第二話 地下の石段
結局、その日は穴へ入らなかった。夕方にもう一度だけ裏へ回り、入口の石へオレンジ色のテープを結んだところで足が止まった。懐中電灯を向けても、暗がりの奥は朝と同じように見えない。
それを確かめて、戸締まりをした。夜中に何度か目が覚めた。風が壁を擦るたび、裏手で石が転がった気がした。布団を出て窓の前まで行っても、カーテンには触れられなかった。朝になっても、勝手口のほうへ耳を澄ませていた。
怖くなくなったわけではない。見ていないままにしておくことが、昨夜より気持ち悪かった。顔を洗い、卵を焼いた。テレビでは昨日の地震を繰り返している。
『世界各地で同時刻に観測された揺れについて、現時点で原因は――』
画面の下には、各地の小さな被害が流れていた。割れた窓。止まった電車。山道の落石。家の裏に階段ができたという話はない。ニュースサイトでも検索した。似た写真はいくつか出たが、昔からある防空壕や、地震で露出した排水路ばかりだった。
引っ越した日に撮った裏庭の写真と、昨日の写真を並べる。同じ石垣の、何もなかった場所に、人が通れる穴が開いている。見比べても、どうやってできたのかは分からなかった。
大学の新入生用グループには、入学式や授業予定が変わるのかという書き込みが増えていた。まだ入学前だ。今日中に誰かへ返事をしなければならない予定もない。食器を洗い終え、スマートフォンを充電器から外した。
作業用の懐中電灯へ新しい電池を入れる。予備を二組。軍手。スマートフォン。並べてみると、それだけだった。登山靴もない。ヘルメットも、ロープもない。昨日まで必要だと思ったことすらなかった。
軍手をはめ、スマートフォンに正午のアラームを設定した。鳴る前には必ず戻る。誰にも知らせない代わりに、自分へ決めた期限だった。
「見るだけだな」
自分に言い聞かせるようにして、勝手口を開けた。外は晴れていた。日差しはあるのに、家の裏へ回ると空気が冷たい。入口は消えていなかった。
オレンジ色のテープが、石の縁でほとんど揺れずに垂れている。穴の周囲に新しい足跡はない。湿った土についた俺の靴跡だけが、昨日より少し崩れて残っていた。懐中電灯を点ける。白い光が、石段の途中で途切れた。
昨日見えた三段の先にも、同じ幅の階段が続いている。スマートフォンでも入口を撮った。撮影時刻と位置情報を確かめる。位置は自宅の敷地内を示していた。誰かへ送ろうとして、宛先を選べないまま画面を閉じた。
昨日の災害窓口にも、まだつながっていない。知り合ったばかりの大学の人間へ送れば、説明を求められる。俺にも何も答えられない。それだけではなかった。送れば、ここへ入るのを止められる気がした。
止められたくないと思った自分が、穴より少し気味悪かった。ポケットへ戻し、石段へ右足を置く。靴底が、乾いた音を立てた。土の感触はない。
二段、三段と下りる。入口の明るさが背中へ残っているうちは、それほど怖くなかった。石段は緩く左へ曲がっていた。六段下りたところで、家の裏庭が見えなくなる。代わりに、俺の影が壁へ長く伸びた。足を止める。
振り返れば、入口の空だけが四角く切り取られていた。すぐ戻れる。そう思ってから、もう一段下りた。壁は石で組まれている。
触れると冷たいが、湿ってはいない。目地に草も虫もなく、積まれてから何年経っているのか判断できなかった。懐中電灯を先へ向ける。光の円が階段を滑り、曲がり角の向こうへ消えた。俺は一段ずつ、靴底を置く場所を確かめた。
手すりはない。片手は懐中電灯で塞がっている。反対の手で壁に触れようとすると、今度は転んだ時に身体を支えられない。軍手があっても、たいして意味はなかった。十二段目を過ぎたあたりで、耳の奥が詰まった。
唾を飲み込む。治らない。外の音は、もう何も聞こえなかった。自分の呼吸と、服が擦れる音だけが近い。
スマートフォンを出す。圏外になっていた。時刻は動いている。方位磁針を開くと、針が北を指したあと、ゆっくり一周して止まった。
「当てにならないな」
声が壁に当たり、後ろから返ってきた。思ったより近い反響だった。階段が長いのではなく、周囲が狭い。そう考えた直後、もっと下のほうから、別の音がした。
硬いものが石へ触れたような、短い音だった。俺は息を止めた。音は続かない。昨日聞いたものと同じかもしれなかった。
音のしたほうへ灯りを向けた。人がいるなら呼びかければいい。けれど声は出ず、懐中電灯を握る手に力が入る。何があるのか、姿だけでも確かめたかった。
壁へ肩を寄せ、曲がり角から先を覗く。もう一段下りた瞬間、皮膚の表面を冷たいものが通り抜けた。
「っ……」
反射的に後ろへ下がる。靴の踵が段差へ引っかかった。壁へ肩をぶつけ、どうにか踏みとどまる。懐中電灯の光が大きく揺れた。何かに触れた感覚はない。
それでも、額から胸、指先まで、薄い膜を一枚押しつけられたような感触が残っていた。目の前に、淡い光が浮かぶ。
四角い。
壁に映っているのではない。顔を動かしても、同じ距離を保ったまま視界の正面へついてくる。文字が並んでいた。
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【大月 在真】
種族:人間
種族格:I
Lv:0
職業:なし
HP:100/100
魔力:20/20
攻撃:60
防御:40
素早さ:50
器用さ:50
知力:50
感知:40
基礎戦闘力:約230
装備:なし
スキル:なし
固有スキル:なし
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「……何だ、これ」
名前は合っている。職業が無職なのも、まだ大学へ入っていない今なら間違ってはいない。並んだ数字が何を示すのかまでは分からなかった。壁へぶつけた肩は、まだ鈍く痛んでいる。数字が浮いても、身体そのものが変わった感覚はなかった。
HPの数字へ意識を向ける。表示の下に、別の枠が開いた。
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【能力項目の説明】
HP:生命活動を維持し、身体の損耗に耐えるための余力。
魔力:スキルや術式の発動、維持に使う力。
攻撃:肉体による攻撃の出力。武器の性能は含まない。
防御:衝撃や損傷に耐える身体の強さ。防具の性能は含まない。
素早さ:移動、動作、身体反応の速さ。
器用さ:武器、道具、精密動作を扱う能力。
知力:情報の理解、記憶、術式処理に関わる能力。知識そのものは付与しない。
感知:気配、魔力、周囲の変化や危険を捉える能力。
基礎戦闘力:HP、魔力、攻撃、防御、素早さ、感知から算出した比較値。装備や条件補正は含まない。
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読めば、言葉の意味は分かる。けれど、何と比べればいいのかは分からなかった。五十が普通なのか、四十が低いのかも書かれていない。気持ちが悪い。光を手で払う。
指は何にも触れなかった。消えろと思うと、表示が薄くなった。もう一度確かめようとすると、同じ位置へ戻る。数字は変わっていない。
懐中電灯を握ったままなのに、装備はなしと表示されている。照らすための道具であって、ここで身を守るものではない。そう言われているようだった。その時、光が一度だけ弱くなった。心臓が強く鳴る。
懐中電灯を叩くと、元の明るさへ戻った。新品の電池ではなく、本体の接触が悪いらしい。予備があっても、本体が壊れれば終わる。暗闇の中でそれを想像すると、指の間に汗が滲んだ。
石段は、あと五段で終わっていた。下は細い通路になっている。天井は手を伸ばせば届きそうな高さで、左右の壁には浅い傷がいくつも走っていた。人の手でつけたものには見えない。
三本、四本と並び、石の表面を削っている。光を動かす。通路の先に、青白い明かりが見えた。遠くはない。
十歩か、もう少し。外から差し込む光ではなかった。懐中電灯を下げても、通路の先だけは青白く見えている。何が光っているのか。浮かんだ数字といい、この先には家の裏から見ているだけでは分からないものがある。
背後の曲がり角を確かめ、壁へ左手を添えた。ここへ来たことは、誰にも伝えていない。帰る道を見失わないよう、石の傷を目で辿りながら進む。通路の先は、小さな石室だった。中央に、腰ほどの高さの黒い台座がある。
その表面だけが、呼吸するように淡く明滅していた。台座の向こうには、閉じた石の扉が見えた。扉の下に、白い欠片が一つ落ちている。石には見えなかった。
俺は入口の前で立ち止まった。黒い台座へ懐中電灯を向ける。淡い光が、俺の手元へ集まった。




