なんですか、こりゃあ。まさか厄神が」
「いや、違う。これはおそらく、何者かが私の本体を――破壊したんだ」
かすれた声で続けられた言葉に、大隈は目を剥いた。
「……なんだって?」
蘇芳の体がぐらりと傾く。
とっさに大隈が抱え止める。
しかし土地神は意識を手放すように、大きな赤い双眸に瞼を下ろし、だらりと全身を緩ませた。




