第一話 地震のあと
目を覚ました時、見慣れない天井があった。
染みの位置まで覚えているはずもない。ただ、昨夜は何度も薄暗い天井を見上げ、そのたびにここが自分の家になったのだと思い直した。だから今朝は、起き上がるまでに昨日より少しだけ時間がかからなかった。
布団の脇には、開けかけの段ボールが三つ並んでいる。服、本、台所用品。黒い油性ペンで書いた文字は自分のものなのに、祖父が使っていた古い和室へ置くと、どれもよその荷物に見えた。
大学へ通うなら、実家よりこの家のほうが近い。春から一人で住むと決めた理由は、それで十分だった。
スマートフォンを探して、枕元ではなく畳の上から拾う。三月二十四日。大学から届いた案内を確認してから寝たせいで、充電は残り四十一パーセントだった。
入学手続きは終わっている。履修案内の確認期限もまだ先だ。それでも封筒の山が目に入ると落ち着かず、俺は布団を畳む前に一番上の書類だけ箱へ戻した。
台所へ行く途中、廊下の床が一度だけ低く鳴った。築年数のせいだろう。昨日から、歩くたびに違う場所が軋む。祖父が亡くなってしばらく空いていた家だから、慣れるまでは音の位置を覚えるしかない。
冷蔵庫には、昨日の帰りに買った水と卵、食パン、それに三日分くらいの総菜が入っていた。引っ越したばかりで料理まで始める気にはなれず、朝は食パンを焼くだけにする。ガス栓をひねる必要がないのも都合がいい。
トースターへパンを入れ、湯を沸かそうと電気ケトルのスイッチへ指をかけたところで、食器棚のガラスが細かく鳴った。
手を止める。大型車が通った時の振動に似ていたが、この家の前は細い町道で、朝からトラックが入ってくる場所ではない。
次の瞬間、足元が横へずれた。
膝が流れ、咄嗟に流し台へ手をつく。中の食器がぶつかり、背後で段ボールが倒れた。遅れてスマートフォンが甲高い警報を鳴らす。画面を確かめる余裕もないまま、俺は火を使っていないことだけ見て、勝手口から離れた。
揺れは一度では終わらなかった。畳の下を何か巨大なものが擦っていくように、家全体が軋む。昨日、壁際へ寄せた本の箱が廊下へ滑り出し、ふすまへぶつかって止まった。
倒れる物のない場所を選び、柱へ片手を添える。立っていられないほどではない。それでも、揺れの向きが途中で変わるたび、腹の奥が持ち上がった。
長かったのかもしれないし、一分もなかったのかもしれない。
食器棚の音が止まり、冷蔵庫のモーター音だけが戻ってくる。俺はすぐには柱から手を離さず、廊下と玄関を交互に見た。瓦の落ちる音はしない。焦げた匂いもない。水道管が破れた音も聞こえなかった。
スマートフォンはまだ震えていた。
画面には緊急地震速報が重なり、その下へ家族や知人ではなく、ニュースアプリの通知が次々に増えていた。関東で強い揺れ。国内各地で同時に観測。海外でも――そこまで読んだところで回線が途切れ、映像の読み込みが止まった。
「同時って、どこまでだよ」
声に出しても、家の中には冷蔵庫しか答えるものがない。
靴を履いて玄関を開ける。門柱は立っており、道路にも目立つ亀裂はなかった。向かいの家では、寝間着の上へ上着を羽織った男が屋根を見上げている。少し離れた場所から犬の鳴き声と、誰かが家族を呼ぶ声が聞こえた。
電線は切れていない。煙も見えない。玄関脇の外水栓を少し開くと、水は濁らずに出た。
家へ戻り、ブレーカーとガスの元栓を確かめる。倒れた箱を廊下の端へ寄せ、割れた皿を新聞紙で包んだ。やることを順番に片づけている間は、海外まで同時に揺れたという通知を考えずに済んだ。
最後に、家の裏を見ておくことにした。
斜面に近いこの家では、裏手の石垣が崩れるほうが怖い。昨日の夕方、荷物を運び終えたあとにも一度見ている。狭い裏庭の向こうに古い物置があり、その背後には苔のついた擁壁が続いていた。雑草は伸びていたが、人が通れる道はなかった。
勝手口を開けると、朝の冷気とは違う湿った空気が頬へ触れた。
物置の屋根から土が少し落ち、庭の鉢が一つ倒れている。擁壁に大きな崩れは見えない。俺はサンダルのまま庭へ下り、足元の小さな亀裂を避けて奥へ進んだ。
三歩目で止まった。
物置と擁壁の間に、昨日までなかった黒いものがある。
最初は、地震で土が崩れて穴が開いたのだと思った。けれど、穴の左右には濡れたような灰色の石が積まれ、上にも同じ石が渡されていた。崩落で偶然できた形ではない。人が一人、身体を屈めずに通れるほどの四角い口が、擁壁の途中へ埋め込まれている。
奥は見えなかった。朝の光が入口を越えたところで途切れ、黒い面になっている。
土の匂いはする。それに混じって、長いあいだ閉め切った地下室のような冷たい匂いがした。
俺は近づかず、スマートフォンを向けた。撮影画面には石の枠と暗がりが映る。画面越しに見ても穴は消えない。昨日の記憶が間違っている可能性を探して物置の位置を見直したが、壁に残る錆の筋も、傾いた雨樋も同じだった。
違うのは、その奥だけだ。
道路側でまた誰かのスマートフォンが警報を鳴らした。反射的に振り返り、揺れが来ないことを確かめてから、もう一度擁壁へ目を戻す。
暗がりの手前には、地震で落ちたはずの土も石片も積もっていなかった。
きれいに開いていた。




